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渋沢栄一と東上沿線

渋沢栄一は今の深谷市の出身だが、県西部、東上沿線にもいろいろ縁がある。前にも書いたが、越生で見つけた平九郎茶屋から渋沢(尾高)平九郎を知り、その紹介をした。平九郎は尾高惇忠とともに飯能戦争に参加していた。飯能と天覧山の歴史入間の繁田家を調べていたら、繁田家は渋沢と関係があり、ちょうど入間市市報で特集記事があり、取材した。大山の健康長寿医療センターを取材したら渋沢が創設した養育院の流れだった。そして今回は坂戸の大川平三郎である。坂戸を車で走ると「坂戸の偉人 大川平三郎」の看板がある。また以前、武州ガスの原宏会長をインタビューした時大川平三郎の名が出た。しかしそれ以上の追求はしていなかった。「青天を衝け」で渋沢栄一や尾高惇忠が剣術を習うシーンがあり、その先生が坂戸の大川平兵衛だったという。大川平三郎の祖父である。しかも平兵衛の跡継ぎの妻(平三郎の母)は尾高惇忠の妹、渋沢の妻千代の姉である。さらに平三郎の妻は渋沢栄一の娘である。ここまでは知らなかった。渋沢家、尾高家、繁田家といい大川家といい、当時有力な家は強い絆で結ばれていたようだ。とはいえ、大川平三郎は渋沢の縁だけで出世したわけではない。記事では触れなかったが、実力とたぐいまれな努力があったようだ。

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