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長谷川清の地域探見(8)松永安左ヱ門と柳瀬荘

1875(明治8)年、長崎県壱岐島の豪商の家に生まれた松永安左ヱ門は、日本の戦前戦後を通じて経済社会の基盤である電力産業を牽引して「電力の鬼」と呼ばれました。安左ヱ門は、昭和初期の日中戦争から太平洋戦争にかけた戦時下を東上沿線の柳瀬村(現在の所沢市大字坂之下)に造った山荘の柳瀬荘で過ごしています。96歳の長寿を全うした松永安左ヱ門は、日本の電力産業に貢献しただけでなく、耳庵(じあん)という号をもつ茶人としても名を知られた人物で、その舞台となったのが柳瀬荘です。

松永安左ヱ門と電気事業

今の若い方々は松永安左ヱ門(以下・安左ヱ門)のことを知らない向きが多いと思います。そこで最初に経営者安左ヱ門の経歴と柳瀬荘を作るに至った経緯を簡単に紹介しておきましょう。

松永安左ヱ門は、20歳前後の多感な時期に慶應義塾で学び、福澤諭吉の薫陶を受けて社会に出ると諭吉の養子である福澤桃介と一緒にいろいろな事業を手掛けました。経営者として浮き沈みを経験しますが、石炭事業で成功を収めた後、1909(明治42)年35歳の時に路面電車を運営する福博電気軌道株式会社を創業します。同社の経営は、福澤桃介が名目上の社長で実質的な経営は専務取締役の安左ヱ門が担当しました。

当時は電力事業の黎明期で、現在のような大手電力会社が地域の電力を独占的に供給するのではなく、全国各地に中小の電力会社が乱立していました。路面電車を運営する福博電気軌道も電力は自家賄いですが、石炭事業で成功した安左ヱ門にとってエネルギー事業が肌に合っていたのでしょう。以降、安左ヱ門は電気事業やガス事業の経営に携わり、生来からの勝気な性格もあって各社の事業規模を急速に拡大しました。

とりわけ電気事業には力を入れて福博電気軌道を足掛かりに積極的な合併戦略を展開、1922(大正11)年には中部から関西、九州にかける広い地域で電力を供給する東邦電力を発足させました。当時、東邦電力は五大電力会社の一つに数えられる大電力会社です。福博電気鉄道を創業してから僅か13年で大電力会社を作り上げた安左ヱ門の活躍は見事でした。

東邦電力が発足した当初の時期、安左ヱ門は副社長でしたが、実質的な経営は安左ヱ門が行い、1928(昭和3)年には社長となりました。安左ヱ門をトップに置いた東邦電力は首都圏への本格的な進出を進め、先行する東京電燈との間で激烈な競争を展開しました。その頃、安左ヱ門が経営に関与した電力会社は東邦電力だけでなく全国に及んでおり、安左ヱ門は戦前期の電力業界を代表する経営者になっていました。

積極的な経営展開から種々の話題を振りまいていた安左ヱ門ですが、企業経営者としては有能な人材を配置して着実な組織運営を実践していました。安左エ門を支えた代表的な人物は一子夫人の実兄である竹岡陽一(後に東邦電力社長、四国電力会長)で、他にも海東要造(後に東亜合成化学会長、中部電力会長)ら松永四天王と呼ばれる若手が脇を固めました。

また安左ヱ門は科学的な経営に務め、電力会社の中で初めて調査部門を設けて内外の電力事業を調査させ、同時に先進技術を積極的に導入しました。1922(大正11)年の同社設立から同社解散までの20年年間に延べ40人以上の社員を米国、欧州に派遣して最先端技術を調査・研究させたのもその一環です。そうした努力の成果が1924(大正13)年に東邦電力が設置した名古屋火力発電所です。同発電所は、当時の最新技術を活用した大型発電所で、電力の安定供給に威力を発揮しました。

東邦電力の名古屋火力発電所 (出典:Wikipedia)

脇道に逸れますが、安左ヱ門は芸者遊びが大好きで各地に馴染みの芸者を囲っていたとも言われています。当然トラブルもあったでしょう。大事にならずに済んだのは安左ヱ門を裏で支えていた一子(かずこ)夫人の存在があったと言われています。夫人は気丈な性格で、奔放に走りがちな安左ヱ門をしっかりコントロールして、きつく安左ヱ門を叱ることもあったようです。一子夫人が1958(昭和33)年に亡くなった際に安左ヱ門は、自身の大事業として「このばあさん一人を守り通してきたこと」と言ったとか。この話が事実であるならば、それは安左ヱ門流の強がりではないでしょうか。

柳瀬荘の建築

本題に戻ります。経営者として多忙な日々を送っていた安左ヱ門は、機会をとらえて欧米に出張して現地の電力会社を視察、電力経営者達と交流しました。海外出張を通じて安左ヱ門は自社の経営を振り返り、新たな成長に繋がる着想を得ていましたが、欧米の経営者達が長い休みを郊外の別荘で過ごして自身の心身をリフレッシュさせ、かつ賓客を別荘に招いて親交を築く姿を目にして強い印象を持ちました。

特に1929(昭和4)年に行った欧州視察旅行では、訪問した経済人の別荘と同じような西洋風の別荘を日本に持ち込もうと、旅行中にストーブやマントルピースの部品や調度品などを購入し、設計の参考にするため別荘の写真も集めました。帰国した安左ヱ門は、直ちに思い描いた西欧風の別荘を作ろうとしましたが、残念なことに当時の日本国内には適当な建築家が見当たりません。まして西洋建築を手掛けた大工もいないことからこの企ては頓挫してしまいます。

でも安左ヱ門は、郊外の別荘を作ろうとする意欲は失いません。西洋建築の代わりに、当時財界人の間で人気だった田舎家を別荘に活用する方向に転換したのです。経営の第一線で活躍していた安左ヱ門には、決断の速さと思考の柔軟性が備わっていたことを物語っています。

そして出会ったのが、当時、東久留米の柳窪にあった大型の田舎家でした。この建物は、地元の名主だった村野氏が1844(天保15)年に建築した屋敷で、明治期に家主が東京で生活していたため放置されたままになっていました。それを安左ヱ門が1929(昭和4)年に譲り受け、翌年、柳瀬村の坂之下地区に手当てした土地に移築したのです。

安左ヱ門が山荘用に手当てした土地は、埼玉県柳瀬村の南面した傾斜地でした。下を柳瀬川が流れ、田圃を挟んで平林寺に続く雑木林を眺望できる場所です。この土地は、安左ヱ門が社長を務めていた旧東京電力が送電線を通すために調査していた地域にあって、安左ヱ門が好んだ松の木が点在する藪と雑木に覆われた場所でした。土地の位置は東上線志木駅から左程離れておらず(約4㎞)、当時安左ヱ門の自宅があった新宿区下落合から電車を乗り継いで比較的容易に移動できた位置であったことも選ばれた要因かもしれません。

安左ヱ門は、この土地に作った山荘を柳瀬荘、移築した田舎家を黄林閣と名付けました(王林閣は1978(昭和53)年に国の重要文化財に指定)。黄林閣が移築されると、安左ヱ門は庭造りに力を入れます。柳瀬荘を造った当初の時期は安左ヱ門が自ら作庭の指示を出していたようですが、陶芸家で美食家の魯山人の紹介で金沢出身で茶人の庭師丸岡耕圃に出会うと意気投合、以降は柳瀬荘の作庭を耕圃に任せました。

柳瀬荘・黄林閣

数寄者耳庵の誕生

明治時代の中頃から政財界や富裕層の間で茶会を楽しむ人々が生まれ、懐石料理あるいは菓子を食した後に濃茶と薄茶の茶会を楽しむ茶事は人間関係を形成する重要な「場」となっていました。茶事に傾注して名物の茶道具を使い、会場を有名な美術品をさり気なく演出してその雰囲気を楽しむ数寄者(すきしゃ)と呼ばれる向きも登場しました。そうした状況にあって、大手電力会社の経営者となった安左ヱ門も茶事に招かれることがあったでしょうが、それ程の関心を持つには至りません。

しかし、黄林閣を移築して5年後の1934(昭和 9)年に転機が起きました。安左ヱ門は一子夫人とともに諸戸家の茶事に正客として招かれ、その直後に明治から昭和初期にかけて政治運動家として活躍した杉山茂丸がトラックで茶道具一式を安左ヱ門宅に持ち込むという事件(?)が発生したのです。後から振り返ると、これらが契機になって安左ヱ門は茶事に傾注し、数寄者の途を急速に歩むようになりました。それは安左ヱ門60歳の時で、爾来、安左ヱ門は「耳庵」と号するようになります(「耳庵」は論語為政の「六十而耳順(六十にして耳に順う)」に由来すると言われます)。

この時期の安左ヱ門は、東邦電力のトップとして東奔西走の多忙な日々を送っていましたが、当時の日本社会は戦時に向けた統制経済に移行し始めており、電力事業も国家管理化しようとする動きが表面化していました。電力事業を発展させるには経営の自由が不可欠と信じる安左ヱ門は、反対運動の先頭に立って活動しており、茶事は安左ヱ門の気持ちを和らげる場になったのでしょう。

茶事に傾注するようになった安左ヱ門は、名物茶道具や美術品を買い集め、柳瀬荘で茶事を主催するようになりました。1935(昭和10)年には東武鉄道の創業者で数寄者の根津嘉一郎も茶事に正客として招かれています。その後安左ヱ門は、1937(昭和12)年から3年程の間に柳瀬荘の敷地内に斜月亭(しゃげつてい)、久木庵(きゅうぼくあん)などの茶室を次々に建築し、平林寺総門近くにも茶事ができる田舎家を移築して草庵(現在の呼び名は睡足軒、2016(平成28)年国登録有形文化財)としました。

斜月亭

久木庵

また安左ヱ門は、数寄者の間で名声を得ていた三井合名理事長の益田孝(号・鈍翁)、帝国蚕糸社長の原富太郎(号・三溪)と深く交流し、短期間のうちに数寄者として名声を獲得してしまいます。後日、評伝作家の白崎秀雄は、益田鈍翁、原三渓とともに安左ヱ門(耳庵)を近代数寄者の代表として評価しています。

柳瀬荘で頻繁に茶事、茶会を開くようになったようになった安左ヱ門ですが、茶の湯の作法は「新派、柳瀬流」と称する自己流だったようです。福岡県出身の茶人で工芸家の仰木政斎(おおぎせいさい)は、招かれた茶会の模様を「雲中庵茶会記」に記録しており、初めて招かれた安左ヱ門主催の茶会については次のように記しています。

「耳庵翁のお濃茶練りには茶筌もツブレそうふにグイグイと、茶の飛沫は膝頭は元より、畳一面青々と色ドル有さま。それ丈茶はよく練れている。ドコからかの笑声も何の屈託も感じない主人ぶり。濃茶一巡後淡丈は、見かねられたか、夫人の代点。これはまたあざやかなお点前であった。」

もっとも茶会を重ねるに従い安左ヱ門の腕も上達し、見事なお点前を披露するようになったようです。安左ヱ門の名誉のために申し添えておきます。

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戦時中の柳瀬荘

安左ヱ門が茶事に傾注するようになった時期の日本は、軍国思想が幅を利かせて産業に対する国家統制を強めていたことは既に触れました。言うまでもなく電力事業は中核産業の一つで、統制を強化しようとする政府に対して安左ヱ門は、独自に電力事業者間の自由競争を基本にした電力事業再編計画を立案して財界人に働き掛けかけ、あるいは各地で持論を披瀝する講演を行いました。経営の第一線に立って日本の電力事業を牽引してきたという自負を持つ安左ヱ門ならではの抵抗です。

そうした安左ヱ門からすると産業の国家統制を進める官僚は許すことが出来ない存在でした。1937(昭和12)年、安左ヱ門は長崎で行った講演会において「(国家統制に協力する)官僚は人間の屑である」と発言、講演を聞いていた官僚から強い反発を受けて大騒ぎとなりました。

しかし1939(昭和14)年には国家総動員法とともに電力国家管理法が制定され、全国の電力会社は日本発送電の下に集約されると、安左ヱ門は一切の電力事業から手を引いて柳瀬荘に居を移してしまいます。その後日本は日中戦争、太平洋戦争に進んだことはご承知の通りです。

柳瀬荘で暮らすようになった安左ヱ門は、ラジオ、新聞などのマスコミ情報を避けてわび茶を楽しみながら読書し、雑誌原稿の執筆に勤しみました。そして時には、気心が知れた数寄者仲間を呼んで茶事を催していたようです。戦後、安左ヱ門が日本の産業復興に大きな役割を果たしとことを考えると、柳瀬荘で過ごした日々は次の展開を前にした雌伏の時だったのかも知れません。

あまり知られていないことですが、太平洋戦争末期、東京など大都市に対する米軍の空襲が激しくなると、安左エ門の親族だけでなく交流のあった人々も柳瀬荘に疎開してきました。彼らが寝泊まりしたのは、安左ヱ門が数寄者として造った沢山の茶室でした。茶室も役に立つものですね。

戦後の柳瀬荘

1945(昭和20)年8月15日、安左ヱ門は昭和天皇の玉音放送を柳瀬荘で一子夫人や疎開していた人々と一緒に聞きました。玉音放送を聞きながら安左ヱ門は涙を流していたと伝えられます。安左ヱ門の涙は当時の日本国民と共通するものがあったでしょう。ただ終戦は安左ヱ門だけでなく柳瀬荘にとっても大きな転換点になったことは確かです。

終戦の翌年1946(昭和21)年、松永夫妻は小田原に転居してしまいます。転居は冬場の柳瀬荘は気温が氷点下に至るほど厳しく、一子夫人がそれに耐えられなかったことが理由だったようです。温暖な小田原に転居する際、安左ヱ門は睡足軒も平林寺に寄贈してしまいます。

さらに翌1948(昭和23)年には暮らしていた柳瀬荘と収集した大井戸茶碗有楽井戸(現在は重要美術品に指定)や唐物文琳茶入・銘宇治などの名物茶道具を東京国立博物館に寄贈しています。安左ヱ門が思いを込め、かつ自分を数寄者に育て上げてくれた柳瀬荘と茶道具を寄贈した理由は明らかでありませんが、自分が愛でた品々を末永く残す方策は国立博物館に寄贈するのが一番と考えたのではないでしょうか。

でも安左ヱ門の柳瀬荘に対する愛着は強く、東京国立博物館に寄贈した後も時々博物館から使用許可を受けて柳瀬荘の茶室を使った茶会を開きました。中でも1955(昭和30)年に開いた安左ヱ門八十歳の卒寿を記念する大茶会は、参加者が政財界を中心に480名に及び、東上線志木駅から柳瀬荘まで黒塗り乗用車の列ができたと伝えられています。

安左エ門が柳瀬荘を国立博物館に寄贈したお陰で建物の補修や庭園の整備が図られ、敷地の大部分を占める雑木林も自然の姿をとどめています。武蔵野の自然が失われてしまった現在、柳瀬荘とそれを囲む雑木林が持つ価値は高いものがあると思われます。皆さんも一度柳瀬荘に足をお運びになっては如何でしょう。柳瀬荘は、毎週木曜日に外観の見学が許されています。詳しくは東京国立博物館または所沢市のHPをご覧ください。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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