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政治活動50年を振り返る 中野清元衆院議員(くらづくり本舗会長)

菓子店「川越菓匠くらづくり本舗」を率い、かつては人通りもまばらだった川越の旧商店街を、「蔵づくりの街」として復活させ観光地化するのに貢献した中野清氏。市議、県議を経て、衆議院議員としても多くの実績を積み上げた。今年85歳を迎え、約50年に及ぶ活動を振り返り、『世のため人のため国のため』(第三企画出版)という本を著した。中野さんに、この本に込めた思いをお聞きした。

中野清(なかの・きよし) 昭和11年(1936)1月1日生まれ。県立川越高校、明治大学卒。1964年から(有)川越菓匠くらづくり本舗を経営(現会長)。1971年川越市会議員(2期)、1983年埼玉県議会議員(3期)、1996年衆議院議員(4期、~2009年)、その間厚生労働副大臣、財務政務官、法務政務官、内閣常任委員会委員長など歴任。自民党の役職としては、副幹事長(3回)など。現在、川越商店街連合会名誉顧問、埼玉県商店街連合会顧問。2010年旭日重光章受賞。

何事も真面目に一生懸命やってきた

―このたび、『世のため人のため国のため』という本を出されましたが、このタイトルは中野さんの政治信条をうたっているのですか。

中野 政治信条というほどのものではないんですけど、何事も積極的に一生懸命やるのが私の生き方です。そして政治家の使命は、国づくりと地方・地域への貢献のため尽くすことだと考え、そのため努力してきたつもりです。

―どのような思いで本を書かれたのですか。

中野 私は昭和11年(1936)の1月生まれで今85歳です。父親が35歳で戦争で亡くなり、私は同じ35歳の時に市会議員になり、それから50年になります。この間、何事も真面目に一生懸命やってきました。この機会に今まで生きてきた想いを皆さんに知っていただきたいと考えました。今まで自分が考えてきたこと、実行してきたことは多くありますが、個別に話すと、時間はかかるし、私が自慢話をするかのように受け止める方もいて、なかなか理解されません。本に書いておけば、いずれ読んでいただいてわかっていただけるのではないかと。

財務政務官の時2003年に『中小企業を救え―借り手重視の金融論』、2016年に『川越を愛し、国政に尽くした菓子屋と政治家の八十年』という本を著し、今回で3冊目になります。過去の2冊はほとんど反響がなかったのですが、今回は「そこまで考えていたのか」というお言葉もいただいています。

―政界を引退したのはいつですか。

中野 私は1996年、橋本龍太郎内閣時の総選挙に新進党で出馬し初陣を飾りました。改革クラブを経て翌2000年に自民党に復党。その後、財務大臣政務官、法務大臣政務官、厚生労働副大臣、衆議院内閣常任委員長などを務めました。

リーマンショックと同時に発足した麻生太郎内閣は、2009年7月になり追い詰められて解散、自民党が大負けし内閣が倒れました。私はその時、年齢制限にかかり比例復活ができず引退しました。当時は非常に苦しかったですが、民主党鳩山内閣の時代に旭日重光章という勲章をいただきました。

内閣委員長として国会公務員制度改革基本法案を成立させる 

―国政における実績をあげていただくと。

中野 福田内閣の下、内閣委員長の時には、国会公務員制度改革基本法案の成立に努めました。当時与野党がけんかばかりやって、議事進行が大変でした。私が委員長、自民の筆頭理事が村田吉隆氏、野党は大畠章宏氏で、3人で一生懸命やって成立させました。

厚生労働副大臣の時は外国人労働者の研修・技能実習制度の改革に一生懸命取り組みました。この改革が下敷きとなって、2010年に出入国管理法が改正され新しい技能実習制度が施行されました。外国人労働者受け入れはわが国の大きな問題ですが、縦割り行政の弊害が出ており、各省が連携し調整できる制度を確立しないと困るのは民間だけという事態になりかねません。

このほか、私は一貫して中小企業金融の問題に力を入れてきました。財務政務官の時私の出した最初の本が『中小企業を救え―借り手重視の金融論』)でした。現場の借り手の立場で書かれ、中小企業金融に関する教科書みたいに扱われました。その後も財務省や金融庁ともやりとりを重ねました。特に、私はかねてより個人保証の問題を取り上げ、各方面に打開策を働きかけ、第三者保証について制度そのものを撤廃すべきとの主張には共感を得て、法改正や行政指導が行われました。

故中曽根康弘元首相を師と仰ぐ

―政界では故中曽根康弘元首相を尊敬し、師と仰いでおられた。

中野 私は市議会議員の時から明治大学の先輩で、地元選出の松山千恵子さんの政治活動に参加していました。松山さんは中曽根先生の派閥に属していたことから、先生の知遇を得ることになり、ずいぶんお世話になりました。国政に出る時は新進党でしたが、自民に戻ることになり、中曽根先生に(中曽根派の流れを汲む)志師会に入れていただきたいとお願いしました。それ以来、先生は「君と私のDNAは一緒だ」とおっしゃられ、子どものようにかわいがってくださいました。

―現在の菅義偉総理についてはどのようにみていますか。

中野 菅さんは、市議・県議あがりで、考え方も私とすっかり同じです。あまりでかいこと言わないで、しかしながら一つ一つ確実に問題を処理していく たとえば、今彼が言っているデジタル化にしても、県は県でバラバラ、市は市でバラバラ。統一がとれていないから力を持っているのは業者で、うまくやられている。こうした問題を処理していくのに、彼はうってつけです。

東上線、上福岡駅の開かずの踏切対策

―今回の著書では、今までの50年の政治人生で地域に関わるやり残した課題をあげられていますが、いくつかご紹介いただけますか。

中野 一つは東上線の開かずの踏切対策、立体交差事業です。特に、ふじみ野市の上福岡駅南側の踏切に関しては、武藤博上福岡市長時代に、保守系市議とともに地下道建設を推進し、国土交通省の認可が下り事業化が決定しました。しかし、後任(合併してふじみ野市)の島田市長は事業化を放置。次の高畑博現市長もまずは他の切迫した事業を優先したいとの立場ですが、私は「立体交差事業は絶対に必要であるとの志はなくさないように」とお願いしています。ただ、工事費は国、地元、鉄道会社が分担しますが、地元負担が大き過ぎることが問題だと思っています。

―川越の行政能力向上を主張されている。

中野 川越市は2003年に「中核市」に指定されました。私が国会議員になった1996年当時、川越は面積、人口の要件は満たしていましたが、昼夜間人口比率要件は足りませんでした。私は当時の自治省はじめ各方面に働きかけ、98年に昼夜間人口比率要件の廃止が決定され、川越の中核市昇格が実現しました。今後、川越が埼玉の雄としての都市になり、市民が豊かに幸せになるには、より高度の行政能力が欠かせません。今年2月、民間調査会社の調査で「SDGs」(持続可能な開発目標)の評価が、川越が全国一位になったと報じられました。せっかく評価されているのだから、もっとしっかりしなければいけません。将来の川越のため行政能力の向上に向かって前進してほしいと願っており、政令指定都市化もその一つの道だと考えています。

「新さいたま空港」

―「新さいたま空港」を提唱されていますが。

中野 埼玉は大県ですが空港がありません。私が県議として県政に参加した当時、畑和知事は「埼玉に空港を」と力説していました。埼玉空港は、首都圏第3空港として位置づけられ、県民の利便性も向上します。一つは米軍横田基地の飛行場を軍民共用化する方法があります。同時に、桶川の荒川河川敷にある「ホンダエアポート」を拡充して「さいたま空港」とする案を検討してもよいと考えています。

―鉄道では西武鉄道の延伸を提唱されているのですか。

中野 埼玉には、県の真ん中を北関東に向かう鉄道がありません。西武新宿線を熊谷や宇都宮の方まで延長できれば、北関東の人の流れが飛躍的に増加すると思います。そのためには、川越市街地は地下を走らせなければならず、本川越駅の地下化が必要になります。西武鉄道には本気で検討してもらいたい。

商工会議所・商工会に「駆け込み寺」「公取コーナー」を

―全国で商店街が疲弊しています。振興策は。

中野 商店街が衰退していく姿を見るのはやり切れません。その復興は私の天命だと考えています。今政府も議論はしていますが、本当に商店街のことを考えている人はいません。私は、国会議員として「あきんど議員連盟」を創設し活動しました。今「新あきんど議連」を復活させるべきだと考えます。商店街がやる気を起こす施策を作っていく。今具体策として提案しているのが、商工会議所・商工会に「駆け込み寺」「公取コーナー」を創設することです。大型店・コンビニや金融機関からの不当な扱いに悩んでいる商業者は多くあります。独占禁止法を管轄する公正取引委員会はもっと中小企業を育てる方向で活躍してもらいたい。

―川越の商店街は復活の成功事例ではないですか。

中野 今はそうなっているけれど、あくまで一時的なものだと思っています。将来に向け持続的に繁栄できる方策を考えていかなければなりません。

―問題は何が残っているのですか。

中野 たとえば市内の交通に問題があります。北の環状線は開通しましたが、南はない。川越南環状線の整備は焦眉の急です。住んだ人たちが不便にならないように努めるのが政治の責任です。

―政治家はいろいろな課題が山積で大変ですね。

中野 水洗便所と同じです。作るまでは大変だが、できちゃえば当たり前。それが政治です。水洗便所がなくては困るからいろいろなことをやってきました。

本は一日一冊は読み上げるくらい読んでいる

―政治を引退されて、今はどう過ごされているのですか。

中野 店は2年前から社長を息子(英幸氏)に譲り、ほとんど任せています。

―今回の本はご自身で書かれたのですか。

中野 今回はコロナもあり、誰も手伝ってもらえませんから、約6カ月かけて自分で書きました。現役を去って時がたち、それだけに毎日の新聞とか、資料、それと本は好きで、場合によっては一日一冊は読み上げるくらい読んでいますから、情報は本を通してはありますが、新しいニュースはない。それでもコロナの中でどう中小企業はやっていくかを考え、いろいろ収穫もありました。

―体調はいかがですか。

中野 腰が痛い。脊柱管狭窄症です。あちこちを回り、最近新しい病院に行くようになり、多少よくなりました。

―最近の世の中について思うことは。

中野 利己主義的傾向が強いのではないでしょうか。どうやって調和していくかだと思います。

―コロナについては。

中野 よくわかりませんが、私の知っている先生に言わせると、世の中がのぼせかえって倫理が脆弱化したところに大きな力が働いたのではないかと。今GOTOも必要だが、それだけでなくもっと何か根本的に問題があるような気がします。

―最近面白かった本は。

中野 今、帯津良一帯津三敬病院名誉院長の『いい場を創ろう』という本を読んでいます。 彼は実家が近く私と同じ年です。彼は優秀で、医者として良心的だと思います。

(取材2020年12月)

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以下は「東上沿線物語」第7号(2007年11月)に掲載した中野清氏のインタビュー記事(「弱い者に手を差し伸べる社会を 中小企業政策の強化訴える 衆議院議員・内閣委員長 (くらづくり本舗社主)中野清氏」から一部抜粋しました)

〈川越のまちづくり〉

「蔵づくりの町」の命名

―以前は商店街の活動をされてきたとお聞きしておりますけど。

中野 私は、戦争で父親を亡くしまして、昭和33年に学校を出て家業のお菓子屋へ入ったわけです。商店街の会長を10年くらいやって、今度は川越市の商店会連合会の副会長、会長をやったんですよ。もちろん商工会議所の方も関係しました。そういうことで、川越の商店街活動は長くやってきたんですけど。

川越の蔵づくりの町、一番街っていう商店街なんですね。そこに、古いぼろぼろの蔵を復元して店を出しましてね。当時、今から25年くらい前かな、本当にもう昼間は閑散としちゃってね店はしまっちゃってるという商店街だったんですよ。

仲間がいっぱいいましてね。可児さんなんていうのは、私の後輩でね、私が商店会の副会長を辞めた後の会長。仲が良かったんですよ。私たちがやってから、蔵を市の文化財にしたんですけどね。私たちみんなでやったのは、川越っていう街が埼玉県で一番歴史のある街であるし、重要文化財も、関東で日光と鎌倉に次いで3番目に多い街なんですよ。その文化とか伝統を活かそうと。お祭りなんかも一生懸命やって。

その時に、「一周遅れで一番になろう」という表現をしたんですよね。つまり、新しいことやったって、かないっこないですからね、古いものを生かしたまちづくりをしようじゃないかと。その中で、「くらづくり」というお菓子を作ったんですね。それまでは、蔵を、「土蔵(どぞう)」と言ってた。私が「蔵づくりの町」って命名しまして、蔵づくりの町のお菓子っていう発想をした。古い蔵を利用していたのは、当時は亀屋さん、古いお菓子屋さんあるでしょ、だけだったんですよ。結局、蔵で商売になるというのを私が証明したようなものですね。

―蔵づくりの町というに名前をつけられたときに、お店の名前を「くらづくり本舗」にしたんですか。

中野 昔は中島屋って言ってたんですけど、10年ほどして「くらづくり最中」売っているのだから、「くらづくり本舗」にしようと。

―商店街の復興という点からみて、本当に人気のなかった一番街を、そういう形にもっていこうという、発想が非常によかったと思います。

中野 みんなが、「やれやれ」というんでやったわけですけど。36年くらい前から政治に入っちゃったもんだから、あんまり商店街の役にはたっていません。

―政治というのは市議のことですか。

中野 そうそう。昭和46年から市議。市議から県議やって国会へ。

―市議、県議時代のお仕事でなにか思い出に残っていることありますか。

中野 まちづくりが、もう、仕事の中心になってましたのでね。良かったのは、当時は商売と政治の両立ができた。非常に忙しかったんですけど充実はしてましたね。国会議員になって、商売が全然できなくなっちゃった。本当にもうアドバイス程度に。それが今一番のさびしいこと。

「江戸の母川越」がいい

―中野議員にとっての川越とは。

中野 川越っていう街はね、ここのところだいぶ注目されてきたんですけど、昔は言い訳ばっかりの街でね。そのくせ気位が高くてね、新しい投資とかなかったんですよ。だけど今皆さんが、いろんな意味で活力を持って勉強しますね、で、ありがたいことに東京に近いでしょ。だから学者とか文化人とかいろんな方がね、川越に来て、いろんなアドバイスをしていただいて、それがやっぱり大きな糧になっているんじゃないですかね。

今、「小江戸川越」って言ってるんだけど、私は「江戸の母川越」がいいと思う。いろんな風物が残っているという意味では小江戸でもいいけど、昔は江戸の職人の相当な部分が川越から行っているということがありました。それからたとえば、赤坂の日枝神社は川越の日枝神社が分祀されている。そういうのがいっぱいある街だからね、そういう点で私は川越にいるっていうことを誇りに思っている。

江戸文化があって明治、大正、昭和、平成もありますなあ。そういう意味でバランスの取れた街じゃないでしょうか。住みよい街というかな。

菓子屋横丁があすすめスポット

―おすすめスポットを。

中野 私が好きなのは、一つは、菓子屋横丁というのがありましてね。昔駄菓子の製造業の集まる場所だったんですよ。それが今、観光スポットになっている。ここは非常に楽しいと思いますね。それから私の地元で、喜多院さんとお不動様。文化財がいっぱいあるところでね、本当に川越に来たという気がしますね。お不動様で開かれる、「川越不動蚤の市」は、私がね、今から30年くらい前に作ったんですよ。

―観光の面から見た川越の課題は。

中野 今年、国土交通省の観光ルネサンス事業の対象に、川越が採用されたんですよ。そういうなかで、川越はですね、歴史的な街として、古い城下町の風情というか、そういうものを大事にするというのが一つだと思いますね。それから、今年は、川越城築城550周年にあたります。(城は)もう明治のときに、徳川の親派だというんでほとんど壊されちゃったんだけど、私の夢としてはですね、昔から川越城にはいわゆるお城はなかったけれど富士見櫓というのがあった。これの再建ですね。二階建ての図面が発見されましてね。川越のシンボルというのが、今、時の鐘だけですから。

市長が、よく観光客1000万人を言っているんですけど、私はね、これは根本的な改革をしないと無理じゃないかと思っている。一つは、街に来た方に対して川越市民とか商人がいかに暖かく迎えて、自分のふるさとに来たような場所にできるかどうか。それからもう一つは、富士見櫓の復元をいいましたけど、さらに楽しく遊んでいただける、リピーターが来ていただける、観光施設とか、休む施設だとか、が必要じゃないだろうか。また、そのためには、大きな宿泊施設をつくるのも結構だけど、たとえば民宿など、安い経費で泊まれ地元の人もそれで生活できるというような、転換が必要ではないかと。

一番街については、今、バス、車が通っちゃってるんで、非常に危険なんですね。やっぱりあそこは、せめて昼間は歩行者広場(歩行者天国)にしないと、一流の観光地にはならないと私は言ってるんですけどね。

東上線の課題

―川越を含めて東上沿線について。

中野 まず第一に、東武鉄道は本社を池袋に持ってくるべきだと思う。東武鉄道の、東上線の収益は東上線沿線にね、再投資すべきだと思う。昔、「ダサい」って言葉ありましたけど、東上線というのは、昔からあまりカッコイイ電車じゃなかった。これをね、電車だとか、サービスだとか駅だとかを改善、沿線開発を進め、たとえば、田園都市線とか、何かに名前も変えるべきだろうと思う。

―東松山の市長とか経営者のグループとかが、日光に走っているスペーシアみたいな特急を走らせろって、ずっと言ってるんですね。急行電車で並んでも座れなくて、東松山に帰るのがすごく大変と要求してるんですが。

中野 西武はやってるんだから東武もやるべきだと。みんな、300円か400円払えばゆっくりと行けると。

そのときにね、グレードを上げないとだめですよ。東武は昔からの古い経営なんだよ。それとやはり、駅などに投資をもっとすべきだよ。それによって川越も、みんなが、特に若い人たちが集まり、青山などのようなゾーンになれば。若い芸術家とか若いエネルギーというものをうまく吸収できるようなまちづくりをしないと、商店街も活性化していかない。そういう点では、川越も音楽祭とか映画祭とかを通じて、文化とか伝統とか歴史とかっていうものを、もっともっと出していいんじゃないでしょうか。

川越というのは、「東京に一番近い城下町」というキャッチフレーズを作ったことがあるんですね。そういう地の利を活かしてやる必要があるんじゃないですかね。そうすれば観光客1000万人も手が届く。今、観光客550万。ずいぶん上がってきたんですよ。いちおう500万人以上になって、まちづくりとしては成功したといわれてるんだけど、まだでしょうなあ。

〈和菓子店のことなど〉

―高校は。

中野 川越一中から、川越高校です。

―もともと歴史がお好きだったとか。

中野 。文学とか歴史が好きでね。郷土部に入っていた。その顧問が小泉(功)さん(現川越市文化財保護審議会会長)。高校時代から弥生式土器の発掘とか、川越のいろんな歴史の調査とか、ずいぶんやった。新河岸川の舟運の話とか、お祭りの話とかね。それが、私にとって一つの基礎的な教養です。

―和菓子店はいつごろから。

中野 明治20年創業。私のひいじいさんからなんですよ。

―代議士が大学卒業された頃は。

中野 1店舗です。親父がね、比較的やり手の人だったんでね、戦前、川越では亀屋さんが一番でね、うちが2番目くらいだったのかな。ところが親父が戦争で亡くなった。母親が一人で(店を)守ってきたんですよね。だからえらい苦労したんですよ。

―今の店は。

中野 いろいろ、店を造ったりやめたり、現在41店か。来月もう1店つくるんです。

「あそこのお菓子は美味しい」と言われたい

―ここまで大きくできたのは。

中野 大きくもねえけど。皆から、「あそこのお菓子は美味しい」とか「あそこで働いてみたい」とか「あの店は素晴らしい」とか、あこがれられるようになりたいというのが夢だったからね。そういう意味で、一生懸命、商売熱心にやったことは間違いないんですけどね。ところがどうも、商売やってても日本一になれそうもないっていうんで、「市会議員をやれ」というんで政治に入っちゃったわけですよ。

―ご自身もお菓子が好きなんですか。

中野 お菓子大好きだよ。市会議員の時もね、県会議員のときも、国会議員のときも、どこ行ってもいまだにお菓子買ってくる。お菓子大好きでね。

―面白いお菓子がいっぱいあるんですけど、自分で考えるんですか。

中野 そうそう。

―名前、ネーミングまで。

中野 うん。ほとんどね。私ね、本が好きなんだよ。経営とか政治の本といっしょに歴史とか文学の本。うちの親父が、徳富蘆花とか、文学が好きでね。当時、終戦直後でね、本がない時代だけどずいぶん読んだ。だから歴史だとかについてはね、普通のお菓子屋さんよりは、知っていると思っている。今せがれが、あんまり本読んでないから。どうしてもつまんない名前にしちゃう。

―結構、商売を楽しんでいる。

中野 おかげさまで良いお菓子、美味しいお菓子を作りたいという夢がかなったわけで。良い商売だよね。材料なんかも自分たちで選べるし、値段も自分で決められるし、安売りはしないし。ただそのかわり、お客さんのニーズに合わないといくらやっても売れないわね。そういう厳しさはありますよね。ニーズにいかにこたえるとか、時代の変化を読むとか。

―「地産地消」にも取り組まれているんですか。

中野 うん。地元の、川越のいもなんかも使って。全部じゃないけどね。

〈個人的なこと〉

―最近の世の中についてお考えになってること。

中野 やっぱり、人の欠点を少し突っつき過ぎているように感じる。みんな、ヤキモチだとか、そういう風潮が強い。私はむしろ欠点じゃなくて、良い所を伸ばすような、そういう社会になってもらいたいと思うんですね。

いつも言ってるのは、本当の自分、そういう生き方をしたい。そのためには、愛とか、相手を認めるとか、相手を大事にするとか、がないと無理じゃないかと。そういう社会をつくりたい。特に政治の場合について言いますと、強い人がますます強くなるっていう社会じゃなしに、強い人は伸びてもらって結構だけど、弱い人に対していつも関心を持って温かい手を差し伸べる社会。そういう社会を作らなきゃいけないんじゃないかと。権利を与えるとか言うんじゃなくて、思いやりがないと。助けられるのは権利とかじゃなくて、お互いの思いやりの中でやっていかないと困るんじゃないかと思っていますね。

―座右の銘は。

中野 よく「大道を行く」って言うんですけどね、それは言い換えると、「行くに小道に寄らず」という、私の好きな言葉なんだけど。

―好きな女優は。

中野 あんまりね。

―趣味、休日の過ごし方は。

中野 本読むのと音楽を聴く。今は五木寛之とか「太公望」を書いた人(宮城谷昌光)。そういうのを読むのが楽しみ。あとは旅行ですよ。なかなか行けないけどね。お寺さんとか歴史のとか、そういうもの観るのが大好きでね。倉敷とか津和野とか。

―音楽はどういうジャンルの。

中野 音楽はクラシックで、ポピュラーなやつだね。あんまり難しいのはだめだね。

(取材2007年11月、状況が変化している場合があります)

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