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【新・沿線さんぽ①】水子(富士見市) 静謐な貝塚公園、そばには古刹や修験寺起源の神社 永家一孝

東上沿線物語で平成20年(2008年)~22年(2010年)に15回にわたり周防洋(すおう・よう)のペンネームで「沿線散歩」を連載した。取り上げた場所を再訪したり、新たに訪れたりして、「新・沿線さんぽ」を不定期にお届けする。

第1回は、富士見市水子にある国指定史跡「水子貝塚公園」を、令和4年3月初めに再訪した。今回は、公園そばにある古刹「大應寺」と修験寺起源の「水宮神社」にも詣でた。水子の地名の由来は諸説あるが、「水が湧き出るところ」という意味の「水処(みずこ)」から転じたとも言われる。

貝塚公園

貝塚公園 その1

「水子貝塚公園」は東上線みずほ台駅東口から北東約1.5kmのところにある。「みずほ銀杏通リ」に沿って歩いた。銀杏(いちょう)はこの時期、剪定されて丸坊主になっているが、整然とした並木である。道標に従って進み、突き当たりを右折、さらに少し先を左折して進むと、右手に貝塚公園西口がある。

縄文時代の貝塚の密集地、竪穴住居を復元

貝塚公園は、縄文時代の貝塚の密集地の跡を整備した施設で、平成6年(1994年)に開園した。都会の喧騒と隔絶した静謐な空間が広がっている。面積は約4万平方メートルと東京ドームの9割弱の広さである。貝塚跡や復元した竪穴住居が芝生の原っぱの中にあり、その周りに約580メートルの園路を巡らしている。新型コロナの流行前の休日には、原っぱにはピクニックを楽しむ家族連れや走り回る子供たちが、園路にはウォーキングに励む人が多く見られた。訪れた日は平日で、まん延防止等重点措置の適用中とあってか、ひっそりしていた。それでも、時折、犬を連れて散歩する人の姿があった。

貝塚公園

貝塚公園 その2

海なし埼玉県に貝塚があったのかと不思議に思う人が少なくないかもしれない。水子貝塚に集落があったのは今から6000~5500年くらい前の縄文時代前期中頃と見られている。当時は温暖で地表の氷が溶け、内陸の荒川周辺などの低地に海水が侵入していた。縄文海進と呼ばれる現象で、縄文人は貝や魚を求めて海辺に集まり、高台にムラを作っていたのだ。そのムラの竪穴住居跡に貝殻などを捨てたゴミ捨て場が貝塚で、埼玉県内には200カ所以上も確認されている。その代表的な存在の一つが水子貝塚である。

園内にある市立水子貝塚史料館発行のパンフレット(※)によると、水子貝塚は昭和12年(1937年)に発見され、発掘調査の結果、竪穴住居跡に残された小規模な貝塚が環状に分布していたことが分かった。園内には、貝殻をイメージさせる陶片を施した大小の白いエリアがいくつもある。その下に貝塚があることを示している。5軒の竪穴住居が復元されている(ほかに骨組みの復元が2軒)。貝が捨てられていないケースも含めると百軒くらいの住居跡があると推定されている。もっとも、100軒の集落があったわけではなく、5~10軒の集落があり、建て替えを繰り返していった跡だという。
mizukopanfu.pdf (city.fujimi.saitama.jp)

発掘したときの様子をリアルに再現

復元住居の中を覗き込むと、縄文人の暮らしの様子が再現されている。また、公園内のある展示館(入場無料)には、住居跡や発掘したときの様子がリアルな形で再現されている。貝殻の中から発見された屈葬の女性の頭蓋骨を含む人骨や、柱穴に埋葬されていた雄犬の骨の複製が目をひく。

展示館の解説パネルの中に、「日当たり良好、環境抜群」というタイトルがあるのに目が留まった。「海は浅く、潮が引くと干潟が現れました。干潟には多くの生物が生きづき、人々は急いで貝や海草を集めてまわりました。鯛や鱸(すずき)は、丸木船の上からヤスで突き、しとめました」「台地の上には季節の変化に富んだ落葉広葉樹林が育まれていました。・・・村を拓いた人々は団栗(どんぐり)・栗・胡桃(くるみ)・栃といった木の実を石器で砕き、土器で調理して主食としました」「季節は秋。森は色づき、木の実の収穫の時が近づきました」――。当時の生活の様子を詩的な文章で説明している。

園路沿いには、ムラを囲んでいたコナラ、クヌギ、アラカシなどの木々を中心に「縄文の森」が復元されている。森林浴気分で散歩をすると心地がよいだろう。小高い、木製の展望台に立つと、「縄文の森」に囲まれた原っぱが一望できる。

朱色の鐘楼門が印象的な水光山大應寺

貝塚公園の正門を出て道を渡ると、水光山大應寺の広い境内がある。真言智山派の大きな古刹で、本尊は不動明王。平成21年(2009年)に建立した新本堂の前にある、享保4年(1719年)に造られた朱塗りの鐘楼門が印象的だ。扁額には、力動感のある書で「水光山」とある。剣・禅・書の達人だった幕臣、山岡鉄舟の筆によるという。

大應寺鐘楼門

大應寺鐘楼門 その1

大應寺鐘楼門

大應寺鐘楼門 その2

大應寺の創建がいつかは定かではないが、平安時代初期に真言宗を開いた空海(弘法大師)にまつわる伝説がある。当時、夜になると池の水面が光るので不思議がられていたそうだ。そこに旅僧の空海が来て、原因は池の底にあると指摘した。さらってみると仏像が発見され、空海の言葉に従って、その仏像を本尊にして建てられたのが大應寺というわけだ。大應寺のパンフレットの「由来」はやや違った説明をする。空海が、里人から「当地に不思議な沼あり、水光りて木々赤く照らす」と聞き、沼を見ると、水子がそれぞれ光を発して美しかった。空海が発願して秘法を修すと、水子が円光を発して曼荼羅となり、中央の円光が変じて大日如来や不動明王となった。感嘆した空海は不動明王の像を刻んで安置したという。

修験寺が前身の水宮神社、狛犬の場所にカエルの像 

大應寺を出たあと、隣接する水宮神社を訪れた。室町時代に創建された、京都の聖護院を本山とする修験道寺院(修験寺)「摩訶山般若院」が前身で、明治時代初めの神仏分離令を機に、天照大神(あまてらすおおかみ)などを祭神とする水宮神殿となり、平成5年(1993年)に社名を水宮神社(正式名称は摩訶山般若院水宮神社)と改めた。加持祈祷をしており、今なお神仏習合の面影が色濃い。

狛蛙

狛蛙

秀麗な社殿は平成18年(2006年)に権現づくりに造り変えられたもの。目を引くのは、社殿前の左右に狛犬ではなく、「狛蛙(こまがえる)」が置かれていることだろう。これには伝承がある。

昔、カエルが人間のように歩きたいと神様に願をかけ、歩けるようになったものの、目が後ろについたため、うまく歩けず困り果てていた。それを大日如来が元の姿に戻してくれたという。また、幼子を亡くした親が願をかけたところ、その幼子そっくりの子が生まれ、お礼に「生まれかえる」との意味でカエルを奉納したとも言われているそうだ。

不動明王は大日如来の化身とされる。今回訪れた大應寺の本尊でもある。水宮神社の前身の修験寺にも不動明王像があったが、長く志木市内に移されていた。しかし、平成29年(2017年)に150年ぶりに返還され、敷地内に新たに建立した「六蛙堂(むかえるどう)」に、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)座像とともに鎮座している。

湧水の里、「おいど」は旅行く人馬の水飲み場

帰路は、水子貝塚から南の住宅地を通り、武蔵野台地を柳瀬川が削った斜面沿いに歩いた。通称どんぐり山(石井緑地公園)と、古刹の性蓮寺そばの弁財天の赤い祠のある「おいど」(御井戸)に立ち寄った。湧水量が多いことから「大井戸」とも呼ばれてきたところだ。

おいど

おいど

どちらの場所も雑木林が残っている。中世の鎌倉道が通っていた場所で、湧き水のあるスポットだ。「おいど」は、近くに住む人の生活用水としてだけでなく、旅行く人馬の水飲み場だった。貝塚公園周辺も含めて、水子は、まさに水処(みずこ)であり、湧水の里であった。自然の恵みを多く感じさせてくれる。      (了)

<筆者のプロフィール>永家一孝(ながや・かずたか):志木市在住の元日本経済新聞記者。商業や消費動向、観光、マーケティング、広告などの分野が専門で、現在、フリーランスのジャーナリスト・リサーチャー。1952年生まれ。周防洋(すおう・よう)はペンネーム。

水子貝塚

水宮神社

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