長谷川清の地域探見(6)豊臣秀次ゆかりの近江八幡

昨年12月上旬、以前から気になっていた滋賀県の近江八幡市に数寄(すきしゃ)者評論家のご大塚融夫妻と行ってきました。同市の歴史的な町並みをご案内いただいたのは、地元で地域起こしに尽力されている千賀伸一さんです。

近江八幡市は、滋賀県の中央部に拡がる琵琶湖の東岸に位置する地方都市で、JR米原駅から東海道線で約30分、反対方向のJR京都駅からは東海道線で35分程のところにあって、八幡山城の麓に拡がる城下町の街並みや琵琶湖畔の風景が美しい町です。近江八幡の風景は国からも評価されており、1991(平成3)年に古い町並みが重要伝統的建造物群保存地区に、2005(平成17)年に琵琶湖水郷地域を景観法の「景観計画区域」に、翌2006(平成18)年には文化財保護法の「重要文化的景観」第1号にそれぞれ選定されています。

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 近江八幡の歴史

近江八幡の歴史は、1585(天正13)年に築かれた八幡山城(別名・近江八幡山城)に始まります。八幡山城は、本能寺の変に続く動乱で焼失した安土城に代わる近江国の国城で、初代城主は豊臣秀吉の甥で養子となった豊臣秀次でした。

八幡山城の城下町は京の都に倣って碁盤の目状に整備され、琵琶湖を往来する荷船を寄港させるための運河「八幡堀」が設けられました。また安土城下の商工業者が呼び寄せられ、楽市楽座による自由商業制も取り入れて近江八幡は商都として賑わったと伝えられてます。

でも近江八幡の賑わいは短く、秀次が八幡山城を築いたわずか5年後の1590(天正18)年に秀次は尾張国清須城に移封してしまい、八幡山城には京極高次が入城しますが高次が大津城に移ると八幡山城も取り壊されてしまいます。

1596(文禄4)年に秀次は高野山で切腹(秀次事件)を余儀なくされ、一族も京都三条河原で斬殺されてしまいます。それでも城下町の人々は、秀次を近江八幡の構築に尽力した名君として称え、城下の暮らしを守り続け、近江商人の中でも城下町出身の商人は自らを八幡商人と呼びました。

 日牟禮八幡宮と八幡堀

近江八幡を訪れる人の多くは、八幡山の麓にある日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)を目指します。日牟禮八幡宮は城下町に暮らす八幡商人の守護神として崇敬を集め、自治体名の由来にもなっています。日牟禮八幡宮には八幡商人の一人西村太郎右衛門が寄贈した「安南渡海船額」が保管されています。太郎衛門は江戸時代初期の寛永年間に安南(ベトナム)に渡り、現地で20年以上も貿易商として活躍し、1647(正保4)年に長崎まで戻ってきました。しかし、徳川幕府の鎖国政策が厳しくなって太郎衛門は近江八幡に戻ることができず、安南に戻って没したと言われます。短い長崎での滞在でしたが、太郎右衛門は故郷への想いを絵師に託して描かせたのが船絵馬の安南渡海船額で、日牟禮八幡宮に奉納されました。八幡宮はこれを社宝とし、国も1907(明治40)年に重要文化財に指定しています。

近江八幡市の市街から日牟禮八幡宮に向かう途中で小さな橋(白雲橋)を渡ります。橋が架けられているのは川ではなく八幡山城を築城した当時に浚渫された「八幡堀」です。この八幡堀に沿って古い建築物が立ち並び、古い城下町の面影がほぼそのまま残されて、日本の都市が失ってしまった風情を感じさせます。1970年代に八幡堀を埋め立てて公園と駐車場にする計画が立てられましたが、住民の反対運動により頓挫しました。計画を頓挫させた市民たちは、荒れていた八幡堀の美化を進め、よき時代の美しい姿を取り戻しています。

千賀さんによると、八幡堀は時代劇のロケ地として頻繁に使われているとのこと。ただ、撮影される映画やテレビドラマでは、八幡堀を江戸や大坂の街中を流れる掘割に見立てることから、画面を見ている私たちには掘割が八幡堀と気付くことがないようです。

昼食をとった八丁堀の脇にある郷土料理屋喜兵衛では、女将からテレビ時代劇「鬼平犯科帳」のロケ撮影で同店が控室として使われて沢山の俳優が訪れたこと、その中には昨年11月に亡くなった中村吉右衛門さんもいて高齢にもかかわらず演技の際にはキリっとした鬼平を演じたことなど撮影の模様をお聞き出来ました。

 豪商の本宅が並ぶ新町通り

八幡堀の東側には旧町人町が広がり、秀次以来の町人地と八幡商人の本宅が残されています。千賀さんによると、明治時代に東海道線が敷設される時、近江八幡駅は城下町のすぐ脇に作られる計画だったようですが、地元の方々が蒸気機関車の煤煙を嫌って駅は2kmも離れた田んぼの中に作られ、町人町は古い町並みを残すことが出来とのことです。

町人町を走る小路には京の都と同じように小路名が付けられ、その中核となる新町通りと永原町通りの界隈は日牟禮八幡宮境内や八幡掘沿いの町並みとともに重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

私たちが案内された新町通りには、繁栄を誇った豪商の本宅が整然と立ち並んでいます。一見すると同じような建物が並んでいるようですが、よく見るとそれぞれの建物は趣向の凝らされた意匠が施され、家主の意気込みを感じさせます。

保存地区に並ぶ豪商の本宅群は、主屋の一部と見間違うような屋根付きの高塀で囲まれ、高塀の内側に植えられた松が塀越しに覗く「見越しの松」が植栽されています。この見越しの松がアクセントになって新町通り独特の景観が生み出されています。

後日調べてみると、見越しの松は塀に囲まれた邸宅に暮らす人々が世の中の動きを見失うことがないよう、常に世の中の動きを意識させる意味があるようです。琵琶湖の東岸地域は多くの近江商人を生み出しましたが、その中でも八幡商人たちの目の奥には広い世界が映っていたようです。遠く離れた土地で活躍した八幡商人としては、先の安南で貿易商を営んだ西村太郎右衛門の他にも蝦夷地(北海道)で活躍した岡田弥三右衛門(恵比寿屋)が有名です。

 

 八幡商人の江戸進出

八幡商人が外の世界で活躍することを可能にしたのが近江八幡の立地でした。近江八幡は物流ルートの琵琶湖に面し、かつ東海道、中山道、北国街道という主要街道が交差する交通の要衝で、八幡商人は各種の情報を一早く入手でき、彼らはそれを商売に役立てていたのです。戦国末期の大きな変化が起きた時代、八幡商人は立地環境を生かして的確な情勢判断を下していたようで、大阪夏の陣に際して徳川方に物資を提供していた商人もいたと伝えられています。

彼らの活動を評価した徳川家康は、江戸城下を構築する際に本拠の三河や伊勢の商人に加えて八幡商人にも出店を許し、麻織物、蚊帳、畳表など近江の地場商材を販売させました。初期に江戸に進出した八幡商人としては西川甚五郎(山形屋)や伴庄右衛門(扇屋)、西川利右衛門(大文字屋)が知られていますが、二人の他にも江戸に進出して名をあげた八幡商人には西川庄六(二代目利右衛門の子)、森五郎兵衛、中村四郎兵衛などがいました。

その後、八幡だけでなく高島、日野、五個荘、湖東など他の近江商人たちも日本橋界隈に出店して「近江屋」を名乗る繊維卸商が集中、日本橋から銀座に向かう今の中央通りには近江商人の大店が並びました。さらに長浜出身の大村彦太郎が白木屋を、高島郡出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が高島屋を開業するなど一時期の日本橋は近江商人の町となったのでした。

近江商人の特徴は、近江に本宅や本店を置き、商品の売り買いはもっぱら全国各地への行商や出店によって行われたことです。このため、各地に近江商人をルーツとする商店や企業を生み出し、埼玉県でも秩父市の八尾百貨店は近江日野出身の矢尾喜兵衛が1749(寛延2)年に創業し、東上沿線にも近江商人が創業した造り酒屋が複数あると言われます。

三方よし

全国に進出した近江商人の全てが事業を成功させたとは思えませんが、店を任された人々は地味ながらも地域にしっかりと根を生やした商売に励みました。そうした近江商人の姿勢が「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」として知られています。

「三方よし」を私なりに言い直すと、「良い商材を適正価格で販売して利益を上げ、商材を購入していただいたお客様にも満足いただき、お客様からいただく満足の輪が広がって関係筋や隣近所からも信頼される商人を目指しましょう」となり、いわば事業経営の基本精神と考えるべきでしょう。研究者によると「三方よし」の原形は商人の家訓や店訓などに残されていました。現在の言葉に纏め上げられたのは昭和になってからで、広く一般に知られるようになったのは近江商人の研究者が研究成果を基に分かりやすく書き直して近江商人を紹介する本に掲載したことが契機になったようです。

江戸に進出した八幡商人の商売ぶりを想像しながら、私は「三方よし」の中でも「世間よし」が特別な意味を持っているように思うようになりました。地元から遠く離れた地域で商いするする近江商人にとって、世間様から信用を得ることが何より大切で、世間様の信頼を獲得することで自分がその地域に暮らすことが許されるという考え方が「世間よし」の基本になっているように思えたからです。

今でもお会いする近江の方々の物腰が柔らかく、言葉使いも丁寧で、それでいて自分の信念は譲らない芯の強さに感心させられます。人によっては、近江人の柔らかい人当たりは「近江門徒」とも言われる浄土真宗による精神的な風土がもたらしたものと考える向きもいますが、私はそれだけではないと考えています。多くの商人が自分達の心情を守りながら、他国で地元の人々に嫌われずに商売を続け、世間様と折り合いをつけるよう物腰や言葉を磨き上げてきた文化が近江に定着したのでのではないでしょうか。

 豪商の墓石

新町通りに続いて千賀さんは私たちを魚屋町の正福寺に案内してくれました。正福寺は浄土宗の寺で、本堂と墓地は町屋に囲まれて通りすがりの観光客は山門を見逃してしまうかも知れません。

千賀さんに案内された参道横の墓地にはある豪商の立派な墓石が立っています。この墓石の特徴は、現代の墓石で側面にある埋葬者の戒名が墓石の正面に彫られていることです。それも累代の戒名がズラッと並び、新たな戒名は墓石左側にはみ出るような形で彫られています。この商家の一族は、釈迦如来や先祖累代という代表を参拝するのではなく、個別のご先祖を参拝していることが明らかです。

この墓石を拝見して私は、八幡商人の信仰は仏よりもご先祖ではないかと考えるようになりました。商家の方々は墓参することで家業の創業者や店の創設者を敬うと同時に自らを戒め、家業を後世に伝える決意を新たにされるのでしょう。

近江八幡の重要伝統的建造物群保存地区を一巡りした後、私たちは日牟禮八幡宮の脇からケーブルカーで八幡山に登りました。頂上の展望スペースからは、眼下に琵琶湖と散策した近江八幡市の古い町並みが広がり、沈みかける夕日が照られて金色に輝いています。仏教では夕日のかなたに極楽浄土があるとされていますが、八幡商人にとってこの八幡山は極楽を思う場所だったのかも知れませんね。

八幡商人など近江商人の活動は全国に及んでおり、先に触れたように埼玉県にも近江商人を祖先にする老舗が点在し、商業活動が人の繋がりで出来ていることを感じさせます。末筆になりましたが、今回の近江八幡の取材をアレンジいただいたご大塚夫妻と現地をご案内いただいた千賀さんに感謝します。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住

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