深谷市に渋沢栄一と尾高惇忠の生家を訪れる

NHK大河ドラマ「青天を衝け」が話題になり、本紙でも多くの渋沢関連の記事を掲載してきました。ただ、渋沢の出身地、深谷はこれまで訪れたことがありませんでした。そこで、ドラマの熱も冷めかけたであろう、2022年1月、初めて生家を訪問させていただきました。

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渋沢栄一の生家の大きさに驚く

私の住む埼玉県富士見市から、関越自動車道を使い、ほぼ1時間半の距離です。生家のある血洗島、尾高惇忠の家のある下手計は、深谷の市街地から北へ6、7キロ、そこから1キロほどのところを利根川が流れています。あたりは、まったくの田園地帯で農家らしき家が点在する風景です。

渋沢の生家で驚いたのは、その大きさです。門をくぐると広い庭の奥に5間*9間の2階建て+3間*3間の平屋を合わせた主屋、その裏と横に4棟の土蔵があります。パンフレットには、「北武蔵における養蚕農家屋敷の形」とあるが、私は今までこれほどの規模の農家を見たことがありません。

渋沢栄一の生家門前

主家は跡を継いだ栄一の妹ていの婿である市郎が明治28年に建てたもので、栄一が生まれた頃はもっと大きかったといいます。栄一は、たびたびこの家に帰郷し、そのために用意された奥の10畳の部屋を使ったそうです。

主屋

この家は昭和26年に県指定史跡、58年に県指定「渋沢栄一生地」に指定替え、平成22年に深谷市指定史跡に指定されました。その間、昭和60年から平成12年まで「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだということです。これも不思議な歴史の一コマです。

「中の家(なかんち)」

栄一の生家は通称「中の家(なかんち)」と呼ばれていたそうで、地図にもそう書いてあります。これは、周辺に分家した渋沢家が多くあり、その位置関係から呼ばれていたそうです。中の家は、その本家筋で門前には一族の墓地がある。苗字帯刀を許され、栄一の父の市郎右衛門(元助)の時には、養蚕や藍玉作り・販売の他、雑貨屋、質屋も兼ね非常に裕福だった。そういう経済的には恵まれた家に栄一は生まれたわけです。

尾高惇忠家

尾高惇忠は、母親のやへが栄一の父の姉であり、栄一の従兄で、学問や剣術の師であり、栄一と行動を共にし、明治になり富岡製糸場の初代場長などを務めました。妹の千代は、栄一の最初の妻であり、弟の平九郎は栄一の見立養子となり、飯能戦争で亡くなっています。

大河ドラマでも栄一と尾高家の密接な交流が描かれていました。私は、両家の地理的な位置関係に興味がありました。行ってみると、両家の距離は1キロちょっと。歩いて10分ほどです。人間関係もあり、ひんぱんな行き来は納得できました。

尾高家は、江戸時代後期に惇忠の曾祖父が建てたものだそうです。「油屋」の屋号で呼ばれ商家だったので、栄一の家と比べると小規模ですが、先入観からか知的な空気を感じさせる家です。

尾高家

渋沢栄一記念館

栄一の生家と尾高家の中間あたりに渋沢栄一記念館があります。八基公民館を兼ねているのでしょうか、りっぱな建物で、栄一の関連資料が展示してあります。渋沢栄一そっくりのロボット、アンドロイドが、講義をしてくれるしかけが話題になっていますが、私は栄一の肉声が聴けるコーナーの方が興味深かったです。

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記念館裏には高さ5㍍に及ぶ栄一像が立っています。大正2年に渡辺長男という人が「男爵渋沢青淵先生寿像」として制作したものということです。

畠山重忠

今回の深谷訪問で、渋沢栄一のルーツのイメージが具体的になりました。残された疑問は、このような埼玉の僻地の農村に、あのような優れた人間を輩出できたのはなぜなのかということ。私の実家も、埼玉の片田舎ですが、より江戸に近く、それでもあのような人物が出るとは想像もできません。

余談ですが、深谷を訪れて感じたことは、施設にいる多分シニアのボランティアとみられる人達が非常に親切であったこと。それと、ちょうど記念館で畠山重忠展を開いており、重忠が深谷の出身であることを知りました(重忠は嵐山町に館=菅谷館跡があり、今年の大河ドラマに登場しています)。

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