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長谷川清の地域探見(22) 川越の第八十五銀行

今や関東を代表する観光地となった川越市一番街は蔵造りの街並みと有名ですが、東上線川越駅から歩き、一番街に入ると程なく右手に石造り風の洋風建築が建っています。この建物は、さいたま市浦和区に本店を置く埼玉りそな銀行が所有するもので、元々は1918(大正7)年に川越の第八十五銀行の本店として建てられた歴史的な建物です。

川越第八十五銀行の本店(資料「第八十五銀行史」)

ドーム付き塔屋がある第八十五銀行本店

この建物の建築家は保岡勝也(1877~1942)です。保岡は1900(明治33)年に東京帝国大学工科大学を卒業した後、三菱合資会社に本社技師として入社しました。保岡は明治20年代半ばより建設が始まった丸の内オフィス群の建設には技師長として活躍し、オフィス建築の第一人者と呼ばれました。1913(大正2)年2月に自身の建築事務所を開設すると、第八十五銀行と川越貯蓄銀行の両経営陣から新本店の設計を依頼され、川越貯蓄銀行本店は1915(大正)年、第八十五銀行本店は2年後の1918(大正7)年3月に竣工させました。また当時絹織物で全盛を極めていた埼玉県秩父市にあった秩父銀行も保岡勝也に本店設計を依頼、1916(大正5)年に竣工させるなど、埼玉県の金融機関と縁の深い方でした。

保岡が設計した第八十五銀行本店は、ドームの付いた塔屋に特徴があります。ルネサンスとイスラム調の折衷式ともいえるエキゾチックな風貌で、27メートルの高さを誇る商都川越を象徴する存在でした。建設当時は川越のどこからでもこの塔屋が眺められ、町民は誇らしく思ったことでしょう。

第八十五銀行の歴史

第八十五銀行は、1878(明治11年)の創業した第八十五国立銀行が前身です。銀行名に「国立」と書かれたのは、日本の銀行業にとって法的な根拠とる法律が明治5(1872)年に制定された「国立銀行条例」だったからです。現代社会では銀行を一応信用力がある金融機関であると人々から評価されていますが、江戸から明治に移ったばかりの時代、大部分の日本人は銀行など見たことも聞いたこともありません。どこの馬の骨とも分からない「銀行」を人々は信用する訳がありません。このため政府は、正式な法律である国立銀行条例に基づいて国が免許を与えた信用できる銀行であることを示すため銀行名に「国立」を付けさせ、かつ免許を与えたのは地域の人々から信頼を寄せられている名士や素封家に限定したのです。

明治時代半ばになると全国に沢山の私立銀行が設立されると、番号が付いた国立銀行はナンバー銀行とも呼ばれて名門銀行の扱いを受けました。ついでに言うと、番号の順番は政府が認可した順番のように思われがちですが、実際はよくわかりません。一部には明治維新に協力した藩に設立された銀行番号は若く、徳川幕府側に立った藩の銀行は番号が大きいという向きもありますが、余り説得力はありません。

第八十五国立銀行の場合、川越市内およびその周辺に江戸時代の川越藩につながる豪商や地主が暮らしており、彼らが主体となって銀行の開設を出願したのでした。創立時の資本金20万円でその約半分は、江戸時代の武士たちにその身分を放棄する代わりに政府が与えた士族禄でした。でも士族一人当りの出資は零細なものが多く、大株主は川越藩御用の豪商が占めました。肥料商・船問屋の綾部利右衛門、米穀商・酒製造業の横田五郎平衛、呉服商の黒須喜兵衛、呉服商・船問屋の沼田治兵衛、菓子商の山崎豊などの面々で、彼らの多くは銀行の取締役になって経営に携わりました。

銀行の経営状態

現代の銀行は、大勢の預金者から預かった預金を貸出や有価証券投資に廻して得られる資金利ザヤが収益の柱になっています。でも、銀行制度が誕生して間もない明治初期の銀行は大分事情が違っていました。預金は大部分が政府からの公金で、貸出の原資は銀行自身の資本金でした。

第八十五銀行国立も発足当初の資本金20万円が貸出の原資となりました。幸いなことに、当時の川越には川越藩が残した社会的な基盤があって物流や商業に携わる事業者が集積し、かつ農業や繊維業などの産業活動がしっかり行われていました。このため、事業者からの資金需要が旺盛で、1879(明治12)年6月に行った決算では貸出金が12万4,757円を記録し、預金は1万1,100円と貸付金の1割以下に止まりました。

預金が貸出金に届かず、貸出の原資を資本金に求める状況は第八十五国立銀行だけではありません。当時営業していた150行を超える国立銀行の大部分が同じような状況でした。銀行に預金が集まるようになったのは、明治時代も半ば近くになって明治政府の行政が浸透し、銀行が社会的な評価を得るようになってからの話しです。

国立銀行の銀行券発行

第八十五国立銀行を含めた国立銀行には現代に繋がる銀行業務の他に特別な役割がありました。それは自らが銀行券(紙幣)を発行する役割です。明治政府の歴史的な評価については色々な見方があると思いますが、徳川幕府を軍事力で覆して成立した革命政府であることは大方が認めるでしょう。明治政府には薩摩藩や長州藩のバックアップがあるというものの、政府自身の財源はなく、かつ倒幕活動を行うために為替会社(民間事業者)に発行させた兌換券を回収して明治政府が公認した銀行券を流通させる必要がありました。

そこで明治政府が考えたことは、政府の態勢が整って中央銀行が出来るまでの間、民間銀行を先行して設立することでした。銀行の預金業務を通じて兌換券を回収するため国立銀行が発行する銀行券との交換を義務付けたのです。第八十五国立銀行も政府から16万円の発行枠を与えられて銀行券を発行しましたが、当時の日本には偽造されない精緻な銀行券を印刷する技術がありません。このため政府は新紙幣の用紙製造・印刷をドイツの証券印刷会社に委託し、納品された紙幣に明治通宝の文字印章などの加刷作業を日本で行いました。この作業の監督を担当したのが紙幣寮(現国立印刷局)です。

第八十五国立銀行発行の銀行券

全国に153行も設立された国立銀行が銀行券を発行したことで兌換券の改修は順調に進みました。でも1877年(明治10年)の西南戦争の戦費を調達するため明治政府が銀行券を大量に発行させたことから1879年(明治11年)から1880年(明治12年)にかけてインフレーションが発生、紙幣価値が大幅に下落して紙幣に対する信用は大きく揺らいでしまいました。これに対処するため政府は、紙幣整理、増税を柱とする財政圧縮策(松方デフレ)を強行し、1882年(明治15年)6月に銀行券の発行を日本銀行に独占権を与える日本銀行条例を制定、同年10月に日本銀行を発足させました。翌1883年(明治16)年5月には国立銀行条例を改正して国立銀行の銀行券発行の特権を廃止して、国立銀行は私立銀行として営業するよう求めました。

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地域の中核銀行に成長

国立銀行条例の改正を踏まえてて第八十五国立銀行は、1898(明治31)年1月に名称を第八十五銀行と改め、銀行券の発行も止めてしまいました。この時期、政府の財政圧縮を受けて景況は悪化、地域を襲った風水害の被害もあって銀行経営は苦難を余儀なくされました。その中で、経営陣の適切な差配により第八十五銀行の業績は着々と伸長し、熊谷・秩父・本庄・松山・志木など県内各地に支店を開設して営業地域を拡大しました。

昭和に入ると日本の銀行界は金融恐慌に襲われましたが、第八十五銀行は経営の健全性を維持し、むしろ周辺の中小銀行を合併・吸収して地域の中核銀行に成長していきました。1927(昭和2)年3月に比企銀行を合併、1927(昭和2)年8月に深谷銀行を合併、1937(昭和12)年4月に川越渡辺銀行を買収、1937(昭和12)年9月に浦和商業銀行を買収、1937(昭和12)年11月に西武銀行と秩父銀行を買収という具合です。

しかし、昭和に入り日中戦争が激化すると政府は米国との戦争を意識した体制整備を進めました。その一環として大蔵省は、1936(昭和11)年に国債消化の推進と生産力拡張に向けた資金調達力を上げるために一つの県に一つの銀行という一県一行主義を掲げました。銀行間の競争は戦争遂行の妨げになると考えて、府県もしくはそれに準じる地域ごとに銀行を集約して政府や自治体行政に協力させようとしたのです。

既に行われていた経済統制の強化により、取引先の事業活動停止や低利国債の引受けを強制など地方の私立銀行は経営が困難化して政府が進める統廃合に応じざるを得ない状況に追い込まれました。第八十五銀行も例外でなく、1943(昭和18)7月1日、忍商業銀行、飯能銀行、武州銀行と合併して埼玉銀行に再編成され、新銀行の本店は武州銀行の本店が充てられ、第八十五銀行の本店は埼玉銀行川越支店となりました。

埼玉県初の登録有形文化財に指定

戦争が終わり平和な時代が戻ると、埼玉銀行は全国地方銀行協会に加盟して地方銀行として経営を続けましたが、経済活動の集中が進む東京に進出して大企業との取引きを強化し、1969(昭和44)年4月に都市銀行に転換して同協会から離脱しました。しかしこの積極策が裏目となって一部大企業向けの貸出が不良化、1991年4月には協和銀行と合併して協和埼玉銀行となり、翌1992年にあさひ銀行と銀行名も変更され、銀行名から埼玉の文字が消えてしまいます。

そうした状況にあって第八十五銀行本店の建物は、その歴史的な価値が再評価され、平成8(1996)年に埼玉県で最初の登録有形文化財に指定されました。この事態を当時の経営陣がどう受け止めたか分かりませんが、私は再編成により銀行経営の主体性が希薄になった同行にとって、第八十五銀行本店の文化財指定が顧客との関係を思い起こす切っ掛けになったのではないかと(勝手に)想像しています。世界中どこに行っても、地域社会における銀行業の基本は、その場限り、一過性の取引きではなく、長い時間をかけて銀行と取引先が互いに信頼関係を築くことが基盤になっています。埼玉県がその例外である筈はありません。

協和埼玉銀行があさひ銀行に行名変更した10年後の2002年8月、りそなホールディングスの100%子会社として埼玉りそな銀行を設立して、2003年3月にあさひ銀行の一部営業を継承して今日の埼玉りそな銀行が出来上がりました。同行の営業地域は、旧埼玉銀行とほぼ同じで埼玉県を主力とされています。私には、紆余曲折はあったものの、元の鞘に収まったような印象があります。

そうした埼玉りそな銀行ですが、建物の老朽化が進んだ旧埼玉銀行川越支店(第八十五銀行本店)の営業を2020(令和2)年6月に終え、耐震工事やリニューアル工事を済ませたうえで旧川越支店を創業ベンチャーのコワーキングスペースや商談会・展示会の場として再活用するとのことです。事業を運営するのは同行の100%子会社「株式会社地域デザインラボさいたま」で、本稿がネットにアップされる頃には同社の業務がスタートしている筈です。同社がどの様な仕事をされるのか、私には分かりませんが川越地域の将来を担う元気な事業者を輩出されるよう期待しています。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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