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長谷川清の地域探見(1) 小鹿野町への誘い 両神山、子ども歌舞伎、わらじかつ丼

世界でも日本でも魅力的な地域がある。実際に訪れれば歴史、風土、文化、産業、食べ物、その多くに発見があり、とりつかれる。新しい土地だけでなく、身近な場所でも改めて深掘りすれば隠れた歴史に驚かされたりする。地域問題に詳しく各地を訪ね歩いている長谷川清さん(地域金融研究所主席研究員・元松蔭大学教授、和光市在住)に、キラリと光る地域を紹介していただく。第1回は、小鹿野町である。

関越自動車道を花園インターで降り、渓谷美で有名な長瀞(ながとろ)に向かう国道140号線の途中から2005(平成17)年に完成した皆野寄居バイパスに移り、平日は通行量が少なく、車は自動車専用道路を気持ちよく疾走する。皆野寄居バイパスを抜けると車窓には小鹿野盆地が広がり、車はいつしか宿場町の雰囲気を残している町並みに入る。花園インターから小鹿野町(おがの)までの移動時間は30分程であった。

小鹿野町の町並み

小鹿野町の歴史と自然

小鹿野町は、埼玉県の北西部に広がる秩父郡に属し、秩父市と群馬県神流町(かんなまち)に接している山里の町である。町の東部は、盆地の一画として田畑や住宅地となっているが、町の8割以上は深山の色濃い山間地で、谷筋には急流が流れる自然美が展開している。

小鹿野町の歴史は古い。平安時代中期に編さんされた「和名抄」には町名の元になった「巨香郷こ(お)かのごう」の名が記され、秩父から信州に抜ける街道が走って小鹿野は市場町として発展した。街道を通じた他国の人々との接触は、小鹿野の住民に進取の気性をもたらした。明治時代には、山間地にもかかわらず西秩父地域の中心地として教育・産業など各分野で近代化が進められ、1869(明治2)年には町を名乗っている。埼玉県内で町を名乗ったのは川越に次ぐ2番目のという。

秩父郡の中核として小鹿野町は、周辺の自治体との再編成を繰り返しながら町域を拡大していった。近年では2005(平成17)年に両神(りょうかみ)村と合併、小鹿野町の総面積は171km2と埼玉県で面積が一番広い町となり、人口(2020年4月1日現在、住民基本台帳)も1万1,351人と1万人を超えている。

小鹿野町の広い町域には、今でも豊かな自然が残されている。文筆家で登山家だった深田久弥が、自ら登山した山々の中から百座を選び出して随筆集「日本百名山」を出版したのが1964(昭和39)年であった。日本百名山には秩父三山の一つであり、山岳信仰の霊峰として知られる両神山(りょうかみさん、標高1,723m)を選んでいる。深田は両神山について次のように評している。

「大よその山は、三角形であったり屋根形であったりしても、左右に稜線を引いて山の体裁を作っているものだが、両神山は異風である。それはギザギザした頂稜の一線を引いているが、左右はブッ切れている。あたかも巨大な四角い岩のブロックが空中に突き立っているような、一種怪異なさまを呈している。」

両神山の異様な姿は秩父山系の中でも際立ち、信仰の山として古くから崇められてきたのも頷ける。両神山への登山道は幾つかるようだが、小鹿野町からの登山道がメインルートとされ、春秋の登山シーズンになると多くの登山客で賑わいをみせる。

両神山の眺め(写真:小鹿野町観光協会HP)

日本では深田の百名山に刺激されたのか、全国各地の風景だけでなく草花、町、祭りなど多岐にわたるテーマ毎に百の代表を選ぶイベントが行われている。近年公表された自然風景や地形の百選には、小鹿野町から両神山の他にも森林浴の森日本百選として四阿屋山(あずまやさん)、日本の滝百選として丸神(まるがみ)の滝、平成の名水百選として毘沙門水(びしゃもんすい)、日本の地質百選として秩父が海だった太古に形成された積層の露頭「ようばけ」が選出され、それぞれの分野で小鹿野町の名は知られている。  

毘沙門水は料理をまろやかな味に

このうち毘沙門水は石灰岩の岩山である白石山(はくせきさん・通称、毘沙門山)の中腹に水源があり、そこからパイプで水汲み場まで引かれている。毘沙門水の水質は、カルシュウム分が多く、ナトリウム、マグネシウム、カリウム等が極端に少ないのが特徴で、硬度は110とやや高い。毘沙門水は、水量も豊富で渇水期でも涸れることがなく、毘沙門様が守る「神の水」とも呼ばれて毘沙門水を汲みに来る姿が絶えない。我々が取材した際にも、熊谷から来たというご夫婦が、沢山のペットボトルに毘沙門水を取水していた。聞くと、毘沙門水を使った料理は味がまろやかになって美味しさが増すため、毎月のように取水に訪れているとのことであった。

毘沙門水の取水場

毘沙門水の取水場は小鹿野町の倉尾地区にあるが、小鹿野町の中心部から倉尾地区へ抜ける町道が不通となっているため、車で向かう場合は県道71号線(高崎神流秩父線)を使うことになる。このルート沿いにある「合角(かっかく)ダム」を過ぎると倉尾地区に入り、「毘沙門水」への案内板も設置されている。

毘沙門水の取水は無料とされているが、取水場には貯水タンクをステンレス製に変更する協力金として100円以上寄付しいとの馬上水道組合のポスターが掲示されている。毘沙門水を使ったミネラルウォーターが販売されているが、販売量は少ないようなので、毘沙門水の味を試したい方は容器を持参して取水場に行かれることをお勧めする。

誇るべき小鹿野歌舞伎

小鹿野といえば歌舞伎のまちと思い浮かべる方も多いだろう。全国で百以上も残されている地歌舞伎の中で、演技水準の高さや地域社会の浸透度から小鹿野歌舞伎は高い評価を受けているからである。

小鹿野歌舞伎は江戸中期に始まったと言われ、二百数十年もの歴史がある。明治・大正期には舞伎一座が秩父地域から群馬県まで興行して人気を博したという。小鹿野歌舞伎は、1975(昭和50)年に埼玉県指定無形文化財、1977(昭和52)年に埼玉県無形民俗文化財の指定を受けて、地域の文化として評価されている。

小鹿野の町内には、10か所もの常設舞台が残っており、小鹿野歌舞伎はこれらの常設舞台で演じられるだけでなく、郷土芸能祭や掛け舞台、祭り屋台(山車)でも演じられ、町民に親しまれている。驚くことは、歌舞伎公演で必要な義太夫・下座・化粧・振付なども全て町民がこなし、かつ歌舞伎に使用される衣装・かつら・大道具などが町内の人々がほぼ自前で制作していることで、小鹿野歌舞伎は事情通から「地芝居のデパート」とも呼ばれている。

文化庁が2015(平成27)年度に作成した「全国の地芝居(地歌舞伎)調査報告書」には、活動中の地芝居(地歌舞伎)として小鹿野町の歌舞伎保存会5団体と女歌舞伎、子ども歌舞伎等の歌舞伎サークル6団体、計11団体が掲載されている。これは同一自治体内で報告された地芝居(地歌舞伎)の団体数としては日本で一番多く、如何に町民の間で歌舞伎が大切にされ、小鹿野歌舞伎が地域に根付いた伝統文化であることを示している。

小鹿野歌舞伎を町の文化使節として派遣する「地域間文化交流事業」も好評を博している。小鹿野歌舞伎は、これまでに県内外80数か所で公演を行い、2018(平成30)年にはロシアのウラジオストクまで遠征公演に出かけて喝采を受けた。これら歌舞伎を中心とした地域性を生かした伝統文化によるまちおこし事業の成果が認められ、1993(平成5)年度に埼玉県「ふるさと彩の国づくりモデル賞」を受賞、1995(平成7)年度から県補助事業として「歌舞伎のまちづくり」の指定を受けている。

 小鹿野歌舞伎は、小鹿野町に点在する神社の大祭を中心に演じられ地域住民の季節行事として暮らしに溶け込んでいる。小鹿野歌舞伎のシーズンは春と秋に分けられる。

春のシーズンは3月の日本武神社例大祭で幕を開け、翌4月の小鹿神社例大祭は小鹿野春祭りとして小鹿歌舞伎の大イベントで初日には町内各所で屋台に芸座・花道を組んだ屋台歌舞伎が演じられる。その余韻は5月の木魂神社大祭まで続く。秋のシーズンは10月の奈良妙見宮例大祭で演じられる女歌舞伎と諏訪神社例大祭から始まり、11月の歌舞伎・郷土芸能祭、12月の飯田八幡例大祭に展開する。

 残念ながらコロナ禍により昨年から小鹿野歌舞伎の公演は全て中止されている。その中で、昨年12月6日に小中学生がメンバーになっている小鹿野子ども歌舞伎の発表会が小鹿野観光交流館の裏舞台で演者の保護者を対象とした小規模な発表会が行われた。発表会の模様はユーチゥーブにアップされている。「白浪五人男稲瀬川勢揃(ぞろ)い之場」を熱演する子供たちをご覧あれ。

小鹿野子ども歌舞伎の発表会(写真:小鹿野町HP)

わらじかつ丼

同じ食べ物でも地域により特徴がある。筆者は学生時代に山梨県塩山駅前の食堂で食べたかつ丼は今でも忘れられない。かつ丼を頼んだら丼ご飯の上にきざみキャベツとウスターソースがかけられた食べ物が出てきたからだ。それまでかつ丼と言えば、玉ネギ一緒に割下で煮て溶き卵でとじた切り分けた豚カツを載せた丼物しか知らなかった私には一生モノの思い出となっている。その後、社会人になって各地には色々なかつ丼が存在することを知ると、日本の食文化が多様であることをかつ丼を通じて再認識させられた。

 そうした食文化の多様性を実感させるのが小鹿野町の「わらじかつ丼」である。わらじかつ丼は、昔の日本人が足に履いたワラジに由来し、一杯のかつ丼に甘辛い醤油タレを潜った二枚のトンカツが載っている。小鹿野町でわらじかつ丼を提供している食堂では、丼に載せるツンカツを「一枚、二枚」ではなく、「一足、二足」と数えるのが普通という。

小鹿野町のわらじかつ丼

小鹿野町には、わらじかつ丼を提供する飲食店が十数件あり、店毎にタレの味が異なっている。以前、小鹿野町を訪れるバイクライダーが目立つ時期があった。彼らは秩父地域の山岳道路をバイクで疾走することに喜びを求めたのであろうが、秩父の食も誘因の一つで、小鹿野町では店毎に異なる味のわらじかつ丼を目当てにしたライダーも少なくなかったようだ。

 本稿を執筆するために、筆者は何度か小鹿野町にお邪魔した。小鹿野町を歩くたびに、時間がゆっくり流れるような気がしてくる。目立った観光施設もなく、古びた町並みの何処にでもあるような町であるが、人の郷愁を感じさせる空気に満ちている。コロナ禍の終息が見通せず、遠出もままならない今日この頃、東上線沿線から少し離れた小鹿野町を訪れては如何でしょう。ただしマスクは忘れずに!

               (掲載2021年4月)

長谷川清の地域探見(2) 泡盛古酒は地酒の逸品

長谷川清さんのプロフィール

明治大学大学院政治経済研究科経済学専攻修士課程修了。全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。

ベトナム・ハノイ市旧市街にて

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