太田道灌は、戦国時代に大活躍した武蔵の国を代表する武将で、河越城、江戸城、岩槻城を築城したことで名を残しています。道灌は、武将として足跡を残しながら主君により謀殺されたという悲劇的な武将でもあり、東上沿線だけでなく都内数か所に道灌の銅像が建てられて、21世紀の今日でも根強い人気を維持しています。今回は、歌人としての道灌を偲んでみたいと思います。

落語の「道灌」
落語好きな方にとっても「道灌」は古典落語に登場する有名人です。本誌を愛読されている方はしっかりそのは話を御存じでしょうが、念のためその粗筋をご案内しておきます。
若きの道灌が狩りの最中で雨に降られしまいました。お付きの者も雨具を用意しておらず、近くのあばら屋で雨具の蓑を借りようと声を掛けると、家から出てきた娘が山吹の枝を差し出しました。道灌は娘が差し出した山吹の枝がどういう意味が分かりません。城に帰ってその話を家臣にすると、家臣から「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という古い和歌に掛けた返答では、と言われます。娘は山吹の「実」と雨具の「蓑」を掛けて「自分は貧しくて蓑もありません」と婉曲に断ったというわけです。道灌は自分の無教養を恥じてこれを機に歌道を学びました。山吹の枝を差し出したあばら屋に住む貧しい娘が古い和歌を心得ている一方、武士の道灌は教養が無くその意味が分からなかったという皮肉が込められています。

落語の「道灌」を真に受けて太田道灌を田舎武士の代表だと心違いしていた私が本稿を書こうと思い立ったのは、地元の図書館で手にした「日本詩歌集・古典編」に太田道灌の作とされる和歌が掲載されていたのが切っ掛けでした。同著に掲載されていたのは、道灌の私家集とされる「慕景集」から3首、江戸時代中期に書かれた軍記物「関八州古戦録」から1首です。各歌は次のようなものです。
「慕景集」より
啼きやれて 声よりこゑも よすらをの 心にかへる 夜半のつりがね
いそがずば ぬれさらましを 旅人の 跡よりはるな 野路の村雨
よの中に とりもきこえね 里もがな ふたりぬる夜の隠家にせむ
「関八州古戦録」より
わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒先にぞ見る
どうでしょう。私のような和歌に縁が無い俗人から見ても、各歌はいずれも無教養な俗人が作った作品ではなく、歌道の素養を身に付けた人物が詠ったものとしか思えません。落語の「道灌」が描いた無教養な田舎武士が慌てて学んだ技では及びつかないレベルです。
ただ問題は、研究者の間に詩集自体が偽作とする説や、道灌ではなく父親の道真の私家集ではないかとの見方があるようです。その理由は、掲載歌の前書きに「嘉吉元年(1441年)」に道灌が上洛して天皇に拝謁した旨が書かれているのですが、その年は道灌がまだ10歳で元服以前の時期で、天皇に拝謁することは先ずあり得ないからです。また「関八州古戦録」は読者を喜ばす軍記物語で、そこに掲載された和歌を直ちに道灌作とするのは如何なものかということです。このようなケチが付けられると、天邪鬼な私はかえって太田道灌に対する関心を強めてしまいます。
太田道灌の人物像
太田道灌は、永享4年(1432年)、鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉氏一族扇谷上杉氏の家宰(筆頭家老)を務めていた太田道真(おおたどうしん)の嫡男として生まれました。道灌は幼名を鶴千代、安生4(1447)年に元服して資長(すけなが)を名乗りました。道灌は文明9(1477)年に仏門に入った以降の法名です。道灌の誕生地は、父親の太田道真が仕えていた扇谷上杉氏の拠点であった鎌倉とする見方が強いようですが、越生町の大字龍ヶ谷字山枝庵(さんしあん)とする見方もあって東上沿線に住む人々を喜ばせています。
道灌は、幼年期に鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)で学んだ(修業した)後、足利学校で学問を修め、元服すると父親の跡を継いで扇谷上杉家の家宰に就任しました。成人して武将となった道灌は、持ち前の能力を発揮して三十数度戦って負け知らずという戦歴を誇る東国を代表する名将になりました。道灌が活躍した戦国時代、道灌に限らず少なからずの武士が和歌を詠むことが当たり前だったようです。それは和歌を詠むこと自体が権力者の権威を高める素養と考えられていたからで、父道真も優れた武将であり、かつ歌道に優れた人物として信頼を集めて多くの連歌会を催したようです。
連歌会の役割
連歌は和歌の「上の句」(五・七・五)と「下の句」(七・七)を2人で分けて詠み、上の句と下の句を併せて一首とする遊びの要素を含んだ和歌の歌い方です。解説書を読むと、連歌が誕生した当初は二人の読み手で完結する「短連歌」が普通だったようですが、平安中期頃から上の句と下の句を複数の詠み手が3首以上交互に連ねて詠む「長連歌」が誕生しました。時代が下るに従って長連歌の句数が増え、鎌倉時代後期には10人以上の詠み手が参加して100句を続けて一つの作品とする「百韻」(ひゃくいん)という様式に進化したとのことです。
さらに室町時代になると、「百韻」を十回重ねる「千句興行」が開催されるようになりました。これは私の想像ですが、千句興行の多くが地方の豪族が主催し、連歌師をコーディネーターとして運営されたことから、連歌が貴族趣味の歌道に政治的な意味を持つようになったのではないでしょうか。私には千句興行が京の貴族や各地の豪族を訪ね歩く連歌師から各地の政治情報を仕入れる場となり、かつ興行に集まる同志の団結力を確認する場となったことが想像されます。
道真が東上沿線に残した足跡
東上沿線も連歌には関りがあります。文明2年(1470年)正月に道灌の父道真が連歌師の宗祇(そうぎ)とその師である心敬(しんけい)を迎えた千句興行が河越城で開かれたからです。その記録が「河越千句」として残され、各種書籍に転載されています。
河越城で行われた千句興行には総勢13名の詠み手が参加し、主催者の心敬が詠い出しを詠み、続いて道真が脇句、宗祇がそれに続いて会がスタートしました。
梅園にくさ木をなせる匂ひかな(心敬)
庭白砂の雪のはる風(道真)
うくいすの声は外山の陰冴えて(宗祇)
それぞれの歌はあまり面白みが無いのですが、心敬の句を上の句に、道真の句を下の句にして重ねると
梅園にくさ木をなせる匂ひかな 庭白砂の雪のはる風(心敬+道真)
となって句の趣が変化します。さらに道真の句を上句、宗祇の句を下句にすると
庭白砂の雪のはる風 うくいすの声は外山の陰冴えて(道真+宗祇)
と全く別の句になってしまいます。これが連歌の面白さで、連歌の出来不出来は参加者の能力だけでなく、連歌をコーディネートする連歌師の手腕に負うところが大きかったようです。そうした連歌師の中で最も人気を集めたのが宗祇でした。
宗祇は、和歌から派生した連歌を大成し、幅広く世に広めた歌人として今に伝えられています。宗祇は将軍足利義尚から「連歌会所奉行」と呼ばれ、後土御門天皇からは「花の下」という称号を得て連歌界に君臨したとのことです。宗祇という大物連歌師を主催する「千句興行」に招くためには、道真自身が歌道で世間の評価を得ていたことだけでなく、宗祇と同行した心敬に対するそれなりの支払いを賄う財力があり、加えて興行に同席できる実力者を集める政治力も兼ね備えていたと思われます。
道真は、応永18年(1411年)に太田資房(おおたすけふさ)の子として生まれ、18歳から10年間ほど上洛して室町幕府第六代将軍の足利義教(あしかがよしのり)に仕え、武蔵野の与野と笹目両郷を拝領しました。後日、道真が道灌と共に川越城の築城に関り、生涯を越生で終わったことを考えると、今日の東上沿線地域との縁を持っていた人物と言えるでしょう。道真が歌道に目覚めたのは父資房の影響が大きかったようで、太田一族には歌道に親しむ血統が流れていたのです。
道真は、安生4(1447)年に家督を嫡男の道灌に譲った後も、道灌と共に数々の戦を勝ち抜き、明応元年(1492年)に82歳で亡くなりました。亡くなったのは文明18(1486)年、道灌が殺害されてから6年後でした。道真は乱世の時代に天寿を全うした文武両道に優れた人物だったと思いますが、道真を知る人は多くありません。
歌人武将の道灌
話しを道灌に戻します。道灌も父の血をひいて歌道に親しんだ道灌は、文明元年(1469年)から文明6年(1474年)頃に歌人の心敬を品川の館に招いて千句興行を催したり、心敬を判者にした歌合を開催したと言われています。残念なことに千句興行の記録は残っていませんが、江戸城の歌合せについては「武州江戸二十四番歌合」として塙保己一が作成した「群書類縦巻」に転載されています。この群書類縦巻は国会公文書館のデジタルアーカイブで読むことが出来ますので、ご興味のある方は覗いてください。(私もアーカイブを覗いたのですが、何が書いてあるのか全く分からず、「豚にダイヤモンド」の状態でした。申し訳ありません。)
このように歌道に熟達していた道灌は、武将としての実力が問われる戦闘の場面でも能力を発揮しました。古い和歌で歌われた状況を情勢判断の材料にしたり、和歌を作って戦士を鼓舞したり、歌人武将でなければできない指揮をとって戦いを有利に運びました。その一つ、文明10年(1478年)に膠着状態だった小机城を攻略する戦いの際に詠った次の和歌は有名です。
小机は まず手習いのはじめにて いろはにほへと ちりじりとなる
私なりに現代の日本語に焼き直すと「小机城ごときは手習いはじめのように、いろはにほへと書くほどに簡単に落とせる。さっと片づけて、次に行こう!」ということでしょうか。
先程触れたようにこの歌が記録されているのが軍記物だけに歌の作者を道灌と判断するのは問題と指摘されるかも知れません。でも私には、この歌から人心を掌握することに長けた武将道灌が思い起こされます。武将としての道灌が多くの戦闘を勝ち抜いた名将であることは大方が認めるところであり、その秘訣がこの歌に表れているのではないでしょうか。この先も残す価値がある名歌です。
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。
