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古墳時代の横穴墓群 吉見百穴(吉見町) 戦時に大規模軍需工場建設

埼玉県吉見町の名所、吉見百穴(ひゃくあな)。古墳時代の横穴墓群が丘陵斜面に蜂の巣のように密集している不思議な風景は、初めて見るとアッと驚く。教科書にも載る吉見百穴の発掘の歴史とあらましについて、吉見町埋蔵文化財センターの太田賢一さんにご説明いただいた。また同地には戦時中大規模な軍需工場が建設された。軍需工場の歴史についても併せて紹介する。

吉見百穴は古墳時代後期(6世紀末から7世紀後半)に造られた横穴墓群で、大正12年(1923)に国の史跡に指定されている。最初の本格的調査は明治20年(1887)で、当時東京帝国大学(現東京大学)の大学院生であった坪井正五郎(人類学者、考古学者)が地元の協力を得て全面発掘した。坪井氏はアイヌ民族の伝承に出てくるコロボックルの住居跡であると主張した。

吉見百穴

住居か墓かで論争

―坪井先生は住居跡だと考えていたわけですね。

太田 坪井先生は墓ではなく住居跡だと考えていましたが、当時から墓だという反論もありました。

吉見百穴は墓

―戦後、吉見百穴の調査、環境整備に金井塚良一先生という方が貢献されたということですが。

太田 金井塚先生は松山高校の教員から埼玉県の職員になられた方です。古墳時代の研究をされており、吉見百穴の研究を進められた方です。

複数埋葬の場合も

―横穴墓ということですが、どのような構造になっているのですか。

吉見百穴の構造(吉見町資料より)

太田 横穴墓の入口は直径1㍍程度ですが、内部はもっと広くなっており、羨門(せんもん)、羨道、玄室から成り、玄室は高さ1.5㍍、幅2㍍、奥行き2~3㍍が平均的規模です。横穴墓の入口には、板状の蓋(閉塞石)がはめ込まれていたと考えられています。

―一つの横穴墓には何人埋葬されていたのでしょうか。

太田 一人とは限りません。玄室の両側に棺座があるタイプもあります。

―墓の形は。

太田 長方形、台形、楕円形などいろいろで、天井もドーム型、アーチ型などいくつかの形式があります。

豪族の墓

―横穴墓はいくつあるのですか。

太田 現在219基が確認されています。坪井先生は237基発見しましたが、戦時中軍需工場を掘る時に一部壊してしまいました。

―見学者は中に入れるのですか。

太田 入れる横穴墓もあります。

―これは庶民の墓なのでしょうか。

太田 そうではありません。当時の豪族の墓です。吉見町や隣の東松山市には百穴以前に造られた古墳が多くあります。

百穴は豪族の墓だった

斜面に元々通路があった

―急な崖にどのように掘ったのか不思議です。

太田 今は岩がむき出しになっていますが、元々は土がかぶっていたのです。発掘した時土を全部取ってしまいました。斜面上に穴を横穴墓に沿ったスロープ状の通路があったと考えられます。そのため横穴墓は斜行する平行線上に配列されています。

―吉見百穴の重要性はどこにありますか。

太田 日本における考古学の研究の初期の頃に調査されたものであること、219基の横穴墓が密集して造られていること、様々な形態の横穴墓が分布していること、などでしょうか。

―百穴の下に戦時中軍需工場が建設されたのですか。

太田 大宮(現さいたま市)の中島飛行機の工場を移転させたといわれています。

―何を作ったのですか。

太田 飛行機の部品ですが、本格的に稼働する前に終戦となりました。

―今も残っているのですか。

太田 現在も残っていますが、危険防止のため、中に入って見学することはできません。

地下軍需工場跡入口

―天然記念物のヒカリゴケが自生しているのですか。

太田 いくつかの横穴墓で発見されました。昭和3年に国の天然記念物に指定されています。

ヒカリゴケ自生地

入場者は年間6万人に

―現状町として吉見百穴に関し取り組んでいることは。

太田 今は保存管理と活用です。

―見学者はどうですか。

太田 ピークは年間20万人くらいの入場がありましたが、現在は年間6万人くらいの方がいらしています。

吉見百穴に面積1万坪の巨大地下軍需工場が建設された

(吉見百穴展示室のビデオ、『埼玉県謎解き散歩』(新人物往来社)による)

昭和19年~20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られた。空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で、縦と横の洞窟が交差し碁盤の目のようになっており、洞窟の総延長8400㍍、工場面積1万坪という大規模なものだった。

太平洋戦争の末期、東京都武蔵野市にあった中島飛行機工場は空襲によって生産能力が10分の1に落ち込み、大宮(現在のさいたま市)にあった工場の移転の必要性が急速に高まり、掘削に適した吉見百穴地域に軍需工場が造られることになった。

吉見百穴下軍需工場の図(吉見百穴展示室)

軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1300㍍部分で、この工事を「吉松工事」と呼んだ。大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区。ダイナマイトが使用され、作業はツルハシなどを使った人力で進められたが、工事は難航した。20年7月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めたが、本格的な生産活動に移る前に終戦となった。

この工事に携わったのは全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者と1000人の内地人で、昼夜を通した突貫工事。昭和51年8月、掘削工事に従事した河亨権さんが帰国に際し、日本と朝鮮との友好と平和を希望して百穴にムクゲの木を植えられました。

日本と朝鮮の友好と平和を祈念して植えられたムクゲの木

                  (取材2023年1月)

出土品を展示する売店「発掘の家」

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