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ふじみ野市の砂川堀流域 旧石器時代、縄文時代、奈良時代の製鉄跡、大井戸跡  遺跡が集中

所沢方面から流れ来て、三芳町、ふじみ野市、富士見市を経て新河岸川に注ぐ砂川堀。雨水下水の役割を持つ雨水幹線で川幅も狭いが、大井弁天の森付近は桜の名所として知られる。意外にも、砂川堀流域、特にふじみ野市内には、旧石器から縄文、奈良時代にかけての遺跡が多い。どうしてここには過去に人が集まり、施設が建設されたのか。ふじみ野市文化財保護審議会委員の坪田幹男さん(68)にご説明いただいた。

砂川堀(ふじみ野市の大井弁天の森付近)

狭山丘陵の北麓、早大構内近傍が水源

砂川堀は、狭山丘陵の北麓、早稲田大学所沢校地下の湿地より湧き出た雫を集めた堂入沼というため池を水源としています。北武蔵野の台地を等高線に沿って北東方向に流れ、新河岸川に合流する延長17㌔、流域面積44㌔㎡に及びます。

元々は自然の河川でしたが、今は雨水を流す下水、雨水幹線です。「堀」とは人工的に掘ったということです。西武線より西側は今も河川ですが、東側は下水です。

同じように狭山丘陵を水源とし武蔵野台地を横断し新河岸川に注ぐ川に不老(としとらず、ふろう)川があります。

旧石器時代は43遺跡

砂川堀から、歴史、地域が見えてきます。

砂川堀流域は原始古代から開け、旧石器時代はこれまで43遺跡が確認されています。

日本の旧石器時代は立川ローム(4万~1万3千年前)層中に確認されます。今より寒く 砂川が深い谷をなしている時代で、谷のところ(湧水地)にキャンプをしたりした痕跡が残っています。

湧き水の川は途中で途切れてしまうと言われていましたが、所沢市下富の駿河台遺跡は川がつながっていたことを示す貴重な遺跡です。砂川遺跡(所沢市)から出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定されています。

砂川遺跡から出土した石器(所沢市ホームページ)

縄文時代 東台遺跡

砂川堀下流部のふじみ野市、富士見市地域に、縄文時代の遺跡が集中しています。その中でも最大が東台遺跡です。

東台遺跡の一部(現在は大半が畑、奥の森は大井弁天の斜面林)

東台遺跡はふじみ野市の砂川堀が大井弁天(湧水池)と合流する崖上に立地します。旧石器時代から平安時代の複合遺跡ですが、なかでも縄文時代は面積18000㎡、周辺地域で最大、県内でも屈指の拠点集落です。縄文早期前半(1万年前)から後期前半(4000年前)までの長い期間にわたり、縄文中期(5500年から4500年前)だけで160軒の住居が発見されています。実際は300軒以上あったとみられます。

縄文時代東台遺跡の出土品(ふじみ野市大井郷土資料館)

多種多様な遺物が出土しています。このあたりは、湧き水が確保できたこと、クリ、クルミ、トチ、シイなど食用可能な豊富な照葉樹に恵まれていたこと、砂川流域で最大の崖に土器を作る粘土があったことなどが、集落形成に寄与したものと考えられます。

大井戸

ふじみ野市大井の砂川堀を横断する鎌倉街道沿いに、奈良時代に掘られた大井戸があります。8世紀後半に、鎌倉道と水脈の交点という交通の要衝に、官営の井戸として掘削されました。

砂川と鎌倉街道が交差する(右手に進むと左に大井戸)

「新編武蔵風土記稿」に「大井戸 村の東によりてあり 土地の人あるいはおゐどとも呼ぶ」と、村の名もこの井戸から取ったと書かれてあります。武蔵武士の大井氏も、大井を名乗っているのは井戸の存在が先にあったわけです。

武蔵野では狭山の堀兼の井戸とか七曲井とか、道の往来の要衝で、集落のないところに旅人ののどをうるおすため井戸を掘りました。その一つが大井戸です。

大井戸は存在はわかっていましたが、明確な位置は特定できていませんでした。1975年、旧大井町(現ふじみ野市)が発掘を行い、見事掘り当てました。

鎌倉街道から斜面を下り、砂利が敷かれた敷石面で水を汲む。直径14m、深さ3mのすり鉢状の大きな井戸です。

復元された大井戸

私は1975年大学生の時に大井戸発掘に参加したのがきっかけで町にお世話になることになりました。それ以来、様々な遺跡の調査に携わってきました。

大規模な東台製鉄遺跡

砂川堀沿い、自動車教習所(セイコーモータースクール)を見下ろす急坂、現在大型マンションの建つ場所に奈良時代の後半(8世紀後半から9世紀)の製鉄鋳造所がありました。当時のハイテク産業、「鉄」が作られ古代国家を支えましたが、東台は入間郡では唯一の製鉄所でした。

製鉄所跡にマンションが建つ

ここには以前木村可鍛という工場がありましたが、1990年頃マンションを建設することになりました。工場を壊した谷の中に製鉄所の跡が埋まっていた。足かけ3年で調査し、製鉄炉(砂鉄から鉄の塊を作る炉)7基、木炭窯(燃料となる木炭を作る)9基、粘土採掘抗4カ所など、総重量50㌧の遺物が見つかりました。

製鉄所跡マンションの一角、東台金山公園にある案内板

奈良時代の鉄は、砂鉄と薪、炉を作る粘土も必要で、砂川堀で削られた台地がうまく適合したということです。製鉄炉は砂鉄と炭を交互に入れ、足踏みふいごで火を入れると鉄ができるが炉の一部を壊さないと鉄が取り出せない。壁が金糞と呼ばれ、近くにも「かなくそ山」という地名が残っています。

ことわざに「砂鉄七里に炭三里」とされ、炭は近場から、砂鉄は七里(28㌔)が目安とされ、分析から加治丘陵(現在の入間市)あたりから供給されたのではないか。仏子という駅の近くには、今でも崖に砂鉄の露出する面があります。

今埼玉県内の製鉄遺跡は荒川右岸ではここだけです。古代の製鉄の遺跡も大井戸も砂川堀沿いに存在した。ともに官営の施設で近辺が地政的にも重要な位置にあったことがわかります。

坪田幹男さん

(本記事は、市民大学ふじみ野における坪田幹男さんの講話「砂川堀物語(その一)砂川から歴史をよみとく」=2022年6月11日=にもとづいたお話から作成しました。市民大学ふじみ野では11月12日、26日に現地砂川を訪ねて歴史・地形を実地踏査します)

(取材2022年8月)

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