板橋区内の都営三田線は国道17号線の地下を走る。両線に平行して通るのが旧中山道で、新板橋駅から板橋区役所前駅、石神井川にかけて続く、現在もにぎやかな商店街は江戸時代に板橋宿が置かれたところだ。中山道と板橋宿の歴史について、区立郷土資料館学芸員の四戸菜穂さんにご説明いただいた。(お話と資料は同館で2025年10月から12月にかけて開かれた企画展「ようこそ中山道板橋宿へ!~江戸時代の旅人たちとタイムトラベル~」を元にしています)。

日本橋から京都三条大橋までを結ぶ中山道
江戸幕府が開かれて整備された五街道の一つである中山道は、日本橋から京都三条大橋までを結ぶ街道です。近江の草津宿から先は東海道に合流しました。板橋宿が日本橋から一つ目の宿場になります。

五街道の一つ目の宿場は、東海道は品川宿、甲州道中は内藤新宿、奥州道中・日光道中は千住、中山道は板橋宿で、まとめて江戸四宿と呼んでいます。江戸と近郊農村との境界域に位置し、江戸を出て行く人、入る人が行き交う場所、江戸の玄関口に当たります。
当時の旅人は一日10里(40キロ)くらい歩いたそうなので、板橋宿は宿泊はあまりせず出迎えの際小休憩するような場所で、うどんとかそばとか今で言うファストフードのようなお店や料理屋があったそうです。
中山道と東海道を比べると、東海道は海沿い、中山道は内陸でいずれも京都につながります。東海道の方は、時間的には早く到着できるが川が多く水かさが増すと渡れなくなるので予定が組みづらい。一方中山道は山道だが川止めが少なかったので予定通り進みやすかったそうです。
板橋区には志村の一里塚という塚があり、国の史跡になっています。一里塚は道中の目印として街道に1里(約4km)ごとに築かれ、志村は江戸から3番目に当たります。現存しているのは全国的にもまれです。

板橋宿に隣接して加賀藩の下屋敷
板橋宿に隣接して加賀藩の下屋敷があり、藩主や家族の別荘として使われました。東京ドーム16個分という広大な敷地で、今でも「加賀」とか「金沢」とかゆかりの地名が残っていたり、加賀藩の家紋をもじった校章が使われていたりします。参勤時には金沢からは北国街道をたどり、軽井沢の手前の追分で中山道に入り江戸に向いました。
中宿の本陣は飯田家、脇本陣も飯田家(分家)、平尾宿は豊田家が脇本陣、上宿は板橋家が代々務める
板橋宿内の往還の長さは約2.2キロで道幅は約7.3メートル、家並がある宿場は約1.7キロあり、宿場町は、日本橋寄りから平尾宿、中宿、石神井川より上(京寄り)の上宿という3つのエリアに分かれていました。板橋は、石神井川にかかる橋 これが地名、区名の由来の一つとなっています。


宿場は三つの宿に分かれそれぞれに名主がいて 脇本陣を兼務していました。一般の旅人は旅籠や木賃宿で休憩しますが、大名や貴賓は名主が取り仕切る屋敷で休憩をする。それが本陣・脇本陣で、本陣は中宿に一つあり、脇本陣はそれぞれ3つのエリアにありました。中宿の本陣は飯田家、中宿の脇本陣は名主の飯田家、平尾宿は同じく名主の豊田家が脇本陣、上宿も同じく名主の板橋家が務めました。




中宿には、本陣と問屋(人馬の継立を差配)を務めた飯田新左衛門家と、脇本陣・問屋・名主を務めた飯田宇兵衛家がありました。ただ、場合によっては宇兵衛家が本陣を務めることもありました。たとえば幕末に和宮が公武合体の象徴として将軍家茂のところに嫁入りする時、本来は本陣を宿とする予定でしたが、この時本陣の飯田家の当主が幼かったので、脇本陣の宇兵衛家が本陣を務めています。

本陣の間取り図です。上段の間が一番格式高い。
平尾宿の豊田家でラクダが休憩
平尾宿の豊田家は、豊田市右衛門が代々襲名しました。江戸に一番近いので平尾の玄関と呼ばれていました。明治9年に撮影した建物の写真です。天保8年(1837)建築で明治40年代まで残っていました。

豊田家は調度品がたくさん残されている。豊田家最後の当主の息子さん豊田喜平治が煎茶道具のコレクターで、価値が高いものとして区に寄贈されています。江戸時代には、ラクダとかゾウが長崎経由で海外からやってきて、国内を巡業しましたが、ラクダは中山道を経由して板橋宿の豊田家の庭で休憩したという話が伝えられています。
板橋宿を行き交う人々 参勤交代の大名
参勤交代が制度化されると街道を大名行列が往来するようになりました。江戸への出入りの際には加賀藩は平尾宿に自前の屋敷を持っており、そこを使用しました。それ以外の大名は本陣・脇本陣を利用しました。
板橋宿では参勤交代の時に藩主が立ち寄って装束を整えたり家族と対面する場に利用されました。通常は別荘地として使われ、鷹狩りや園遊会も行われるなど行楽地としての役割もありました。
加賀藩下屋敷絵図を見ると、真ん中に池があり、石神井川が流れ、築山があります。 築山は今も加賀公園の中に残っており、ここは近代に火薬製造所の一部となりました。現在は国の史跡に指定されています。

関札は、参勤交代で大名が宿場に滞在する際に自分達がここにいるぞと示す名札です。 中宿の本陣飯田家の床下から発見されたものです。

和宮の将軍家茂への輿入れ 行列の人数は3万人
中山道は将軍に輿入れする姫君がたびたび通行しました。東海道は交通量が多く川止めの心配もあったため使われなかったのです。姫君の通行の中で最大の行列は文久元年(1861)の和宮の家茂への輿入れで、人数は3万人に及んだとされます。
板橋宿上宿の北側にある縁切榎は縁が切れるいう信仰があり、和宮の行列の際、木を菰で覆いさらに木の前を通らないように迂回して通りました。

和宮の行列の絵図。和宮の通行にあたり、宿場は橋を架け替えたり道路を整備したりしました。迎えた飯田家も家を増改築しています。

庶民の旅 ガイドブック「旅行用心集」
江戸時代、庶民も寺社参詣や湯治とかの旅に出るようになり、中期以降は旅への関心が高まり、旅のガイドブックが多数出版されるようになりました。「旅行用心集」という手引き書は、道中で用心すべき61ヶ条や持ち物、駕籠に酔わない方法、疲れの取り方とか豆知識が載っています。復刻されて現代語訳もあります。

旅人の装いは、菅笠、手甲、股引、脚絆、草鞋を身につけるのが一般的で、持ちものは印籠、たばこ入れ、矢立、磁石など。特徴的なのは全部コンパクトであること。長い距離を歩くので、できるだけ荷物は軽くする必要があったのです。
