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「幻の朝霞大仏」 根津嘉一郎 晩年の畢竟の大事業

川越街道(国道254号)を東京方面に向かい、朝霞高校の手前、坂を登り切ったあたり右側にこんもりとした林とその一角に「武蔵大学朝霞プラザ」という大きな建物が見えてくる。なぜここに武蔵大学の施設があるのか。実はここは、戦前、東武鉄道の社長だった根津嘉一郎が開いた「根津公園」の跡地である。鎌倉大仏より大きい「朝霞大仏」も建造しかけたが、戦争により未完成に終わり、跡地は戦後、同氏が設立した武蔵学園に払い下げられた。根津公園と朝霞大仏は、実業界で大成功し「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎という人物が、晩年に取り組んだ社会貢献事業のスケールの大きさとかける情熱の強さを表している。根津公園の歴史について、朝霞の歴史に詳しい有永克司さん(朝霞市基地跡地の歴史研究会会長)にお聞きした。

根津嘉一郎(ねづ・かいちろう、1860~1940)現在の山梨県山梨市出身。山梨県会議員、衆議院議員等を経て、1905年東武鉄道社⻑。1908年日清製粉社⻑等、財界の指導者の一人として多くの事業経営に関わる。1921年財団法人根津育英会を設立し、7年制の武蔵高等学校を創設した。1926年貴族院議員に勅選される。古美術の愛好収集家としても著名で、没後その遺志を継いてで日本、東洋を主とする収集品を公開するため根津美術館が設立された。

根津嘉一郎
根津嘉一郎(武蔵学園記念室提供)

人心が乱れているのを憂えて僧侶を育てる学校を開く

―朝霞大仏とは。

有永 当時東武鉄道の社長だった根津嘉一郎氏が晩年、「根津公園」(正式名は「朝霞遊園地」)という施設を作ろうとしました。人心が乱れているのを憂えて僧侶を育てる学校を開き、寺院を建立して大仏や梵鐘を設置自分の菩提寺とし、和洋折衷の公園を造り名勝遊園地にもしようという計画でした。

―いつ頃のことですか。

有永 昭和8年(1933)に用地約5万坪(武蔵学園資料によると4万6千坪余)を購入しています。12年には大仏の原型が完成しています。

―朝霞のどの辺ですか。

有永 現在の川越街道(国道254号)の南側、武蔵大学のグラウンド、自衛隊演習場の一部、以前の第四小学校のあったあたり(現在は新電元工業朝霞事業所、朝霞市水道施設など)です。前の朝霞警察署の前から参道が伸びていました。

根津公園跡地
現在の根津公園跡地(右のビルは武蔵大学プラザ)

隣地に昭和7年、東洋一の朝霞ゴルフ場がオープン

―当時も川越街道はあったわけですね。

有永 川越街道の旧道はありましたが、ほとんど松林と畑でした。

―なぜここだったのでしょうか。

有永 隣に朝霞ゴルフ場(21万坪)が昭和7年にできていました。東洋一と言われ、大変美しいゴルフ場だったようです。元々ゴルフ場は、朝霞は東京から距離も近く鉄道も通り土地も安いという理由で移転してきました。根津氏も同じように考え、さらにゴルフ場と連携して公園を売り出す狙いもあったと考えられます。

―東上線が通っていたことは大きいですね。

有永 東上線は大正3年に開業し、膝折駅(昭和7年朝霞駅に改称)がありました。やはり鉄道があるところでないと、こんな大きな、客を呼ぶような施設は作れません。昭和10年には根津公園参詣の便のため新倉駅(現和光市駅)を開いています。さらに、11年には朝霞遊園地、朝霞駅、東円寺、志木駅、平林寺を巡る観光用の環状線を作る計画も発表しています(計画は頓挫)。

幻の環状線
幻の環状線計画(有永克司氏作成)

米国の資産家の慈善事業に感銘、武蔵高等学校を設立

―話のスケールが大きいです。どうしてこのような事業を始めようと考えたのでしょう。

有永 根津氏は現在の山梨市に生まれ、株取引で富を得た後、事業に目覚め、東武鉄道の再建を果たした他24社の鉄道経営に関わり「鉄道王」と呼ばれ、他にも経営に参加した企業は200社を超え終身の貴族院議員にも選ばれました。そんな根津氏は40代の終わり頃の訪米で大実業家が慈善事業にいそしんでいるのを見て、以後社会への奉仕、利益の還元を心がけ、実践するようになります。教育事業として武蔵高等学校を創立、山梨県下全小学校へのピアノの寄贈、日本の美術品の海外流出を危惧した骨董の収集(後に根津美術館設立)などを経て、晩年に挑んだ畢竟の大事業が朝霞の仏教大寺院建立計画でした。

―自分のお金を使ったのですか。

有永 そうです。個人の事業でやっています。当時は根津財閥と言われるほど資金は潤沢で、70歳を過ぎており、財産を後に残さないという持論があり使い切ろうとしたのではないでしょうか。

宗教学校、寺院「青山寺」、庭園、宝物殿

―宗派に関係なく坊さんを育てるというのもユニークです。

有永 「根津翁伝」によると、人々が私利私欲に走るのを憂え、「思想善導のため仏教の一大殿堂を建て、学僧を社会に送り出して教化する任に当たらしむ」という狙いで、その際「仏教でも各派小異を捨て仏教の統一が必要である」としいずれの宗派にも属さぬ寺院とするという考え方でした。

―僧侶の学校を核としても名前と中身は「朝霞遊園地」だった。

有永 元々事業が好きな人だから、いろいろな人に相談しているうちにどんどんふくらんでいったようです。宗教施設のみならず和洋折衷の公園を作ろうということになったわけです。公園施設は、①人材育成のための宗教学校の設立、②仏教寺院「青山寺」の建立、大仏、大梵鐘、大灯籠、脇持仏など設置、③和洋の粋を集めた庭園、④美術品を展示する宝物殿、⑤墓苑、などです。

―これらの施設は形になったのですか。

有永 宗教施設がどういうものだったかはわからないんです。いろいろな資料を見ても出てきません。中途半端に終わってしまったと思われます。ただ僧侶が修行していたという記録はあるし、お店がありそこで人が働いていたという話は聞いたことがあります。観光客用にラムネとか売っているような店です。

鳴る鐘としては2番目に大きい大梵鐘

―梵鐘や灯籠はできあがったわけですね。

有永 大梵鐘は高さ3.9m、重さ6.75㌧、日本で3番目の大きさ、鳴る鐘としては2番目でした。昭和10年に完成しています。同時にできた大灯籠は東大寺の大灯籠と同じ大きさ・形のものでした。

大梵鐘
完成した大梵鐘(朝霞市博物館提供)

大仏は原型はできたが、金属統制で完成せず

―大仏は完成しなかった。

有永 大仏は像高11.8m、総高14.5m、鎌倉大仏より一回り大きく、露座仏としては日本一の大きさでした。製作者は日本一の鋳物師とされていた京都の高橋才治郎氏で、大仏と梵鐘の製作のため朝霞に移住してきました。昭和12年2月に大仏の石膏原型が完成しましたが、根津氏は気に入らず造り直させました。その後、7月に日中戦争が始まり、新原型が12月に完成するものの国から金属統制で銅の使用を禁止されてしまいます。

朝霞大仏
完成した朝霞大仏原型(有永克司氏提供)

―結局「幻の朝霞大仏」となってしまったわけですね。

有永 根津氏は昭和14年に親善使節として南米を訪問した帰途感冒にかかり、以後静養、翌15年1月、80歳の生涯を終えます。同年8月には根津公園用地は陸軍予科士官学校用地として買収されました。更地で引き渡す条件で、大仏は無残にも引き倒されました。

広大な陸軍士官学校の建設で敷地接収

―陸軍士官学校が朝霞にできたのですね。

有永 市ヶ谷から移転してきました。15年に土地を買収、16年に完成します。120万坪の広大な敷地で、根津遊園地の他、朝霞ゴルフ場もそっくり接収されました。現在の国立埼玉病院(和光市)は士官学校専用の陸軍病院として建てられました。

―根津公園にできたものは今は残っていないのですか。

有永 大仏は未完成のまま壊され、大梵鐘は完成していて土地売却の際根津育英会が引き取りましたが、その後金属供出。高さ12mの大灯籠は今は根津氏の墓のある多磨霊園に移されています。大灯籠は同じのものが靖国神社にもあります。昭和10年に根津氏が一対を靖国神社に寄付したのです。

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戦後、米軍基地、国有地を経て、武蔵学園に払い下げ

―戦後は朝霞に米軍が進駐してきます。

有永 戦時中は陸軍予科士官学校だけでなく、昭和16年に陸軍被服廠(20万坪)が朝霞に移転してきました。終戦後、それらと新倉倉庫地区がすべて米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとなりました。

―米軍の撤退後、広大な敷地は返還されていくわけですが、根津公園用地はどうなったわけですか。

有永 自衛隊基地、朝霞市の公共用地、それと昭和32年に根津育英会が旧地主として2万2千坪の払い下げを受け現在武蔵大学のグラウンドなどに使われています。

利益を社会に還元し、同時に夢を実現しようと考えた

―現在の東武鉄道は慎重な会社で、根津氏がこんな破天荒なことをやる人とは知りませんでした。 

有永 元々夢の大きな、山っ気のある人だったのでしょう。東武鉄道は創業したのではなく後で参加し再建した会社です。70歳を過ぎて、もうけたお金は社会に還元し、同時に夢を実現しようと考えたのだと思います。根津美術館も海外に美術品が流出していくのを食い止めようと買いためていた美術品が元になっています。

―結局これが完成できなかったのは戦争ですか。

有永 戦争ですね 日中戦争が始まると戦争遂行のために様々な統制があり、その中で金属の使用も統制された。士官学校も移転してきた。それがなければできていたでしょう。

―地域にとってはあまり痕跡が残っていません。

有永 期間が短かったのです。当時の子どもたちはみんな見学に行っていますが、士官学校が来た昭和16年以降は 中に入れなくなってしまった。だから知っている人は少ない。 

有永さん
有永克司さん

            (取材2024年4月)

根津育英会、武蔵学園の歴史についてはこちら

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