沿線歴史点描⑮沿線団地開発小話(2)長瀬団地と霞ヶ丘団地、二つの団地の現在 山下龍男

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スラム化が危惧された70年代

1970年代の後半、30歳を間近にした私は、そろそろ独立して家でも買おうか借りようかと考えていた。そこで何冊か家の買い方・借り方のような本を買い込んだのである。その中に、当時、気鋭の住宅評論家として健筆をふるっていた佐藤美紀雄氏の著書があった。タイトルは忘れたが、業界におもねらない筆致が今も印象に残っている。

本を手に取ると、まず地元である東上沿線の記事に目が行ったわけだが、残念ながら沿線不動産の評判はあまり良くなかった。特に宅地のミニ開発は、街づくりのうえでマイナスになると、佐藤氏は強く指摘していた。その代表例として挙げられていたのが武州長瀬の団地だ。狭小な敷地ぎりぎりに建てられた千戸以上におよぶ建坪十坪前後の板張り木造住宅の群れ。この本が発行された昭和50年代前半、これら木造家屋は、築後15年にして痛みが激しく、佐藤氏にはスラム化寸前と映ったのである。

保持されていた地域共同体

今回、この原稿を書くにあたって、私は30年ほど前の佐藤氏の記述が思い出された。東上沿線初の民間デベロッパーによる大規模宅地開発である長瀬団地は、はたして21世紀の現在、佐藤氏の危惧が現実になってはいないだろうかという不安を抱いて、7月下旬のある日、武州長瀬駅に降り立った。

長瀬第一団地の中心部にあるロータリー

駅舎も駅前も最近整備されたようでこざっぱりとしていた。踏切を渡り長瀬第二団地に向かう。第一団地より数年遅れて開発された地区だが、やはり昭和30年代末期の分譲である。途中の商店街はシャッターが下りている店舗が多いが、これは地方の駅前商店街に共通した現象だ。数分歩いて道路を右に折れると長瀬第二団地に入る。佐藤氏が荒廃を指摘した板張り平屋住宅は、ほとんどがモルタル塗りの2階建てに建て直されていた。敷地が狭いのは変わりないが、恐れていたスラム化現象はまったく見られなかった。どうやら、佐藤氏の心配は杞憂に終わったようだ。

その後、第一団地に回ってみた。こちらは第二団地よりさらに敷地が狭いが、やはりほとんどの家が建て替えられ、スラム化とは無縁の、静かな住宅地として存続していた。団地内の商店街を進んだところがロータリーとなっている。このあたりに団地の集会所や小公園がありコミュニティの拠点となっているようだ。掲示板に団地主催の夏祭りのポスターが貼り出され、つつましくも健全なコミュニティが維持されていることを確認できた。

スクラップ・アンド・ビルトの公団住宅

戸建て分譲に先行して、昭和30年代中期から沿線に展開した賃貸型の公団団地は、1990年前後から老朽による建て替えが開始された。前回紹介した上福岡の霞ヶ丘団地も、旧来の建物はほぼ姿を消し、住宅公団を引き継いだ住宅都市再生機構の手で再開発された。敷地の一部には民間業者による高層分譲マンションも建てられている。

霞ヶ丘団地。わずかに残る創建当初のテラスハウス(右)と新しく建てられた分譲マンション(左)

しかし、気になるのは昭和30年代の団地住民として高度成長期を支えた人々の行く末だ。東上線に都市の空気を運んでくれた彼らの何割が、建て替えられたか霞ヶ丘団地にいわゆる「戻り入居」を果たせたのか。彼らが30年近くにわたって築いてきたコミュニティは、いまも受け継がれているのだろうか

百年は持つと言われた鉄筋コンクリート建築が、その半分の50年もたたずに老朽化して取り壊さなければならないというその意外な短命性。ふじみ野駅前や再開発後の霞ヶ丘団地にそびえる高層マンションも50年後には再び取り壊されるのだろうか。その時、多くの住民が心ならずも住み慣れた街を去ることになるのではないか。これが、佐藤美紀雄氏が長瀬団地に抱いたような杞憂に終わってくれればよいのだが。

(本記事は「東上沿線物語」第26号=2009年11・12月に掲載したものを2022年2月に再掲載しました)

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