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南畑小作争議と農民作家・渋谷定輔

渋谷定輔(しぶや・ていすけ、1905―1989)は、埼玉県富士見市南畑地域で大正時代に起きた「南畑小作争議」に参加後、農民運動家として活動した。そのかたわら、幼い頃から文学に興味を持ち、大正15年に日本初の農民詩集とされる『野良に叫ぶ』、昭和45年には過去に書きためていた日記『農民哀史』を出版、農民作家として名をなした。妻、渋谷黎子も農民運動の同志として活動し、若くして世を去った。

(以下の記事は、富士見市鶴瀬公民館の駒木敦子さんのお話、「富士見市史」、「富士見のあゆみ」、難波田城資料館資料、渋谷定輔著『農民哀史から六十年』などにもとづき作成しました)

富士見市立図書館展示

 

富士見市の南畑地域(当時南畑村)は小作人、小規模農家が圧倒的だった

富士見市の南畑地域(当時南畑村)は荒川と新河岸川に挟まれた低湿地で、古くから水害が多発していた。加えて、南畑村の土地所有状況(昭和6年)を見ると、3分の2の家が耕地を所有しないか所有しても2反以下の零細な土地である。そのため、小作人あるいは小規模自作と小作兼業農家が圧倒的に多く、多くの農家が経済的に苦しい状況に置かれていた。

県下最大地主だった志木の西川武十郎

地主は村内にもいたが、大半を所有していたのは村外・志木(当時志木町)の西川武十郎(通称西武=にしぶ)であった。当時南畑村に43町歩の耕地を所有していた。

西川家は、江戸時代初期に志木の引又に来住、新河岸川舟運の河岸場で水車業、酒造業、肥料商などを営み財をなした。分家にあたる武十郎は明治6年(1883)家督を継ぎ、肥料販売でつながりのあった農家から土地を買い集めた。大正12年(1923)の所有耕地は田115町歩、畑160町歩、埼玉県下最大の地主となった。地域は北足立郡、入間郡、比企郡、東京府などに広がり、小作人820名に及んだ。田小作地の37%は南畑村に集中していた。

なお、西川武十郎は東上鉄道(東武東上線)志木駅建設、埼玉育児院、埼玉会館建設に多額の寄付を行うなど篤志家の一面もあった。

志木市に建つ旧西川家潜り門

案内板

小作料の減免を求める南畑小作争議は大正11年に始まる

南畑小作争議は大正11年(1922)始まった。当時は不況で全国の農村で窮乏が進み、小作料の減免を求める争議が多発していた。

渋谷定輔『農民哀史から六十年』の記述によると、同年11月南畑村東大久保の小作人たちが「もらい湯」(お風呂を借りる)の場で「小作料が高過ぎるので減免してもらおう」と話し合ったのが発端という。渋谷は当時17歳である。最終的には全村の364人が小作人会を結成、小作料を2割7分引き(反当たり1石1斗→8斗)を要求。地主側は当初は拒否したが、12月村内地主については減免幅を圧縮して決着した。

西川家の43町歩の小作地を返還

大正12年になり、村外の西川家と交渉を開始したが折り合わず、地主側は小作側指導者を裁判に訴え強制執行(差し押さえ)などを行った。小作人側は89人が西川家の43町歩の小作地の返還を通告し耕作は放棄された。小作人たちは荒川河川改修工事の人夫として働き家計を維持し、争議を続けた。

大正13年4月になり、北足立郡長、入間郡長、関係村長・町長が共同で仲裁に入り、地主が要求を受諾、争議が終わった。南畑小作争議は期間が1年5ヶ月の長期に及び、小作地返還まで踏み込んだということで、全国的にも注目を浴びた。

富士見市立図書館ホームページより作成

渋谷は争議において若手農民として活動し、その後も農民運動の農民自治会創立に発起人として参加、翌年には南畑農民自治会を設立。さらに全国農民組合埼玉連合会に場を移し、「貧農一家救済運動」、西川家との小作料交渉などに取り組んだ。

1930年警察の暴力で頭部を負傷、1937年サハリン(樺太)からソ連に越境を計画して逮捕・投獄された。戦後は1955年日本農民文学会の結成に参加、1982年より思想の科学研究会会長に就任するなど市民・文化活動に携わる。平成時代になる直前の1989年1月、死去した。

大正15年、平凡社から詩集『野良に叫ぶ』を刊行

渋谷は農民の実生活に基づき詩を書き、争議中に作った73篇を編み、大正15年、平凡社から詩集『野良に叫ぶ』を刊行した。また渋谷は詩作と並行して日々の生活を描いた「農民日記」を書き綴った。しかし農民運動で警察に追われる身となり、日記のノートは南畑の実家の納屋の屋根裏でずっとほこりをかぶっていた。戦後の昭和34年、詩人の松永伍一氏が渋谷を訪ねてきてノートを発見、昭和45年になり『農民哀史』が刊行された。同書には、大正14年から15年にかけての生活と心情が具体的、赤裸々に描かれている。

鶴瀬公民館の駒木敦子さんは民俗学が専門で、『農民哀史』について、「農民運動の歴史という意義もあるが、同時に当時の年中行事とか食べ物とか農家の暮らしの記録になっている点でも貴重な資料だ」と語る。

渋谷定輔の著作(富士見市立図書館)

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渋谷黎子は定輔とともに農民運動に奔走

渋谷黎子は明治42年(1909)、福島県の大地主の家に生まれた。昭和2年、福島で渋谷の講演を聴き、文通を開始。定輔とともに農民運動に奔走、昭和5年(1930)結婚した。1932年の吉見事件で警察に検挙され、拷問を受けてから体調が悪化、1934年25歳で死去した。

黎子の墓は、東京・青山の解放運動無名戦士の墓と、南畑の渋谷家の菩提寺、金蔵院にある。

金蔵院(富士見市上南畑)にある渋谷定輔・黎子の墓

南畑農業は河川改修、農地改革、交換分合を経て規模拡大

南畑地区ではその後、荒川、新河岸川の改修で水害が減少、また戦時中の耕地整理で湿田から乾田に変わり、収量が増加した。戦後は農地改革後、全村300町歩の交換分合を実施、機械化、効率化が進んだ。

現在の南畑(富士見市みどり野東から渋谷の生家方面を望む)

市立図書館に渋谷定輔文庫

渋谷の死後、所有していた資料を富士見市が一括受け入れ、平成6年、市立図書館に渋谷定輔文庫が設置された。また市内の鶴瀬コミュニティセンターロビーには、渋谷と親交のあった画家阿伊染徳美氏が、定輔・黎子夫妻とポーランドの女性社会運動家ローザ・ルクセンブルクの姿を描いた150号の巨大な絵が掲示されている。

(取材2022年4月)

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