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縄文時代のムラ  水子貝塚 (富士見市) 荒川沿い低地は海だった

富士見市にある水子貝塚。縄文時代の貝塚を伴う集落(ムラ)の跡だ。規模が大きく、当時のムラの様子がよくわかるということで国の史跡に指定されている。現在は海なし県の埼玉だが、縄文時代には遺跡の近くを流れる荒川・新河岸川沿いには、海が押し寄せてきていた。今遺跡は公園として整備され、竪穴式住居も復元されている。展示を見学し周辺の地形を見渡すと、自然と人間との関わり、悠久の歴史を感じさせられる。水子貝塚について、富士見市立水子貝塚資料館学芸員の隈本健介さんにご説明いただいた。

竪穴式住居の跡に貝塚

―こちらは「国指定の史跡」ということですが、どういうことなのですか。

隈本 史跡とは遺跡のある土地などに指定がかかるもので、国指定史跡はクラスで言うと重要文化財に当たります。特別史跡は国宝級となり、貝塚の特別史跡は千葉の加曽利貝塚などがありますが貝塚としてはごく少数です。

―水子貝塚はどういう遺跡ですか。

隈本 縄文時代の貝塚を伴う集落跡になります。ここの貝塚の特徴は、竪穴式住居がまず建てられ、時間がたち別の場所に家を移すと、残った穴には貝が捨てられていく。だから貝塚を掘ると必ずと言ってよいほど竪穴式住居跡が出てきます。ということは、貝塚の位置関係を見ると、当時の家の位置関係がわかることになります。集落、ムラの配置とか構成がわかる、しかも貝塚がよく残されている、ということが史跡に指定された重要な要因です。

約6000年前、縄文時代前期

―縄文時代ということですが時期は。

隈本 縄文時代は6期に分かれていますが、水子貝塚は今から約6000年前、縄文時代前期にあたります。その時期以外の住居跡なども確認されていますが、中心になるのは貝塚を伴う大規模な集落跡で、黒浜式土器の時代です。この時期は貝塚が伴いますが、次の段階の諸磯(もろいそ)式土器の時代では貝塚が全く残されていません。諸磯式の時代にも続いて定住していたわけですが、海がひいてしまって貝塚を形成することがなくなっているのです。

地球が温暖で縄文海進

―貝塚ができた時は近くに海があったということですか。

隈本 水子貝塚ができた時期は地球が今より温暖で、海水が内陸部に入り込んでいました。これが縄文海進と呼ばれる現象で、現在の荒川流域の低地が海で東京湾につながり、ピーク時には川越の手前くらいまで海が行っていました。この入江を古入間湾と呼んでいます。

当時の想定される地形(水子貝塚資料館展示)

―ここは海岸沿いの丘の上だったということですね。

隈本 現在は、荒川・新河岸川が流れ、その西側に崖があり、崖より上のところに遺跡があります。当時は、崖より下には海が進出していたわけです。

干潟が発達し貝や魚が獲れる

―生活するのによい環境だった。

隈本 海からは魚などの海の資源が得られ、干潟が発達していたので貝も獲れる。そして貝塚が残される。周りは森が続いていた状況と考えられており、木の実をたくさん落とす落葉広葉樹やクリ、クルミなどがたくさん生えていたため、今のコメの代わり、主食とした。森には動物もいて、肉や革製品を得た。そういう風に暮らしていたのではないかと。

―今の荒川沿いは、他にも縄文遺跡が多くあるのですか。

隈本 富士見市、志木市、ふじみ野市も、西側は武蔵野台地、東は荒川が流れる低地で構成されています。ただ、住むのによい場所とは、海だけでなく真水が得られる場所です。飲み水がないと人間は暮らしていけません。そのため湧き水が近くにある場所になります。水子貝塚の場合は、ここから200mほどの場所に2カ所の湧き水があったとみられます。一つは昭和30年代あたりまでは水が湧き出ており、「桜」という地名が残っていました。「水子」という地名は「水のあるところ」という意味です。湧き水がある場所は富士見市に多く、富士見市には貝塚を伴う遺跡が18カ所、志木、ふじみ野はそれぞれ2カ所なので、富士見市は近辺では暮らしやすい場所だったと考えられます。

貝塚(住居)は環状に配置、60カ所確認

―水子貝塚には住居はいくつあったのですか。

隈本 貝塚は今60カ所確認されています。それぞれの下に竪穴式住居があると考えられ、少なくとも60軒の家はあったはずです。ただ同時に60軒の家があったのではなく、おそらく200年前後の長い年月をかけて形成されたものであり、一時期で言うと5軒から10軒くらいの家が建っていたと考えています。

―住居はどのように配置されているのですか。

隈本 住居は環状に、真ん中の広場を意識しつつその周囲に配置されています。直径が160m、そこに60軒ですから、10m程度の間隔で1カ所という感じで貝塚が見つかっています。

―竪穴式住居なのですね。

隈本 この時代は竪穴式住居が一般的だったと考えられます。竪穴式住居は、まず深さ1m前後の穴を掘る。そして柱穴を掘り、柱を立てる。それで上の屋根を支える。穴があった方が寒さ対策になるわけです。

再現された竪穴式住居内部

―住居の面積は。

隈本 大小あるのですが、この貝塚で標準的なのは長辺が6~7m、短辺が5~6mくらい。10坪、20畳くらいです。

屋根は茅葺きと推定

―屋根はどうだったかわかるのですか。

隈本 得られる情報は住居の穴の大きさと柱穴の位置だけです。そこから先は推定になります。茅葺き屋根は明治大正昭和までありましたからおそらく昔から使われていたのではないか。縄文時代も葦、ヨシ、ススキなどは自生している材料です。古墳時代の鏡に、現在復元しているような形の屋根が描かれていることも補強材料です。

貝はヤマトシジミが90%

―遺跡からはどんなものが出土していますか。

隈本 当時の人たちが使っていた道具類の土器、石器、骨や角を使った骨角器がまず見つかりました。また、食べていたものとしては、出土した貝殻の種類からどんなものを食べていたかがわかります。ヤマトシジミが90%、残りはカキとハマグリ。ヤマトシジミは淡水と海水が混ざるような場所で生息します。他に人骨が見つかりました。飼っていた犬の骨も。これらから当時の人の背格好などの情報も得られたのです。あとは、花粉分析といって、当時の地層から花粉をとってきて、どんな樹種が多かったかを分析しました。その結果、クリの木が圧倒的に多い。周りにクリが自生していたのか、人の手が加わり管理されていたかはよくわかっていません。

復元された貝塚の貝

花粉分析から想定される当時の食用木の実など

昭和12年に考古学者が貝塚を確認

―水子貝塚遺跡はいつ発見されたのですか。

隈本 昭和12年に考古学者が貝塚を確認し13年に調査していますが、明治27年に周辺の遺跡を探索していた人がここに来て貝塚がたくさんあることを発見しています。もちろん地元の人はずっと以前からあそこは貝がたくさん出るということはわかっていたわけです。

―畑だったのですか。

隈本 周りと同じように畑です。人家は北側道路沿いだけでした。

―土地を買収した。

隈本 昭和42年に発掘調査が終わり、44年に国史跡に指定。以後、市が25年かけて公有地化、平成6年に「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」としてオープンしました。

水子貝塚公園全景

―広さは。

隈本 約4万平米です。

―住居を復元している。

隈本 この遺跡は当時のムラの状況、環状集落の配置をよく表しているのが特徴です。当時のムラの様子に近い形で復元したいということで整備しました。集落があり貝塚が残され、周りには森が広がっていた。なるべく当時の落葉広葉樹の森にしようということで木を植えています。

(取材2021年2月)

水子貝塚発掘と史跡指定に尽力した小泉功先生のインタビューはこちら

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