小川町は古くから商業、地場産業が栄え、歴史上の重要な功績をあげた多くの人物が生まれあるいは在住している。鎌倉時代、仙覚律師は、万葉仮名(漢字)で書かれ難解だった『万葉集』4500首を読み解いた後、初めての本格的な研究書を小川で完成させた。青木てるは、小川村の旧名主家の母親で、工場は完成したが工女が一人も集まらない開業時の富岡製糸場の工女の募集に率先して周辺の村々を廻り、女性の工場勤務の道を切り開いた。あまり知られていない小川町ゆかりの2人の偉人について、新田文子小川町立図書館長にご説明いただいた。
[仙覚律師] 万葉仮名(漢字)で書かれ難解だった『万葉集』を解読
―律師とは。
新田 鎌倉時代の天台宗の僧の位です。
―仙覚律師は何をした人ですか。
新田 仙覚律師は『万葉集』のすべての歌を読み解き解読書を作った人です。
―読み解くとは。
新田 『万葉集』は4500首ほどの歌をまとめた日本で最古の歌集です。飛鳥時代から奈良時代中期にかけて我が国にまだ文字がなかった時代に口ずさまれていた歌を、中国から漢字が伝わってきた時に、漢字の音を当てはめて表記したものです。万葉集に使われた漢字の多くを万葉仮名と言いますが、非常に難しく、奈良時代の最後の頃には『万葉集』は読めなくなってしまいました。平安時代になり、日本独自のひらがなができると歌人たちは『万葉集』の歌をひらがなに置き換えて読み、百人一首にも残されています。また天皇の命で歌人たちが『万葉集』解読を試みますが、すべては読めませんでした。鎌倉時代になり仙覚が登場し、解読を成し遂げます。
―仙覚はどのような方法で読み解いたのですか。
新田 万葉の歌全部にカタカナでルビと句読点をつけて一文字一文字を明らかにしたのです。平安の時代も読み解きできていた歌もありますが、仙覚はそれはそのまま生かし、あるいは修正し、まったく読めていなかったものも含めて全て読み解いたのです。
文永6年(1269)、初めての本格的な万葉集研究書『万葉集註釈』を小川町でまとめる
―いつ頃のことですか。
新田 仙覚は建仁3年(1203)に生まれ、13歳で仏門に入り『万葉集』の研究を始めたとされ、生涯をかけて読み解きに取り組みました。4500首をすべて読み、51歳で後嵯峨上皇へ献上、63歳で「文永2年本万葉集」を完成させます。さらにその後文永6年(1269)、初めての本格的な万葉集研究書『万葉集註釈』を小川町でまとめています。
―仙覚は小川の人なのですか。
新田 生まれは常陸国(茨城県)と伝わり、鎌倉の比企谷(ひきがやつ)新釈迦堂に学僧として在住し研究を続けました。万葉集の完成後、こういう風に読み解きましたという解説書を小川町で書いたのです。
仙覚は比企氏の関係者
―鎌倉の比企谷は比企氏の館があったところですね。
新田 だから仙覚は比企氏の関係者だと言われています。比企一族が北条時政に滅ぼされた比企の乱の時に仙覚が生まれています。比企能員(よしかず)の内妻の子という伝承があります。母親が常陸国に行っていたために命が助かったわけです。比企氏の館跡には比企能員の末子、能本(よしもと)が現在の妙本寺を開きました。
―仙覚は妙本寺の僧ですか。
新田 能本は日蓮宗の寺として妙本寺を開きました。仙覚がいたのは新釈迦堂で妙本寺の北方高台にあった天台宗の寺で、仙覚は天台密教の僧侶です。天台密教は梵字などの難しい文字に精通しており、それが難しい万葉集を解く大きな力になったのではないかと考えられています。
仙覚が小川に来たのは和紙を求めたこともある
―仙覚はなぜ小川に来たのでしょうか。
新田 鎌倉から小川に来たのは53歳を過ぎていました。『万葉集註釈』は「麻師宇郷」(小川町)でまとめたことが奥書に明記されています。なぜ小川に来たのか。日蓮が『立正安国論』で述べたように鎌倉は騒乱の時代です。小川に来る2年前には大津波で鎌倉が被害を受けました。天台宗と日蓮宗の軋轢もあります。そういう中で鎌倉を離れ静かな地で研究の完成を目指したとされています。比企氏の本拠地にも近く、鎌倉の寺領地が小川にあった縁かもしれません。
しかし私は、まずは和紙だと思います。10冊の本を書くには膨大な和紙が必要です。当時和紙は非常に貴重なもの。その時は小川は100年くらいの紙すきの歴史がありましたから容易に調達できました。それから鎌倉に至る鎌倉街道が直接小川を通っており、何かがあったら鎌倉に駆けつけられるという条件がそろっていました。
中世の中城の跡(陣屋台)に顕彰碑
―小川のどこにいたかはわかるのですか。
新田 二つの説があります。一つは、今顕彰碑が建っている、中世の中城の跡(陣屋台)。そこは陣屋があったと考えられ、後に鎌倉の寺領地もありました。もう一つは、槻川という川のほとりに小さな庵があり仙覚堂と呼ばれています。
―顕彰碑はいつできたのですか。
新田 昭和3年(1928)、昭和天皇即位の大礼に際し、仙覚は功績が認められ従四位に追贈されました。これを讃える顕彰碑が佐佐木信綱(歌人・国文学者)と仙覚律師遺跡保存会によって建立されました。
―『万葉集註釈』原本は今どこにあるのですか。
新田 現物は冷泉家にあるのではないかと言われています。複写が、宮内庁と國學院大學にあります。
―仙覚はどこで亡くなったのですか。
新田 鎌倉です。小川にいたのは1~2年かと。『万葉集註釈』を書くために来たのです。
―小川町にとって仙覚とは。
新田 小川と仙覚は万葉集という歌を通じて関わっています。小川町としては偉大な鎌倉時代の僧侶が最大の業績をここで仕上げてくれたということを発信しています。
[青木てる] 流言飛語で富岡製糸場で働く工女が集まらなかった時立ち上がる
―青木てるはどういう人ですか。
新田 かつては埼玉県の女性の偉人と言えば青木てるでした。富岡製糸場と深い関わりがあります。明治になり生糸が売れるようになりましたが粗製濫造で、ちゃんとした機械による製糸業を興すため、渋沢栄一の提案で明治5年(1872)官営富岡製糸場が開設されます。 渋沢の義兄の尾高惇忠が工場長になって、フランスから機械を入れて建設が進みますがそこで働いてくれる工女が一人も集まりませんでした。300の釜に一人一人がついて糸をとっていくわけなので300人以上を必要としました。尾高惇忠は自分の13歳の娘を入れました。
―なぜ集まらなかったのでしょう。
新田 流言飛語と言いますか。指導したのがフランス人ですので、外国人と働く嫌悪感や、ぶどう酒から連想して若い女性の生き血が絞られるとのうわさが全国に広まります。また、工女は女工とは違います。新しい技術を覚えて郷里に戻って伝習することが必要なので、読み書きができることが条件でした。しかし明治の5年、まだ学校はありませんでしたからそれだけでも集めるのは大変でした。
59歳の青木てるが奔走して30名の工女を集める
―それに青木てるは応えたわけですね。
新田 青木家は小川村の戸主(旧名主)で生糸、紙を扱っていました。青木てるは、当時59歳で戸主の母親です。その人が新しい技術を学ぶということで近郷を奔走して30名の工女を集めて、歩いて富岡に行き集団で入所しました。
―尾高工場長から声がかけられたのですか。
新田 尾高さんは困りまして、自筆で手紙を書き、近郷の主立った戸長に送りました。青木てるは、それを見てこれだけ困っているのだから何とかしてやらなければと思ったのです。大変に苦労したのですが、青木家は人望のある家だったこともあり、30名が集まり、第一陣25名で集団入所をしています。
―小川は女性の教育が進んでいたのですか。
新田 小川は商人の町で武士はいませんから藩校はありませんでしたが、商業が発展した町場でしたから寺子屋が町中にありそこに女子を通わせる余裕があったのです。
孫娘が技術を伝承、小川に製糸の伝習所を開く
―青木てるの行動は義侠心によるのでしょうか。
新田 そうなんです。この後、流言飛語はおさまり大丈夫だということで300人あっという間に集まりました。武士が職を失っていますから、その子女が勤め先として入所したのです。青木てるは工女取締役に就任します。
―その後は。
新田 高齢でしたので3年弱で戻ってまいり、まもなく亡くなります。技術を伝承したのは、一緒に連れて行った孫娘青木けいです。てるの子、青木伝次郎が小川に伝習所を作って近郷の人たちに新しい生糸の作り方を教えたんです。繭を一カ所に集めて糸を作る埼玉県で初の施設ができました。
―青木家は今も。
新田 残っています。
女性が工場で働く先駆者
―青木てるの偉さはどこにあったと思いますか。
新田 この時代に、自身高齢で、村々を回って親を説得して若い人たちを集めるということは女性ができる最大のことではなかったかなと。国がよい工場を作ったなら行って習おうという、先見の明というか。それが日本の産業を育てた。女性が工場で働く先駆者だったと思います。青木てるは養蚕が盛んだった頃は埼玉県の小学校の道徳の教科書にも載る女性偉人でしたが、現在は荻野吟子にとって替わられました。
ヤオコー創業者 川野トモさん
―小川町はヤオコーとしまむらの創業の地でもあり、その後も人材を輩出しています。
新田 学校に行って話すと子どもたちに今の人なら誰をあげますかと聞かれます。私は川野トモさん(ヤオコー創業者、川野幸夫現会長の母)をあげます。あの人があったからこそ今のヤオコーがある。創業の地から駅前に出るという英断はトモさん。すべてのものを失ってもいいからと決断し説得したと言われています。とても、腰の低い人で、毎日お店に立っていました。ああいう人はいませんね。
(取材2024年4月)