松永安左ヱ門は、明治から昭和にかけ、電力事業で名を成し戦後の電力再編成を主導し「電力の鬼」と称された。同時に、「耳庵」の号を持ち茶人としても知られる。松永は柳瀬山荘(所沢市)に住み、平林寺(新座市)を菩提寺にするなど地域と深い関わりを持つ。新座市は市制施行55周年記念行事として令和7年11月から12月にかけ市立歴史民俗資料館(れきしてらす)で「松永安左ヱ門生誕150周年記念展」を開催した。同館文化財担当の秋山大海さんにご説明いただいた(12月14日ギャラリートーク)。

「もう少し本物の福澤先生は野蛮だった」
松永安左ヱ門は長崎県壱岐の出身で亀之助という幼名でした。15歳で上京するきっかけは『学問のすすめ』に感銘を受け、福澤諭吉に指導してもらいたいと思ったことでした。福澤はたくさんの門下生を持ち、多くの人が彼の人となりを尊敬しています。教え子の一人で、経済学者の小泉信三も福澤を尊敬していますが、松永は自著で「今日の小泉さんが書くよりも、もう少し本物の福澤先生は野蛮だったことは確かである」と記しています。奇をてらったようにも感じるかもしれませんが、福澤は中津藩士の出なのでこの評は的を射ていると思われます。はっきりと言うところが松永の性格を現しているとも思います。
兄弟のような関係だった福澤桃介
松永は慶應を途中で休学・中退しながら福澤の近くで勉強し、後に実業家となりました。慶應時代、もう一つ大きな出会いは福澤の娘婿だった福澤桃介です。桃介は松永の8歳上、学生時代に経済論議を交わした桃介は、仕事仲間でありライバルでもあり兄弟のような特別な関係にありました。
松永が実業家として名をなすのは電力事業に参入してからです。九州で電力事業を始めた後、桃介が中部地方で持っていた会社(関西電気)と合併し東邦電力を立ち上げ、当時の5大電力になるまで成長させました。その活躍から「電力王」と呼ばれるようになりました。
今回の展示は、新座市と松永のつながりと、こわい印象がある松永にはユニークな一面がある、ということを知ってもらいたいと思っています。
東邦産業研究所から分かれて設立されたサンケン電気
新座市とのつながりとして、一つは東邦産業研究所があります。元々は東邦電力の中に調査研究部があり東邦電力の創立50周年を記念して創られた財団法人です。この研究所は昭和22年に解散しますが、その前年にここで働いていた小谷銕治が研究所から独立する形で東邦産研電気を創業します。これが今のサンケン電気(本社新座市)です。また研究所の設備と土地は慶應義塾に寄附され、現在は慶應志木高等学校が所在します。

今回の展示では、サンケン電気から会社の創立10周年記念に松永が揮毫した書をお借りしました。「文明世界不許人間怠慢(文明世界人間の怠慢を許さず)」、まさに松永の性格を表す力強い文章です。
益田鈍翁と原三溪が茶の世界に引き入れる
松永と新座市のもう一つのつながりについて話す前に茶人・耳庵の話をする必要があります。松永は昭和9年、60歳頃から茶道を始め、貴重な茶道具や骨董品の蒐集、茶室の建築をします。松永を茶の世界に引き入れたのが、松永と共に近代三茶人と称された、益田鈍翁と原三溪の2人です。松永が茶の世界に入ることで、様々な実業家や文化人との交流ができる、茶道具や骨董品の蒐集により日本古来の美術品の海外流出を防ぐ、茶道による精神修行によって自他ともに認める癇癪持ちを軽減する、といった効果があったと言えます。
「耳庵」は雅号で、松永が始めて建てた茶室の庵号をそのまま雅号にしたものです。論語の一節「六十にして耳に順(したが)う」を元にしています。松永は、身長180cmくらいある大男で耳も相当大きかったらしく、鈍翁は「耳が大きいから耳庵としたのかと思っていた」と言っていました。今回「耳庵」という鈍翁の書を小田原市からお借りしました。

柳瀬山荘に平林寺住職の峰尾大休老師を招いて茶会
新座市とのつながりの二つめは平林寺です。松永は自身の茶道の考えや茶会に関する記録を記していますが、昭和13年の茶事で、柳瀬山荘に平林寺住職の峰尾大休老師を招いたと記されています。大休老師は当時、妙心寺派管長も兼務していました。前述の茶事は大休老師が京都から、久方ぶりに戻ってきた時の茶事です。床には平林寺を開山した石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師の書を掛けてもてなしました。
今回の展示で、大休老師が松永に送った漢詩(古徳偈 応需一洲翁=ことくげ おうじゅいっしゅうおう)があります。この漢詩が書かれたのは昭和16年です。松永は戦前に電力事業の第一線を退き柳瀬山荘にこもって茶道三昧の生活を送りました。「(禅僧の)つつましい生活には少々の水と空を流れる雲さえあれば充分である」という意味が込められた漢詩は、柳瀬山荘での隠遁時代の心構えを示すために大休老師が選んだのでしょう。松永は平林寺を菩提寺とし、山門の脇間に安置されている金剛力士像などを寄進、寺の隣地には田舎家(現在の睡足軒(すいそくけん))を建てました。

益田鈍翁と松永耳庵の合作による掛け軸「千年緑」
益田鈍翁と松永耳庵の合作による掛け軸です。「千年緑」の賛を鈍翁、下の松の画は耳庵が記しました。鈍翁の年齢から推測すると、昭和9年頃の作品であり、鈍翁と出会い、茶道を始めた時期になります。2人の交流は鈍翁が亡くなるまでのわずか4年でしたが、鈍翁との出会いがなければ松永が茶道にのめりこむことはなかったでしょう。

持ち手に犬が彫ってある杖
小田原市から松永の杖をお借りしました。1本は、持ち手に犬が彫ってあります。松永は動物好きで、壱岐の頃から乗馬を嗜み、犬は大型犬を3頭~4頭、猫も飼っていました。小田原にある松永記念館(小田原市郷土文化館分館)には「大休」と書かれた大きな杖があります。大休老師から譲り受けたのかもしれません。
自作の茶碗と萩茶碗「朝潮」
松永自作の茶碗と茶杓。茶杓の銘「有楽(うらく)」。松永が購入した大名物・大井戸茶碗「有楽」(重要美術品)と同じ名前をつけています。

松永が購入した萩茶碗です。高台に切れ込みがあるのが萩焼の特徴です。銘「朝潮」。箱書きには購入した経緯が書かれ、そこには海東要造の名があります。海東は、松永と同じ慶應義塾出身で、松永が設立した九州電燈鉄道が初めて大卒社員を採用した年に入社しました。電力再編成の際にも松永を支えた人物です。

再び表舞台へ。電力9ブロック案がGHQに採用される
松永は戦前に隠遁生活に入りましたが、戦後再び表舞台に立ちます。電力再編成委員会の委員長を務めた松永は、全国を9ブロックに分割して、発送配電一貫経営の民間会社を設立する案(九電力体制)を採用させます。九電力体制の発足後、真っ先にやったのが電気料金の値上げ。世間やマスコミからは「電力の鬼」と非難されました。しかし、信念を曲げなかった結果として、安定した電力需給体制の確立、後の高度成長へとつながりました。その功績が後に評価され、戦後初の勲一等瑞宝章を授与されました。
昭和21年に小田原に転居、老欅荘
松永は、昭和21年に小田原市板橋へ転居します。板橋地区は政財界の重鎮に別荘地として好まれた場所です。松永は、益田鈍翁の別荘であった掃雲台(そううんだい)を度々訪れており、かねてから小田原に良い場所がないか探していました。転居理由の一つには、一子夫人への気遣いがあります。一子夫人には柳瀬(武蔵野)の厳しい寒さは耐えがたいものでした。大きな欅の老木のそばに建てられた建物は「老欅荘(ろうきょそう)」と称され、国登録有形文化財になっています。松永は亡くなるまでの約25年間をここで過ごしました。


健康に気を遣い、1971年、97歳で死去、平林寺に眠る
(研修室に展示している)晩年90歳頃に描かれた絵です。

92歳の時の人生訓。「一に正直、二に小まめ、三四五六皆辛棒、七八九十健康と長生き」。この時代で90代は物凄い長生きです。これらの資料からは、松永が健康に気を使っていることがわかります。松永の主治医の話では、「松永さんは110歳くらいまで生きられると思っていた」と述べています。

昭和46年6月16日、慶應義塾大学病院で亡くなり、菩提寺である平林寺の一子夫人の隣に埋葬されました。遺言状には、「一切の葬儀、法要、墓碑は不要、勲章位階はヘドが出るほど嫌い 財産は息子一族に一切くれてはならぬ」と書かれていました。遺言状は池田勇人首相に託しましたが、池田が先に亡くなり、東京電力社長を務めた木川田一隆宛てでした。

松永が蒐集した茶道具や骨董品は東京国立博物館や福岡市美術館、小田原市に寄附されています。
