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川越ゆかりの作家たち

歴史の町、川越には美術分野でもゆかりの作家が多くいる。川越市立美術館で「川越ゆかりの作家たち」と題する常設展が実施されている(2023年6月18日まで)。今回取り上げられた6人と、記念室が設けられている相原求一朗について、紹介する。

 (以下は、学芸員の濱田千里さんのご説明、図録「川越市立美術館コレクション選」(2012)などにより作成しました。取材2023年4月)

岩﨑勝平

岩﨑勝平(いわさき・かつひら、1905-64)は川越の商家出身の洋画家です。岡田三郎助の弟子で、官展系の画家として活躍しました。風景画もありますがメインは人物画です。ルオーが好きで晩年はルオーに似た絵の具を厚く塗った作品を描きました。先輩画家の娘であった妻の死が元で後半生は画壇から離れ、極貧の中で川端康成らと交友を重ねながら制作を続けました。当館では多くの作品を所蔵しています。

絵画 岩﨑勝平「女二人」
岩﨑勝平 「女二人」
絵画 岩﨑勝平「静物」
岩﨑勝平 「静物」

森脇雲溪

森脇雲溪(もりわき・うんけい、1858-1946)は、福島県生まれですが藩主の転封に伴い、川越に移り住みました。花鳥画を専門とし、画壇で保守系の旧派に属します。

森脇雲渓作品
森脇雲渓作品展示

小村雪岱

小村雪岱(こむら・せったい、1887-1940)は、川越出身の日本画家ですが挿絵画家、本の装丁デザイン、舞台美術家など多面的に活躍しました。1914年泉鏡花の『日本橋』の装丁が評判になりました。線が細く、華奢で繊細な人物画が特徴です。人気があったので没後版画化された作品もあります。

小村雪岱「春泥」
小村雪岱 雑誌「春泥」表紙
小村雪岱「夜雨」作品
小村雪岱 「夜雨」

(川越市内で麺類の製造販売をしていた「舟運亭(戸田製麺)」は小村雪岱の挿絵下絵のコレクションを所蔵し、併設の「むかし館」で展示していた。本紙記事参照)

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井上安治

井上安治(いのうえ・やすじ、1864-1889)は版画家。東京・浅草生まれですが、父親が川越の太物問屋高麗屋の出です。「光線画」で人気の浮世絵師小林清親に師事し、1881年頃から東京名所絵を絵はがきサイズの作品にしますが、26歳の若さで夭折しました。 

井上安治「両国大火浜町川岸ニテ写ス」
井上安治「両国大火浜町川岸ニテ写ス」
井上安治「上野公園」
井上安治 「上野公園地」

小泉智英

小泉智英(こいずみ・ともひで、1944-)は、福島県出身、川越在住の日本画家です。 多摩美術大学で加山又造・横山操に師事しました。高校教師を経て現在は無所属で活動しています。一筆一筆丁寧に描く写実的な風景画で、屏風絵の「竹林の四季」が代表作。新河岸川など川越の風景をモチーフにした作品もあります。

関根伸夫

関根伸夫(せきね・のぶお、1942-2019)は、国内外で活躍した美術家、環境美術家で、川越高校の出身です。1968年、神戸の須磨離宮公園現代彫刻展に代表作「位相-大地」を出品、「もの派」(60年代後半から70年代前半に自然素材をほぼ未加工で提示しものとの関係を探ろうとした作家のグループ)を代表する作家となります。屋外で環境と調和を図った美術「環境美術」を唱え、環境美術研究所を設立、同分野のパイオニア的存在です。

相原求一朗記念室

相原求一朗(あいはら・きゅういちろう、1918-99)は、終生川越を拠点に活躍し名誉市民となった洋画家です。川越の商家に生まれ、少年時代から絵を描くことを好んでいましたが、徴兵により21歳からの5年間を満州などで過ごし、九死に一生を得て奇跡的に生還しました。戦後、日本のモダニズム洋画を代表する猪熊弦一郎に師事して本格的に絵を学びはじめ、1961年の北海道旅行で雄大な大地と風土に出会ったことをきっかけに主に北の大地に取材した作品を発表するようになります。また、並行してヨーロッパをはじめとした海外に取材した作品にも積極的に取り組みました。晩年まで続いた北海道風景の連作は、風景画という枠を超えた一種の心象風景となりました。

相原求一朗の人物像
相原求一朗(相原求一朗記念室展示)

橋本雅邦、小茂田青樹

他に日本画では、一時川越藩士でもあった橋本雅邦(はしもと・がほう、1835-1908)、川越に生まれ院展の中心で活躍した小茂田青樹(おもだ・せいじゅ、1891-1933)が著名ですが、今回の展示では取り上げていません。

橋本雅邦「渓山雲霧」
橋本雅邦 「渓山雲霧」 (川越市立美術館ホームページ)

川越市の老舗和菓子店、亀屋の本店に併設する形で橋本雅邦の作品を展示している山崎美術館がある。同美術館については、「東上沿線物語」第13号(2008年5月)で取り上げた。その中で山﨑登貴子館長は雅邦について以下のように紹介している。

「橋本雅邦は、明治の日本画では最も重鎮とされた方です。今の芸大が東京美術学校として創設されたときに初代の日本画教授として招かれ、横山大観、菱田春草などの先生にあたります。今はお弟子さんたちの方が知名度が上がりましたが。 

雅邦先生と同じ時代を生きたのは(亀屋)4代目の山﨑嘉七(後に豊)です。雅邦先生の功績を讃えて、当初は川越の有志が集まって愛好会『画宝会』を発足させました。この会を通して4代目が一点二点と集めたものが展示の主になっています。主に掛け軸と屏風です」

川越市立美術館ホームページ

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