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「足利基氏塁跡」は「鎌倉殿の13人」比企能員の館跡だった 岩殿観音正法寺(東松山市)

東上線高坂駅から県道を上りこども動物自然公園、大東文化大学を過ぎ、左手につつじの名所物見山を見る峠の右手崖下に伽藍と長い参道が続く坂東三十三観音十番札所、巌殿山正法(しょうぼう)寺(岩殿観音)。この寺は源頼朝に仕えNHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも登場した比企能員(よしかず)が再興し、すぐ近くの「足利基氏塁跡」に能員の館があったという。比企尼(ひきのあま)に始まる比企氏の本拠地であった可能性もある。岩殿観音の歴史、比企氏との関係などについて中嶋栄住職にお聞きした。

足利基氏が比企能員館跡を再利用

―比企能員の館がここにあったということでしょうか。

中嶋 当山岩殿観音の表参道の入口に「弁天沼(鳴かずの池)」という沼があり、その裏手の丘陵一帯は現在「足利基氏塁跡」という史跡ですが、そこは元々比企能員の屋敷があった場所と考えられます。

足利基氏塁跡

―そのように考える根拠があるのですか。

中嶋 当寺に伝わる江戸時代の古い絵地図には、そこが「比企判官(はんがん)旧地」とあります。「比企判官」とは比企能員の官職です。

江戸時代の絵地図(正法寺ホームページより、岩殿観音に伝わる江戸時代後期の古地図『比企郡巌殿山之図』 画像右下赤矢印部に「比企判官旧地」とある)

―「足利基氏塁跡」となっているのはどうしてですか。

中嶋 足利基氏は足利尊氏の次男で、南北朝時代初代鎌倉公方として活躍した武将です。貞治2年(1363)、芳賀高貞との間でいわゆる「岩殿山合戦」を戦った際に比企の屋敷を館として再利用して布陣したとされています。元々あった屋敷跡は東西が約180m、南北が80mありました。九十九川と谷筋の湿地が敵を防ぐ役割を果たし、好立地であったと考えられます。

弁天沼は阿弥陀堂の浄土庭園

―「弁天沼(鳴かずの池)」は館に関係があるのですか。

中嶋 弁天沼は昔坂上田村麻呂が岩殿山に棲む悪竜を退治し首を埋めたという伝説がある沼ですが、ここに阿弥陀堂が建ち浄土庭園だったのではないかと言われています。ここは基氏の館跡の西側の端に当たります。阿弥陀堂は今は建物はなくなっています。

弁天沼

―阿弥陀堂も能員が造営したのでしょうか。

中嶋 スポンサーがいないとそれだけのものを作ることはできません。

―能員の館はここだとして、比企尼(ひきのあま)を含め比企一族の館も元々ここだったということでしょうか。

中嶋 比企尼の館がどこにあったかはわかりません。候補地は諸説あります。はっきりしているのは絵地図によると比企判官の旧地であったということです。

―比企尼の館の可能性はある。

中嶋 そうですね。比企尼の夫の比企遠宗は源義朝に仕えて京にいたわけで比企は留守宅。 能員も頼朝が鎌倉に幕府を開くと今度は鎌倉に屋敷を構えてここは留守宅です。それほど大きな屋敷は必要ではありません。

正法寺参道から阿弥陀堂・弁天沼方向を望む

坂東三十三観音十番札所

―岩殿観音は源頼朝によって坂東三十三観音十番札所に指定されたわけですね。

中嶋 頼朝は観音信仰のあつい方で普段から観音経を唱え持仏の観音様を持っていました。当時西国に33カ所の観音の霊場があり、頼朝も幕府を開き、坂東に33カ所の霊場を作ることになり、比企は九番の慈光寺(ときがわ町)、十番の正法寺、十一番の安楽寺(吉見町)と3ヵ寺を占めています。

坂東十番札所

―正法寺が制定されたのは能員の館があったからですか。

中嶋 それもあると思います。比企尼は伊豆に流された頼朝を20年にわたり支え続けました。その子(猶子)の能員は有力御家人です。十一番安楽寺は頼朝の腹違いの弟、範頼が開いた。慈光寺も頼朝が信仰していたということです。

―岩殿観音は北条政子の守り本尊とされていたのですか。

中嶋 頼朝が信仰したこともあるでしょうが、頼朝と政子が結ばれ頼家を身ごもる。その時政子は比企氏の屋敷に移り出産、今度は能員の奥さんが頼家の乳母となります。その時に岩殿観音を北条政子の守り本尊にしたのではないかと考えています。政子は頼朝の没後の正治2年、本山の堂宇を再建しています。

比企能員は岩殿観音の中興の祖

―比企能員は岩殿観音の中興の祖とされています。

中嶋 平安時代の岩殿観音は開山から300年以上たち諸堂の痛みもあり衰退していました。そこで能員は頼朝の庇護の下、岩殿観音を復興しました。その時66坊が造営されました。

―66坊はどこにあったのですか。

中嶋 今の門前、参道沿いです。

現在の正法寺参道

―今は残っていません。

中嶋 当山は永禄3年(1560)に北条氏康によって焼き討ちされてしまいました。当時氏康は松山城の上杉氏を攻めていましたがなかなか落ちなくて、周りの寺社にも火を放ったのです。その時66の寺も焼けてしまいます。その後に栄俊という僧が天正3年に十数ヵ寺を再興しました。その時は松山城の上田氏の力もありました。

―門前町ができたのはいつからですか。

中嶋 門前町になったのは江戸時代になってから。徳川の時代になり政治が安定し一般の人が各地に出かけるようになり、札所巡りも盛んになる。ここの門前にも多くの方が参拝に来られ、そこで商いを始める人達も出てて門前町になってきます。当時はとても賑やかで、松山の町よりここの方が人出が多かったそうです。

能員の供養碑

―お寺には、他に比企能員関連の史跡がありますか。

中嶋 仁王門から階段を上ったところに供養碑があります。江戸時代の「坂東観音霊場記」に、岩殿別当であった入道覚西が入滅後に追善の石碑を建てた、とあります。覚西は能員であり、その菩提を弔うために建立されたと伝わります。

能員の供養碑

判官塚

―判官塚とは。

中嶋 判官とは比企能員の役職名であり、能員が亡くなった後に供養のために建てた社です。健保6年(1218)に孫の員茂(かずしげ)が建て、その後いつの時代か比企大神として崇め、参拝するようになったとのことです。元々は隣の大東文化大学の敷地にありましたが、大学の工事の際に現在の場所に移築されました。参道から階段を上った高台にあります。

判官塚

壮大な規模

―こちらのお寺は規模が雄大ですね。

中嶋 これだけ大きなお寺はあまりありません。天正19年(1591年)には徳川家康により朱印地を賜り、江戸初期には脇坊10ヵ寺、正法寺の塔頭4ヵ寺、修験3院、8社が山内鎮守として祀られていました。寛政6年(1794年)には出家した皇族が入寺することのできる永代寳光院室兼帯を許され、十六菊の紋の掲揚が認められています。明治の廃仏毀釈で多くの寺社が廃されました。明治11年に観音堂が焼けましたがそれまでは11間(20m)四面の大きなお堂だったそうです。

正法寺観音堂案内図

くつわ虫

―くつわ虫の話とは。

中嶋 言い伝えです。建仁3年(1203)にいわゆる比企の乱がおき比企氏が滅びますが、その時一人の尼僧が身重の身で正法寺にたどり着く。くつわ虫は人が来ると鳴き止む。落人が逃れてきた時くつわ虫を屋敷の周りに放っておくと、敵が来た時に鳴き止むのですぐわかる。ところが、住職はそれを逆手にとった。くつわ虫がいっぱいいれば誰かかくまっていると感づかれる。そこでくつわ虫を全部退治してしまった。今でも当山ではくつわ虫が鳴きません。

中嶋住職

(取材2022年12月)

源頼朝が再興した 坂東札所十番 巌殿山正法寺(2017年)

比企氏代々の墓が並ぶ金剛寺(川島町) 館跡の可能性(2022年)

鎌倉幕府を支えた比企尼の館(三門館、滑川町) 800年守り続けた齊藤家(2021年)

中世史に大きな足跡を残した比企氏 頼朝を支えた比企尼 子どもたちもそれぞれ活躍

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