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長谷川清の地域探見(15)数寄者評論家大塚融氏に聞く:加賀正太郎と「蘭花譜」(その2)

前回は、長年にわたり数寄者を研究してきた大塚融氏が関西を代表する数寄者の一人に選んだ加賀正太郎氏のプロフィールと彼が自ら栽培した洋蘭を木版画の画集に企画した「蘭花譜」との出会いを語っていただきました。今回はその続編で、洋蘭を栽培した温室が設置された大山崎山荘の建設と加賀正太郎が取り組んだ洋蘭栽培についてお聞きします。

 大山崎山荘の建築

長谷川 素朴な質問ですが、加賀正太郎はなぜ大山崎に山荘を造ったのでしょう。

大塚 「蘭花譜序」には、加賀正太郎が「蘭花譜」を製作した経緯が書かれています。要約すると、正太郎は東京高商を卒業して直に加賀商店の経営者に就任しており、慣れない仕事に忙殺されて好きな山歩きなど自然から遠ざかってストレスが高まって健康も害したことから週末の安息所として山小屋を造ったとのことです。大山崎山荘に関するいろいろな資料にも、正太郎が東京高商を卒業して大阪に戻った1911(明治44)年にこの土地を手当てし、翌年1912(大正元)年には山荘を造り始めたと書かれています。

でも私からすると、これは如何にも手回しが良すぎて不自然です。私が大山崎山荘の土地を持っていた3人のうちの1人の子孫に取材した話では、明治30年代に加賀家と加賀一族に売却したそうで、地元の3人から加賀家が購入した土地は合計数万坪あったようです。

長谷川 今日はこの大山崎山荘美術館の入り口にある売店でパンフレットを購入しました。パンフレットには1912(大正元)年に建設工事が始まり、5年後の1917(大正6)年に一期工事が完成したと書かれています。最初に正太郎が造った山荘はどのような建物だったのですか。

大塚 最初に造った山荘は、正太郎が英国で見た鉱山の鉱夫の住居を模した2階建ての建物でした。それが完成した7年後には鉄筋コンクリート造りの3階建てに造り替える工事に入り、全ての工事が終了したのは1932(昭和7)年頃だとされています。最初の建物を含めて考えると、建物だけで20年程、正太郎は庭作りにも十分な時間をとって約30年もの歳月をかけて正太郎はこの大山崎山荘を造ったわけです。

正太郎に限らず、当時の数寄者たちには普請道楽という言葉があって、建物造り、庭作りを最高の趣味と心得てました。正太郎も、新たに造った3階建ての山荘については内外とも全て独自の考案を施しています。建築家でもない作庭家でもない若い正太郎の構想力には驚くばかりです。「蘭花譜序」には「一木一石の末に至るまで、余独自の考案設計に成るものである」とし、続いて「その善悪は知らない」と書いています。この「善悪は知らない」というのは実にいい言葉で、私には「他人様なんかどうでもいい。俺は俺の美の中で生きているのだ」と断言する数寄者の姿勢を表しているように思います。

緑に囲まれた大山崎山荘

長谷川 正太郎の美的センスが優れている割に、「大山崎山荘」というネーミングは平凡な印象がありますが・・・

大塚 山荘の名称には経緯があってね。最初の建物を造っている最中の1915(大正4)年春、夏目漱石が京都に来た折に正太郎は漱石を招きました。著名な作家に自分の構想を語り、敷地からの眺めも見てもらいたかったのでしょう。正太郎は漱石にこの山荘の命名を依頼しました。漱石は帰京して一か月後、漢詩などから由来した14の名前を候補に書いて正太郎に送りました。

でも、正太郎は漱石の案がどれも気に入らず、地名をそのまま取り入れて「大山崎山荘」としました。これを知った漱石はかなり立腹したようですが、私も漱石が考えた14のネーミングは西欧文化に馴染んだ正太郎の美意識とだいぶ距離があるように思います。むしろ正太郎が付けた大山崎山荘の方が自然で、私には正太郎のセンスが生きているように思いますね。たとえ名声のある人物でもおのれの美の基準で評価するという正太郎の信念はアッパレです。

 驚嘆すべき加賀正太郎の美的センス

長谷川 では、大山崎山荘全体を通じて大塚さんが正太郎の美的センスを一番感じる部分はどこですか。

大塚 大山崎山荘の魅力はJR山崎駅脇の踏切を越えて急な坂を登るところから始まります。いま我々は、大山崎山荘に入ってきました。私が最初に来た頃は大山崎山荘の敷地に入ると、大きな木をグルッと廻ってトンネルを抜けるようになっていました。私はそれがすごく好きでしたが、残念ながら現在は大木が伐採されてしまいました。トンネルの手前の右側には大きな石がはめ込まれトンネルに向かうに従って少しずつ石が小さくなっているのが分かると思います。トンネルを抜けるとすぐ左手に石とは対照的に土坡(どは、土の堤)があって、登るに従って道は狭くなっていきます。トンネルを抜けるときから異界に誘われることを感じさせます

トンネル入り口に立つ大塚融氏

進んで自動車のガレージ近くまで昇ると、山荘に隣り合わせた宝積寺(ほうしゃくじ)の三重塔が見えてきます。宝積寺は真言宗の寺院で、三重塔は1604(慶長9)年に一夜で建立されという伝説があって、重要文化財に指定されています。大山崎山荘の方から見ると、この三重塔は「洋」の世界の中にポンと「和」の世界があるように思わせます。そのコントラストがものすごく印象的ですね。

本館に向かう門柱のすぐそばにいまは道路の下に水が流れてますが、この水の流れは加賀正太郎の時代には道路の上を流れ、自動車で来た時タイヤを洗うように工夫されていたと、養子の行三さんが教えてくれました。

そこから大山崎山荘に目を移すと、門柱を越えると大きな木があり屋敷全体を隠しています。大木があることで、人に門柱と本館との距離を実際以上に長く感じさせ、本館を大きく見せているわけです。こうした空間を作り出す正太郎という人は、目線の位置が人間に与える心理をよく理解していると思います。

大山崎山荘入口の風景

正太郎は美学を正式に学んでいるわけではないのですが、船場の第一級のところに住んでいたという育ちのよさ、また東京でも知られた数寄者だった叔父の加賀豊三郎から受けた感性をすごく感じますね。

長谷川 では大山崎山荘の内部に入りましょう。大塚さんがこの建物で正太郎の美意識を感じるところはどういう部分ですか。

大塚 柱や梁などの骨組を外観に露出させたハーフティンバーと呼ばれる山荘の外観もさることながら、建物の内部は正に正太郎の世界だね。私が初めてこの建物に入った時は正太郎の美的センスに驚かされて、本当に別世界にいるような気持ちになりました。

一般的には玄関の正面に二階に続く階段があるのが普通ですが、大山崎山荘の場合は玄関左側に階段を隠すような形で桟が何本あって、それが衝立のような役割をしています。本館の手前の大木と同じように、人に距離感を与えて実際以上に奥行きを深く見せています。

長谷川 建物に入ると直に太い木の柱と梁が目に飛び込んできます。

大塚 この太い柱と梁は印象的だね。私が疑問に思っているのは、この部材が何処から来たのかということ。この建物を造った当時の加賀商店は、奈良県の東吉野村に大規模な山林を持っていたので、この部材もそこから運ばれてきた可能性があると思っています。出来たら東吉野村に行って確かめたいのですが、所有した山林の区域にあった山小屋も村役場の職員には分からないというので困っています。

建物の造りも演出が見事でね、以前は階段を昇って三階まで行くことができ、階段を一段一段踏みしめると山を登るような気分になったものでした。

現在は二階までしか公開してませんが、正太郎夫妻が寝室にしていた部屋に接続したバルコニーに出ると、パッと明るい空間に出て展望が開けます。その演出が素晴らしいですね。木津川、宇治川、桂川の三川が合流して淀川となる展望、対岸の石清水八幡宮のある男山も大山崎山荘の借景に取り込むこのランドスケープは見事です。世界でもそうないでしょう。

加賀正太郎が書いた「蘭花譜序」に「(大山崎山荘は)イギリスのウィンザー城にも劣らない景色だ」と書いてある箇所があります。私はそれを確認するためウィンザー城にも行きましたが明らかに大山崎山荘のほうが良い。ウィンザー城からはテムズ川もわずかに望めますが、展望に立体感が全然なく平面的です。この大山崎山荘には人間の目を喜ばす魅力があるね。

大山崎山荘二階バルコニーからの眺め

長谷川 室内の装飾も随分手が込んでいますね。

大塚 室内意匠には正太郎のこだわりが凝縮されています。本館の窓にはステンドグラスが使われて、荘重な印象だね。玄関から入ってすぐの大きな部屋は居間として使われていましたが、中央にある大きな暖炉の縁周りには今から1900年ほど前の中国後漢時代に墳墓に使われた画像石(絵画が刻まれた石材)が使われています。インテリアの多くは千代子夫人と一緒にヨーロッパに行って購入したそうで、ドイツではシャンデリアを探すのに首が痛くなるほど上ばかり見ていたとのことです。壁はさんざん考えた末、漁網を貼り付けたと、加賀正太郎の養子・行三が教えてくれました。

 行三さんの息子の誠太郎さんはこの山荘で生まれ、育ち、スイス人と結婚後はチューリッヒで亡くなるまで暮らしてた人ですが、「大山崎山荘で育ったおかげで、ヨーロッパの大きな屋敷に招かれても、気おくれすることがまったくなかった」と、私にこの山荘の魅力を語ってくれました。

長谷川 大山崎山荘の話しは尽きませんが、大塚さんが最初に大山崎山荘を訪れた当時は、現在の姿とだいぶ違っていたと思います。一番の違いは。

大塚 本館とそれに繋がるアプローチの一部は当時の様子を残していますが、その他は全く変わってしまいました。特にいま美術館のあるところには、桜と見間違えるような大きな梅の木があって、初春の山荘の景色をキリッと締めてました。ところが、梅の大木を伐採しただけでなく、美術館の壁は醜いむき出しのコンクリートです。また展示する美術品も開館以来「民芸」が主流で、加賀正太郎のセンスとはかけ離れてます。かつて「蘭屋敷」とも言われた山荘に、洋蘭の演出が全くないことに、ただただ呆れます。

長谷川 確かに。正太郎の美的センスが集約されている大山崎山荘に河井寛次郎や濱田庄司など日本的な作品が飾られているのは何かチグハグな感じがしますね。モネの睡蓮も良い絵ですが、日本にはかなり多くの美術館がモネを所蔵していますので、大山崎山荘で見てもあまり印象に残りません。私としては、「蘭花譜」の基になった洋蘭や関連する美術品が展示されていると良かったように思います。そこで次に、大山崎山荘で加賀正太郎が栽培していた洋蘭についてお聞きしましょう。

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 蘭栽培は大山崎山荘構想の柱

大塚 加賀正太郎の洋蘭栽培は、学生時代に訪れた英国で見た洋蘭に刺激されたことは既に話しましたが、正太郎は東京から大阪に戻った時には自分も洋蘭を育てようと決心していたようです。事実、大山崎に最初の山荘を造り始めた翌年の1914(大正3)年には小さな温室で洋蘭の栽培を始めたことが「蘭花譜序」に書かれています。その後、正太郎は山荘を3階建ての洋館に造り替え、洋蘭栽培用の温室も山荘の裏手に3棟も設置して、その延べ面積は170坪程の広さになったようです。広い温室で沢山の洋蘭が栽培され、その中の代表が「蘭花譜」に姿を残しているわけです。

大山崎山荘については多くの方々が語っていますが、皆さん建物のことばかり言っていて洋蘭栽培のことは無視する傾向があるように思います。長く加賀正太郎と「蘭花譜」の取材をしてきた私からすると、大山崎山荘の建物は全体の一部で、洋蘭栽培と合わせて考えないと加賀正太郎が構想を理解できないと思っています。

長谷川 大山崎山荘と洋蘭栽培の関係を前面に据えて考えた方は大塚さんが初めてでしょう。そうした大掛かりな構想を考える際に、正太郎は誰に相談したのでしょう。

大塚 正太郎の師匠になったのは、在日英国人二世のハンス・ハンター(日本名・範多範三郎、はんた はんざぶろう)です。彼の兄が範多龍太郎で、住友海上や日立造船の前身となる会社を創業しています。父親のエドワード・ハンターは明治初期に神戸で活躍した貿易商で、彼の邸宅は現在、神戸の王子公園に移築され、国の重要文化財になっています。

加賀正太郎が範多範三郎と出会った経緯はよく分かりませんが、正太郎が山荘に小さな温室を造った当時、範多範三郎は大阪の上本町5丁目にあった自宅に温室を設けて洋蘭を栽培していました。その中には自分の名であるハンス・ハンターと名付けられた洋蘭も栽培していたようで、千代子夫人は洋蘭のハンス・ハンターが咲くと範多範三郎から正太郎に見に来てほしいという電話が毎日のように架かってきたという思い出話を残しています。加賀正太郎(1888年生れ)と範多範三郎(1884年生れ)は、年齢が近かったこともあってウマがあい、二人の交流はかなり活発で、正太郎にゴルフを教えたのも範三郎だったようです。範多範三郎との交流を通じて正太郎は、大山崎山荘を「蘭屋敷」として造り替えて洋蘭の栽培を本格化しようと考えるようになったのかも知れませんね。(次号に続く)

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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