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源頼朝に仕え、中世毛呂山の基礎を築いた 武蔵武士 毛呂季光

鎌倉時代、源頼朝に仕えた武蔵武士の一人に、毛呂郷(現在の毛呂山町)を本拠とする毛呂季光(すえみつ)がいた。派手な活躍はなく、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場しないが、頼朝に重用され、中世毛呂地域の礎を築いた。子孫も戦国時代の毛呂顕繁が出雲伊波比神社を再建するなど地域に貢献した。毛呂季光とその子孫について、毛呂山町歴史民俗資料館の佐藤春生副館長にお話をうかがった。

平成26年の毛呂季光に関する展覧会のポスター(毛呂山町歴史民俗資料館)

頼朝に近いところにいつもいる

―毛呂季光はどのような武将だったのですか。

佐藤 季光は平安末期に生まれ、建永元年(1206)に亡くなったとされています。鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近として重用された人物でした。鎌倉時代の「吾妻鏡」の中に、季光に関わるいろいろな事件が書かれています。たとえば頼朝が石清水八幡宮に参詣する際に同行している、頼朝が隊列を組んでいく時も騎馬の先頭を務めるなど頼朝に近いところにいつもいる様子が見て取れます。

毛呂季光関係年表(「広報もろやま」平成26年10月号)

―どのような実績を上げていますか。

佐藤 頼朝が建立した永福寺(ようふくじ)の造営を担い、また頼朝の知行国の一つであった豊後の国守(司)を任命されています。大抜擢と言えます。ただ「平家物語」に登場することもなく、比較的目立たない武将です。今回のNHK大河ドラマにも出てきません。

―同じ時代で嵐山を本拠として幕府に仕えた畠山重忠と似たような立場ですね。

佐藤 永福寺再建に関し、季光は薬師堂を担当し、重忠は別の建物を受け持ったという記録があります。同じ時代、同じような役割と言えるかもしれません。

―どのようにして亡くなったのですか。

佐藤 1206年で、比企の乱の3年後です。「吾妻鏡」では1196年石清水八幡宮に参宮したのが最後で後は記録がありません。頼朝の側近でしたので。

藤原北家を代表する小野宮家の出

―毛呂郷が本拠地だったそうですが、どこから来た一族なのですか。

佐藤 季光の出自は、元々藤原北家を代表する小野宮家の家柄です。曾祖父の代に左遷されて常陸の国に来て、それから毛呂へ移り毛呂氏を名乗ったようです。毛呂氏がいつ毛呂郷に来たのかは諸説あります。貴族の出ですから、頼朝としては武家政権の格を上げるために毛呂氏のような人物を近くに置いておいたのではないかと考えられます。

―武蔵武士としてはどの区分になりますか。

佐藤 武蔵七党には属さず、秩父氏の系列でもなく、独立した存在です。

「榎堂」と呼ぶ大きな榎の木

―館はどこにあったのですか。

佐藤 はっきりはわかっていません。ただ、毛呂本郷の越生に向かう街道沿いに「榎堂」と呼ぶ大きな榎の木があります。毎年出雲伊波比神社で行われる流鏑馬の時に、馬3頭と隊列がこの木をぐるっと回ってから神社に向かいます。そこが季光の墓所と言われている。あくまでも伝承ですが。

榎堂

榎堂説明板

―鎌倉に史跡が残っていないのですか。

佐藤 鎌倉にも屋敷跡はありません。

―出雲伊波比神社との関係は。

佐藤 流鏑馬は康平6年(1063)に源頼義・義家親子が奥州平定の凱旋の折奉納したのが起源と伝えられていますが、後に季光を祀る意味も加わったのかもしれません。明治時代の境内を描いた絵図があるのですが、「季光社」という社が描かれています。神社の本殿は、戦国時代の大永8年(1528)に季光の子孫である毛呂顕繁(あきしげ)という人が再建しています。毛呂氏の氏神でした。

出雲伊波比神社

出雲伊波比神社の流鏑馬(毛呂山町ホームページ)

毛呂顕繁、館跡が長栄寺

―季光の子孫はどうなったのですか。

佐藤 季光の息子に季綱という人がいて2代にわたり頼朝に仕えたのですが、その後はぱたりとわからなくなります。戦国時代になり再び、毛呂顕繁が土地を治めた領主として出雲伊波比神社の再建にあたったり、その息子顕季が越生の安楽寺(今の梅園神社)の修復を行ったなどの記録があります。その息子が顕季です。

―顕繁の館跡は残っているのですか。

佐藤 長栄寺が顕繁の館跡です。また妙玄寺は息子の顕季の奥さんが開いた寺です。近くには毛呂城跡と呼んでいる城館が発掘でも見つかっていますが、そこが季光の館かどうかはわかりません。

長栄寺

妙玄寺

―顕繁親子の後はつながっていますか。

佐藤 豊臣秀吉の小田原攻めの際毛呂氏は北条側で戦い負けて、生き残った人が毛呂の大谷木というところで農民になったそうです。江戸時代に旗本になっている大谷木氏もいる。一族は群馬、山形・鶴岡などにも移っていますが、系図は季光までたどっています。ただ、今、地元では毛呂を名乗っている人はいません。

中世毛呂山を象徴する人物

―毛呂山の中世は毛呂氏から始まったと言ってよいのでしょうか。

佐藤 季光が地域を治め、幕府でも重要な働きをしたということです。毛呂山は、歴史の中で中世、鎌倉時代から戦国時代にかけてたいへん、輝いていた。交通の要衝であり、在地領主として毛呂一族の貢献もあった。そのとっかかりが季光であり、中世毛呂山を象徴する人物と言えます。

鎌倉街道、国の史跡に

―この資料館の近くに鎌倉街道が通っています。鎌倉街道と季光は関係していますか。

佐藤 鎌倉街道は毛呂郷の本拠地からは少し離れていますが、鎌倉との往来に利用していたと考えられます。

―鎌倉街道は国の史跡になるのですか。

佐藤 国の文化審議会は今年6月、鎌倉街道上道(かみつみち)を国の史跡とする答申を出しました。武蔵国・上野国を経て信濃国・越後国に向かう上道と呼ばれるルートのうち、毛呂山町内の一部区間(総延長約1.3キロ)と周辺の遺跡など、中世の街道の状況を明らかにする重要な遺跡と評価されました。

佐藤副館長

(取材2022年9月)

鎌倉街道を歩く

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