広告

愚者の独り言⑫ 大きな文字も楽しい 花見大介

 『文豪の名作短編集』-大きな字でもう一度読みたいー、という本が最近、出版されたのをご存じだろうか。編纂したのは彩図社文芸部という本好きでも馴染みの薄いとみられる出版社。小さな文字が見え辛くなってきた人にも、読書を楽しんでほしいと思いから制作したという。本を持つ手が疲れにくいようにとの配慮から、判型も文庫版にしてある。同社によると、この文豪の名作短編集は、大手書店では目立たない場所にひっそりで陳列する店がほとんどだそうだ。現に筆者がこの本を見付けたのも偶然で、その場所を後から思い出そうとしてもできなかったところだった。

大きな文字でもう一度読みたい文豪の名作短編集

 日本標準規格では1ポイントの活字の大きさを0.3514ミリと定義し、標準サイズを10.5ポイント(3.69ミリ)としている。大手新聞社の新聞記事のざっと2倍の大きさとみれば間違いない。この大きさで1ページの行数は、10行しかない。1行が29字だから、名作短編集の1ページの総文字数は290字に過ぎない。新聞記事に直せば、たったの1段・27行である。通常の文庫本と比べれば、ざっと半分に満たない字数。小学校低学年や幼稚園児向けの絵本の類ならともかく、大人や高校、大学生向けにこの種の本が出版されるのは珍しいのではないか。

 この本に収録されている文豪は第1巻が8人、第2巻が6人。さほど多くない人数なので列記すると、第1巻が芥川龍之介、宮沢賢治、有島武郎、太宰治、森鴎外、梶井基次郎、小泉八雲、坂口安吾。第2巻は芥川龍之介、太宰治、江戸川乱歩、夢野久作、横光利一、中島敦。芥川と太宰は1,2巻ともに掲載されている。本好きなら、何回も耳にしたことがあるのではないか。芥川は『羅生門』はじめ数々の短編小説を発表し、今に至るも数多くのファンがいる。太宰は薬毒中毒や自殺未遂を繰り返す一方で、『人間失格』「斜陽」などで読者の高い支持をえている。

 私はこの2冊に掲載されている短編のうち8割程度しか読んでいないが、短編集を読んでみて思い出すことも多かった。例えば江戸川乱歩。私が少年時代を過ごした東京の下町の家の近くに、老夫婦で商っている小さな古本屋があった。本好きだった私は書店と気取る必要のないその古本屋へ乱歩の『怪人40面相』などをよく買いに行ったものだった。ある日のこと、老婦人が「ねえ、あなた。いつも本を買ってくれてありがとう。でも、そんなにいつも買っていては、いくら古本とはいえ、お小遣が足りなくない?」と言う。

 確かに、本代がもっと欲しかった。でも、私には兄弟が多く、暮らしも決して豊かだとは言えなかった。それを口にしたら、女主人が「それなら、こうしたらどうかしら」とある提案をした。「あなたが買った本を汚さず、傷をつけずに店へ持ってきたら、買値の半額でこちらが引き取りましょう。半額にした分、あなたの本代が増える計算になるわよね」。私がその提案に飛びついたのは、言うまでもない。人の痛み悲しみ、困難などに他人も身を寄せる、昭和とはそういう時代だった。

 芥川龍之介にまつわる思い出には、こんなこともあった。学生時代に就職活動をしていた時のことである。志望は今でいう情報産業。当時、その業界での一方の旗頭だった有力企業を受験した。私の周囲の者たちは皆、“傾向と対策”に励んでいたが、私はとても無理と思っていたから、対策など立てなかった。筆記試験を何とか乗り切り、面接試験へ。大きな会議室には、社長をはじめ社の幹部が顔をそろえていた。当たり障りのないやり取りが続いた後に、社のナンバー2か3らしき人が、意地悪な質問をぶつけてきた。「君、そこに座っている今の心境を言いたまえ」。

 受験生は誰もが、合格したいに決まっている。だが、合格したい、入社したいと訴えても、面接官を満足させられない。とっさに浮かんで口にしたのが、読んだばかりの芥川龍之介の小説だった。「蜘蛛の糸にすがる思いです」と答えた。「その言やよし」との声が間髪を入れず返ってきた。無事、入社を果たしたのはあの小説のおかげと今でも思っているし、小説にまつわる懐かしい想い出である。

 本に関する想い出はまだ多く経験しているが、話を文豪の名作短編集に戻したい。延べ14人による14編の大半に共通するのが、人間に対する強い関心と愛ではないだろうか。森鴎外の『高瀬舟』では島送りになる罪人のちょっとした表情の変化から、護送役の奉行所同心の気持ちが変わっていく様を描いているが、人への関心、やさしい気持ちを持ち合わせないと書ききれない。文豪と呼ばれる人のほとんどに共通している性情ではないか。もう一点は人間心理を深掘りしている点。ある高名作家が「小説は書き出しと最後の下りをどう書くかで決まる。そこがまとまれば、完成したも同然」と話したのを聞いたことがあるが、文学作品で人間考察に長い時間を費やし考えた人でなければ言えない言葉だろう。

 主に明治から昭和の時代に活躍し、今も人々の支持・共感を得ているテーマを描いている人々を世間では文豪と呼ぶ。彼ら、彼女らの中には、今回採り上げたもの以外にも優れた短編を世に送り出している。1冊で10人を超す作家の作品に触れられるだけでなく、活字が大きくて読みやすい、文庫型なので持ち運びも楽、読書の領域が広がるなど、今回の彩図社の名作短編集とても面白い企画と思われる。出版社には3冊目以降の出版を期待したい。 

花見大介 :元大手経済紙記者、経済関係の団体勤務もある。近年は昭和史の勉強のかたわら、囲碁、絵画に親しむ。千葉県流山市在住