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発智家700年の歩み 清和源氏の末流 製鉄用木炭生産のため笠幡に

発智(ほっち)庄平(1864-1936)は川越市笠幡にある名門ゴルフ場霞ヶ関カンツリー倶楽部の開設に尽力したことで知られる。発智家は地元の大地主だったが、元々は現在の長野県軽井沢町を領地とする武士で、14世紀初めに笠幡に移り住んだ。なぜ発智家はここに来たのか。2023年8月6日、日高市の高麗神社で開かれた第8回高麗偉人伝講演会で、地域史研究者の杉田修一氏(元中学校長、元日高市教育委員会学校教育課長)が「発智家700年の歩み」と題して発智家の歴史を解説した。それによると、発智家は元は「植田氏」で清和源氏の末流を名乗り、製鉄業の燃料となる炭の生産のため幕府により笠幡に移封された。その後材木業で財を成し、江戸時代は川越藩の有力スポンサーとなり、幕末から明治にかけては尊皇家として明治政府を支えた。以下は杉田氏講演のあらましである。

発智庄平特別展看板
発智庄平特別展
杉田修一さん
杉田修一さん

 「発智家700年の歩み」と題してお話する。資料の1つは、幕末から明治まで生きた24代発智光正(庄兵衛、発智庄平の祖父)が自ら書いた「発智光正履歴書」、それと発智家の系図を用いる。私は入間台地を4年間電動自転車で見て回った。いたるところで水があふれる暮らしやすい場所で、716年に高句麗の人達が移り住んだ時もここは未開の原野ではなかった。正安元年(1301)、発智家がここに来て480町歩の土地を開いた時も原野ではなかった。8世紀の渡来人、それから600年後に発智家は何をしにここへ来たのか。

植田氏が発知村に入り発地と改姓

 発智家長屋門の前にあった永代常夜灯が今入間市の高倉寺にある。その脇に初代発智光規について、「信濃國佐久郡発知村」出身と書かれている。発地は今軽井沢の地名になっている。しかし正式には「発知」だった。発智本家にある「五福具備記」には「発智郷」とあるが、光正も使い分けを理解していなかったと推察する。

 発知は元々地名だった。そこに1186年植田公(とも)光が発知村に入り発地と改姓する。植田氏は諏訪氏の系統の埴田(はにた)氏と考えられる。1285年、5代の光規が霜月騒動で功を挙げ、信濃国守護の北条家から発知村を賜り、さらに武蔵国高麗郡に移り住み、笠幡の地を開き、発智に改名した。 

発智家系図
発智家系図

ルーツは清和天皇の2代目の末

なぜ発智家なのか。幕府(北条氏)の意図は何だったのか。

発智家(植田家)のルーツは清和天皇の2代目の末にあたり、源氏の末裔であることは知られていたのでは。発智4代の妹は足利基氏(尊氏の次男、鎌倉公方)に嫁いでいる。10代は北条氏康の家来。発智家は笠幡に来る前に吉見氏、高麗氏と姻戚を結び、笠幡に来てからは足利氏、後北条氏とも結んでいる。最後は秀吉の小田原攻めの時小田原城にこもっている。発智家と天皇家の系統が武蔵の国で知られていて、だからこそ700年にわたり戦乱の中で絶えなかったのではないだろうか。

入間市黒須の繁田家と深い関係

それでは、発地(智)光正が書いた履歴書を詳しく見たい

光正は文政8年(1825)に生まれ明治21年(1888)に亡くなった。29歳で家を継ぎ笠幡村名主、明治になり、笠幡周辺の頭取名主、土地持ちの代表格として活躍した。

発智光正
発智光正

発智家は尊皇思想を受け継いでいた。明治15年、皇居造営の際、光正は姻戚関係のあった榎本武揚を訪ね献木献金を申し出た。発智の献木は坂下門の渡り廊下の一部として使われた。

発智光正履歴書
発智光正履歴書(皇居への献木)

入間市黒須の繁田(はんだ)家は発智家と関係が深い。発智庄平は繁田家で生まれ、母は発智家の出だ。繁田家は姻戚関係が広く深く、皇室までつながる。繁田・発智の尊皇思想は庄平にも継がれている。

発智家は尊皇家として様々な場面で明治政府を支えた

明治16年、明治天皇が飯能に赴く際繁田家で休憩することになり、繁田武平(発智庄平の弟)が光正に発智家の家宝である紫宸殿年中行事絵の巻物をお見せしたらどうかと依頼した。天皇は御覧になり、同巻物は今も皇居に保管されている。

 幕末から明治にかけ、発智家は尊皇家として様々な場面で明治政府を支えた。

笠幡に雑木林の開墾のために来た

発智光正履歴書(殖産)
発智光正履歴書(殖産)

 発智家長屋門にあった永代常夜灯の右面に発智家のいわれが刻まれている。ここで注目するのは「夫れ太郎(初代光規)樹藝の業を起こし・・」のくだりだ。発智家は初代から樹芸に励んできた。つまり発智家は、系図上からも選ばれたが、笠幡に雑木林の開墾のために来たのである。ナラ、クヌギ、竹などの木は炭の材料で、彼らは炭を作りに来た。当時大量の炭を必要とする産業は製鉄業。関東山地は100年で約6㌢上昇しており、入間台地は今より83㌢低かった。入間川、高麗川には上流から運ばれてきた大量の砂鉄が沈殿していたはず。狭山に行くと九頭竜神社とか、黒須など、砂鉄に関わる地名が残る。柏原に鋳物の集団が住み着いた。高麗川も入間川も製鉄業にとって大切な川だった。

大地主となった発智家
大地主となった発智家

 発智家が来たのは天皇の血を引いている系図もあるが、雑木林を開墾し、周辺の製鉄業に木炭を供給するため。それが笠幡に来た大きな理由だった。しかし砂鉄が流れてしまい、発智家は方針を変え、樹業(材木業)に熱心に取り組む。江戸時代になると木場に支店を出し財をなしていく。川越藩にとって西の発智家と東の奥貫家は重要なスポンサーで、何かあると両家の資金提供を受けていた。

 700年続いた尊皇家・発智家は、各時代で地域にとって大きな役割を果たし、歴史遺産として将来に伝える資格のある家であると考える。

名門霞ヶ関カンツリー倶楽部開設に尽力 大地主で篤志家であった発智庄平翁

発智家系図

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