JR京浜東北線王子駅の南側、高台にこんもりとした森が続く。飛鳥山である。桜の名所として知られるが、その一角は渋沢栄一が明治から昭和初めにかけ別荘・邸宅を構えた場所である。内外の賓客、要人、一般庶民まで多くの人達が訪れ、歴史を形作った。渋沢栄一は飛鳥山とどう関わったのか。渋沢邸跡に建つ渋沢史料館の桑原功一館長にお聞きした。

8代将軍吉宗が桜を植樹
―飛鳥山はそもそもどういう場所だったのですか。
桑原 ここは江戸時代前期は野間氏という旗本の領地でしたが、享保元年(1716)八代将軍の吉宗が紀州藩主から徳川宗家を継ぎます。その後、飛鳥山の野間氏の領地を召し上げて王子権現社(今の王子神社)領とします。


―どうしてそういうことをしたのでしょうか。
桑原 もっと古くから説き起こすと、鎌倉幕府成立に尽力した豪族の豊島氏がこのあたり一帯を治めていました。豊島氏は紀州に地頭職を持っていた関係で、飛鳥山周辺は紀州にある地名が多くみられました。王子権現社の社名も紀州の熊野権現を勧請して、その祭神の一つ若一王子を奉斎したことに由来するとされています。飛鳥山の名も紀州熊野から勧請した飛鳥明神社があったことに由来するといわれています。
徳川吉宗は、江戸幕府が開かれて以来、初めて御三家から徳川宗家を継ぎ将軍になっています。それゆえに江戸周辺において自身の権威をアピールする意図もあったのでしょう。飛鳥山をはじめこの地域で、自分の出身地の紀州ゆかりの場所に目をつけます。飛鳥山が野間氏の領地だった時には一般の人は入れませんでしたが、王子権現社領にすれば誰でも入れるようになり、そこに植樹された桜のお花見をする人々が集い、太平の世を感じてもらう。紀州ゆかりの飛鳥山への桜植樹は、将軍に就任した自らの威光をアピールしつつ、政治的な安定を企図した政策とみられてもいます。飛鳥山のお花見は、上野ではできなかった歌舞音曲もOKでした。眼下にはのどかな田園風景が広がり、ちょっと気分転換できる江戸っ子たちの行楽地になりました。


―飛鳥山は自然の山なのですか。
桑原 標高25.4㍍。武蔵野台地の縁がふくらんだようになっていてガクンと落ちた先には、縄文時代の一時期、海が広がっていた地形です。今のJR京浜東北線は飛鳥山から田端、日暮里の道灌山、上野方面にかけて山のへりを走っています。

―飛鳥山は明治になりどうなりますか。
桑原 明治になり西洋の文化を取入れるなか日本も公園を設置するべきとして、明治6年に明治政府により、飛鳥山、上野、浅草、深川、芝の5か所に最初の公園が指定されました。

飛鳥山公園の隣接地を明治10年から購入・借用
―そして渋沢栄一が飛鳥山に目をつけるわけですね。
桑原 飛鳥山は王子村と西ケ原村にまたがっていましたが、飛鳥山公園に指定されたのは王子村でした。渋沢栄一は公園に隣接する西ケ原村の土地を明治10年から購入、借用しはじめ、翌年から工事を開始、12年より別荘として利用しはじめます。
―その頃の渋沢の立場は。
桑原 明治6年に明治政府を退官、第一国立銀行を創立、総監役を経て頭取になっていました。明治11年には東京商法会議所(現・東京商工会議所)を設立し会頭となるなど実業界を代表する立場となっていました。
明治6年に抄紙会社(後の王子製紙)設立、飛鳥山を気に入る
―王子製紙はもうできていたのですか。

桑原 栄一は明治6年に抄紙会社(明治9年に「製紙会社」と改称。現在の王子ホールディングス(株)、日本製紙(株)。以下「王子製紙」と称する)を設立、明治8年に飛鳥山の麓、石神井川沿いに工場を開業させていました。工場を開業させたことで栄一もこのあたりのことを知るようになったと考えられます。頭取として王子製紙会社工場に出入りし、明治10年には飛鳥山の北の方の亀山というところに仮住まいもします。栄一家族が住んでいた深川の方でコレラがはやり妻の千代さんがこわいと訴えます。空気のきれいな飛鳥山近くの亀山に空き家になっていた王子製紙のお雇い外国人用の洋館がありました。そこに半年くらい住んでいました。その時栄一は、飛鳥山付近を見て「こんなところに住んでみるのもいいと思った」と語っています。
―飛鳥山の何がいいと思ったのでしょうか。
桑原 当時、本邸のあった深川は低地部ですが、飛鳥山は高台で空気や景色もよい。お客をもてなし、みんなで集える場所を求めたのではないでしょうか。維新以降、来日する外国人が来ることも増えており、外国人を接待し交流する場所も必要でした。
明治12年、飛鳥山に別荘、明治34年引っ越してくる
―その後、引っ越してくるのですか。
桑原 仮住まいからまた深川に戻り、深川に本邸を置きながら飛鳥山に明治12年に別荘を開設します。開いたばかりの別荘に最初に来た外国のお客がグラント将軍・前アメリカ大統領です。接待委員の代表を栄一はやっていました。飛鳥山邸は明治34年までは別荘でした。
―それからは飛鳥山が本邸に。
桑原 明治34年家族とともに引越してきます。その際、増改築し、主屋(日本館)は大きくなり、西洋館なども建てました。

―千代さんも一緒ですか。
桑原 明治15年に、飛鳥山の別荘で療養していたのですが、亡くなっています。明治34年に引越してきた時の妻は兼子夫人です。
―渋沢はいつまで飛鳥山に住んだのですか。
桑原 昭和6年11月11日に亡くなるまで。約30年間です。


東京ドームの3分の2の広さ、日光御成道(本郷通り)から入る
―屋敷全体でどのくらいの広さ。
桑原 約8470坪。東京ドームの3分の2くらいです。
―主屋(日本館)はどこにあったのですか。
桑原 渋沢史料館の玄関を出て左手、北区飛鳥山博物館の軒先あたりから現在レストランになっているところの前あたりです。日本館に連結して西洋館がありました。空襲で焼けました。

―門は。
桑原 史料館を出て右手、ちょっとスロープになっている道の途中に表門がありました。日光御成道(現本郷通り)から入ったところです。

死去後、土地・建物は竜門社(今の公益財団法人渋沢栄一記念財団)に寄贈
―渋沢が亡くなった後屋敷はどうなったのですか。
桑原 栄一は、私が亡くなったら土地や建物は竜門社(今の渋沢栄一記念財団)に寄贈すると遺言を残していました。昭和8年に遺族から寄贈されました。その後竜門社理事長となった栄一の娘婿阪谷芳郎(大蔵大臣、東京市長など歴任)は、邸の一般公開も進めました。
―家族個人には遺贈されなかったのですか。
桑原 渋沢子爵家を継いだ孫の渋沢敬三は三田綱町に家がありました。
内閣総理大臣第二官邸となり空襲で焼ける
―その後、空襲に遭うわけですね。
桑原 空襲にあった段階では内閣総理大臣第二官邸になっていました。昭和20年、土地・建物を政府に献納し、第二官邸になってから空襲を受けました。
―狙い撃ちされたのですか。
桑原 麓一帯に軍事工場があり、そこが狙われたのです。
―空襲で何が焼けた。
桑原 4月13日の東京城北大空襲で主屋(日本館、西洋館)、無心庵という茶室などが焼け、残ったのは晩香廬、青淵文庫と兜稲荷社です。
晩香廬、青淵文庫、兜稲荷社
―晩香廬とは。
桑原 大正6年、栄一の喜寿のお祝いに清水組(現在の清水建設(株)、渋沢が相談役を務める)から寄贈された洋風茶室でレセプションルームとして使用されました。インドの詩人でノーベル文学賞を受賞したタゴールがやってきた時、ここで会見しています。


―青淵文庫とは。
桑原 栄一が80歳の傘寿を迎え、男爵から子爵に昇格した際、それをお祝いするために竜門社が寄付を募って栄一に贈った、栄一の個人図書館です。清水組が建築しました。

―渋沢の蔵書が収められているのですか。
桑原 論語関係の書籍とか徳川慶喜の伝記関係の資料とかを収めるべく造ったのですが、完成する直前に関東大震災が起きます。蔵書類は日本橋兜町の渋沢事務所に置いてあったのですが、罹災してりほとんど燃えてしまいます。2年後、大正14年に青淵文庫が完成しますが、収める蔵書はなかった。その後、集め直された論語関係書籍などが納められましたが、今東京都中央図書館(広尾)に青淵文庫として納められています。
―兜稲荷社とは。
桑原 元々三井家が造った社で、明治30年代の初めまで兜町の第一国立銀行の構内にあったのですが、建物を建て替える時栄一が引き取って飛鳥山邸に移しました。社殿は老朽化で1960年代に建て替えられましたが、往時の基壇や石造物はそのまま残っています。

主屋(日本館)は真ん中に舞台があった
―焼けた日本館はどんな建物だったのでしょうか。
桑原 平面図がありますが、屋敷の真ん中に舞台がある。この建物はお客をもてなす趣向がこらされています。タゴールは縁側から土足で上がり、畳の部屋に敷物を敷いて、椅子に座って、舞台で演奏されるお琴を聴きながら栄一と会談しました。

―戦後、土地と建物はどうなりましたか。
桑原 政府から渋沢青淵記念財団竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)に返還されました。1990年代に所有していた土地は北区に譲渡して全部飛鳥山公園に組み入れられた。公園全体の3分の1くらいが旧渋沢邸跡地です。現在、公益財団法人渋沢栄一記念財団は渋沢史料館本館・晩香廬・青淵文庫などの建物を所有し、管理、公開しています。

―渋沢史料館は。
桑原 栄一の事績や思想を紹介する博物館として、旧飛鳥山渋沢邸跡に1982年に開館しました。1997年に本館を竣工し、1998年3月にリニューアルオープンしました。その際、隣接する北区飛鳥山博物館、紙の博物館も」そろってオープンし、飛鳥山公園内にあるこの3館を「飛鳥山3つの博物館」と称しています。

―渋沢栄一が30年間住んでいたわけですから、飛鳥山は明治から昭和の初めにかけて日本の経済界の主要な舞台だったといえますね。
桑原 外国からの賓客を含め、いろいろな人が出入りしています。徳川慶喜も最初は明治32年5月、茶室「無心庵」ができた時に訪れています。伊藤博文や井上馨とかも。
面白いのは、要人だけでなく、知らない人も含めていろいろな客がいっぱいくる。栄一は誰でも時間がある限り話を聞いて、協力できることはする。朝は、栄一に面会を求める客が飛鳥山邸に列をなしていたといいます。栄一は、埼玉学生誘掖(ゆうえき)会という育英団体の会頭も務めていました。この会は埼玉県出身の学生の寄宿舎の運営もしていましたが、その学生が朝6時くらいにやってきて、「先生講演してください」と言うと、ニコニコと出てきて「ああいいよ」と答えたと、栄一が亡くなった後の追悼の文章にあります。
多くの人が訪れましたが、いろいろな企画、事業を立ち上げようとする人たちもやってきて助言、支援を求め、栄一はそれに応える。そういう場所でもありました。
―今街の再開発が進み、飛鳥山周辺の風景も大きく変わりそうです。

桑原 王子駅東側の今、ゴルフ練習場があるあたりに王子製紙で最初に造られた第1工場がありました。王子製紙工場跡地やその周辺エリアに、北区役所の新庁舎建設や民間による開発などが検討されているそうです。街は変わっても、飛鳥山と渋沢栄一の歴史は伝えていきたいと思います。 (取材2026年8月)

