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富士見市ふるさと探訪 秋の難波田城周辺を歩く

富士見市資料館友の会ふるさと探訪部会主催の第43回ふるさと探訪「秋の難波田城周辺を歩く」が2020年10月11日開かれました。10日は台風襲来で荒天でしたが、この日は雨が上がり、南畑地区の旧跡を部会メンバーの方々のご説明を聞きながら巡りました。コロナ対策で参加人数を絞り、密集を避けての散歩でした。

南畑橋 新河岸川舟運が盛んだった時期、南畑橋一帯は商家が多く賑わいました。明治以降は村の行政の中心地となり、「南畑銀座」と呼ばれました。橋は、昔は粗末な板橋でしたが舟運が始まり太鼓橋となり、大正14年に現在地に架け替えられ、昭和46年にもう1回架け替え今の橋になりました。記念碑は、旧新河岸川開拓の記念で、昔は大きな看板があったが撤去された。間違いがあるとクレームがついたようです。

南畑橋

金蔵院 真言宗智山派のお寺。慶長15年(1610)に建立され、江戸時代は寺子屋、明治7年(1874)には南畑小学校の前身である徳明学校が開かれました。農民詩人で小作争議を指導した渋谷定輔と、その妻で昭和初期に26歳で亡くなったプロレタリアート詩人、渋谷黎子の墓があります。黎子の墓には、定輔の「君の生涯は真実を求めてやまざりき26年なり」のことばが刻まれています。前田清吉は、明治期新河岸川一の規模の船問屋でした。りっぱな墓は当時の羽振りの良さを物語ります。

金蔵院

渋谷定輔、黎子の墓

前田清吉の墓

境内には、多羅葉樹(タラヨウジュ)という木があります。葉っぱに傷をつけると文字が描け、「葉書き」という言葉の由来となっているとされています。元々富士見市役所にあったのを移植したようです(石渡住職のお話)。

多羅葉樹

水越門樋 明治37年(1904)築造の樋管。水路がトンネルのように道路や堤防の下を通り抜ける形をしている。川の排水の他、新河岸川がたびたび氾濫するので、増水時は逆流も防ぎます。赤レンガ造りでレンガの短い面と長い面を交互に組み立てています。南畑地区には他に山形樋管があります。

水越門樋

興禅寺 曹洞宗の寺院。本尊は聖観世音菩薩。山門を入ると慶応4年(1868)、近くの錫杖権現で処刑された13人の供養塔があります。墓地には、南畑に水を引くために川越の伊佐沼から用水を完成させた、地元の農家にとっては恩人である小山作兵衛の墓があります。このお寺は、渋谷定輔が指導した南畑の小作争議における演説会場でもありました。

小山作兵衛の墓

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南畑八幡神社 難波田弾正があつく崇敬したとされる神社です。応永7年(1400)に南畑地域が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進され、同社を分祀したとされます。市指定の文化財の鰐口、無形民俗文化財の獅子舞が奉納されています。難波田城公園まつりに出演する鉄砲隊は、ここで儀式をし、天神社に寄り、難波田城に出向きます。今年は中止でした。

南畑八幡神社

たそがれ地蔵 丸彫り型の延命地蔵。享保13年(1728)にできた。ここは江戸への近道として利用され、江戸から歩いてくるとこのあたりで夕方になり、秩父の方から来てもちょうど夕方で、「たそがれ地蔵」と呼ばれるようになった。昔は周辺にお店があったようです。

たそがれ地蔵

物見やぐら この一帯は難波田城の本丸跡で、物見台です。本丸で唯一残る遺構です。もっと高かったが、崩れた。難波田城公園で復元したのは3分の1だけ。全体で5万平米あり、東京ドームより広かった。

難波田城の物見やぐら

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