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愚者の独り言⑥ 八つ当たり英語教育談義 花見大介

私が中学校に入って初めて英語に接してから間もなくのころ、教室で「教科書のこの一文を読んでみなさい」と先生から指名されたことがあった。読んだ後の先生は「F=エフ=の発音がとてもいい」という感想を一言だけ述べた。Fは下唇を上の歯でかむ発音方法。大昔には日本語にも大昔にはあったそうだが、いまは使われていない。どのような文章だったか、全く記憶にないが、これ以外には大学までを含め、英語の学習で人から褒められたことは皆無である。何十年も前のことを覚えているというのも、英語の先生が若くて、とても美人だった以外に思い当たらない。そのほかの英語にまつわる話、ことに会話については全て失敗談などで占められている。           

英語の読解については十分な力を備えているのに、会話となると様変わりと言う人がいる。日本人では多数派、と言っても叱られないだろう。いずれは少数派になっていくと思われるが、そもそも日本人は語学に対する才能を備えているのか、という疑問を長いこと持ってきた。自分に才がないから、ひがみ根性から言っているわけではない。

幕末から明治時代にかけて来日した外国人の英語教師が、日本人の語学能力に驚嘆したという話が伝えられている。「ホンマかいな」と?マークをつけたくなる。大方、日本のお偉方にゴマをすった感想に違いないと受け止めたくなる。ここで言う日本人の能力とは、国民全体を指すのではなく、上流階級や特権階級、富裕層の中から、優秀な能力を有する者だけを選び、教師の下へ送り込んだ結果だろうと想像できる。もう一点は、英語教育には会話能力をどれだけ重視しているのか、という疑問である。英米など海外諸国との通商交渉での日本側代表の発言は、通訳を介したものだけというのも、この疑問を加速させる。

第2次世界大戦後の日本では、英文学者の間で「英語教育教養論」の立場を採る人が多かったと語り継がれている。英文学者と言っても、実際は英語での会話は苦手で、コンプレックスを抱いている人が相当いたそうだ。この教養論の背景には英語は詠み、書きが出来れば事足りるという自己都合的な言い分があったと受け止められていた。コンプレックスを覆い隠す行為と言っても、言い過ぎとはならないだろう。幸か不幸か、この英語教育教養論の考え方は、戦後の英語教育に脈々の時代まで引き継がれ、大げさに言えば昭和から平成の時代まで引き継がれた。

時は令和の時代。政治や経済、文化や日常生活などあらゆる分野でのグローバル化が急速に進み、英語の世界共用化が動かせないものになった。2020年4月からは、小学校での英語の授業が始まった。英語が必須科目になり、通知表にも成績が載る。政界や学識経験者、産業界では、その必要性を指摘する声が高まっていたが、小学生を対象とした英語教育には国民の間でも賛否が大きく割れていたように見える。大雑把に言えば、高齢者は反対、若年者は賛成と色分けされるが、高齢者の中にも賛成、若年者のなかにも反対者が少なからずいて、複雑な色模様を見せているのが実態だ。

賛成論者の言い分を私なりに纏めると、あらまし以下のようになる。①グローバル化社会に適応し、実践的な語学力を身に付けさせるうえで役に立つ②異文化にごく若いころから触れることは、視野を広げるうえでプラスになる③英語脳を作るうえでいい効果が期待できる④子供の好奇心を助長し、学科全体への学習効果が高まる⑤中学校で英語につまずきにくくなるうえ、中学受験にも役立つ・・・などである。

反対論者の指摘は①日本語と英語の2か国語の学習は、子供の負担を重くする②英語嫌いが嵩じ、それが他の科目にも良くない影響を与えかねない③論理な思考能力を高めるには、ベースとなる日本語をしっかり学ぶ必要があるのに、それがおろそかになる可能性がある④英語が世界共通語になろうとして状況は認めるが、全ての人が英語を話せる必要はあるのか疑問⑤教える側の体制が不十分であるまる⑥9歳、10歳子供では早すぎる・・・が主な論拠である。ちなみに、文部科学省が英語教育の始まった後に、教育対象となる小学校3年生、4年生にアンケート調査を実施した結果では、全体の約30%の生徒が「英語は嫌い」と答えている。

小学生に英語教育をしたらいいのかについては、各界から様々な意見が出されていたが、賛成論の中ではグローバル対応が、反対論では日本語との関連のあたりが妥当な意見だろう。でも、どれも今一つパンチに欠けるとの印象をぬぐえない。その中で最も説得力のある考えをひとつだけ挙げるとしたら、年端もゆかない、論理だった日本語も話せない子供に、なぜ急いで英語の勉強をさせる必要があるのかという反対論ないしは懐疑論である。賛成論の中に中学受験に役立つという声があったが、どのような人々が言っているのか、容易に想像できる。格差社会と受験戦争に毒された弊害を見る思いがする。

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小学生たちに美しい日本語をしゃべれと言っても、無理な相談である。親の日本語が乱れているのに、子供だけに正しい日本を話せと言うわけにはいかない面もある。日本人である以上、論理的な思考力を備えるための日々の努力を英語でするわけにもいかない。英語の前にまず日本語を、というのが妥当な手順というものだ。英語教育には単語や熟語の読み書きだけでなく、文章やメッセ維持の理解力や伝達力も教えることが、言うまでもなく欠かせない。それらすべてを子供に要求するのは酷というか、時期尚早というものだろう。

自国の言葉を大切にするということは、今やすたれそうになっている国を愛する心に通ずる。愛国心を持たない人が、どうして外国人と対等の立場に立って渡り合うことができるのだろうか。それには正しい日本語を身に付けることが前提である。そうでないと、単なる「英語屋」に終わってしまう。意思を伝えるだけなら、翻訳機があれば済む。生成ai(人工知能)を活用する手もあるだろう。すべての人が英語を話せる必要があるのか、総人口の5%の人がいればコト足りるとの意見にも耳を傾けたい。                                               

 小学生への英語教育は、まだ始まったばかりである。不慣れな教師の間には依然、対応しきれない戸惑いの声がまだ多いと聞く。その成果が出ているのか、うまくいかないのか、どこに問題があるのかといった検証作業をするには早すぎるだろう。「教育は100年の計」という。せっかく始めたのなら、どのような国にしていくのかという骨太の議論を展開したうえで、教育内容を充実させていくことが望まれる。英語が必要だからという、間に合わせの方針だけは採らないでもらいたい。

 花見大介 :元大手経済紙記者、経済関係の団体勤務もある。近年は昭和史の勉強のかたわら、囲碁、絵画に親しむ。千葉県流山市在住

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