私たちは茶碗でご飯を食べる。ただ茶碗は元々お茶を飲むための器だ。なぜ茶碗でご飯を食べるのか。また、今のご飯茶碗はお茶用の茶碗とは少し形が違う。富士見市立難波田城資料館学芸員の佐藤一也さんは、「日本人と茶碗~茶碗の歴史~」と題して講演、現在のようなご飯茶碗が使われるようになった歴史的経緯、三穀飯など米以外も混ぜたご飯と茶碗の関係など、興味深いお話を披露してくれた。
(本記事は、2026年1月富士見市立鶴瀬公民館で開かれた第50期鶴瀬学級第5回教養講座の内容をまとめたものです)


これは、我が家の食事のお膳の写真です。左手前のご飯は陶磁器の茶碗、右に汁物の塗椀、右上が肉とか魚の主菜の陶磁器皿、左上が漬物とか副菜。この形が、明治以降農家や商家で広く普及しています。

しかし米飯を食べるのに陶磁器の茶碗が使われるのは明治になってからのことです。江戸時代は、公家・武士・江戸等の有力商人らは、本膳と呼ばれるスタイルで食事をとっていました。本膳料理は今でも冠婚葬祭などでは見られます。江戸時代の本膳料理で陶磁器は皿、小鉢などに使われましたが、米飯を食べる器は塗椀(あるいは木地椀)でした。
「茶」碗は元々お茶を飲むための器
「茶」碗は元々お茶を飲むための器でした。戦国時代に抹茶を飲む作法である茶の湯が流行、それに合わせて陶器のお碗が発達し日本独自の抹茶碗が各地で焼かれました。18世紀頃になりますと武士や商人に煎茶の文化が流行、それに合わせた煎茶碗が生産されます。煎茶は当時は土瓶に茶葉を入れ煮だしてお碗に分けて飲んでいました。煎茶碗は、19世紀以降は磁器が普及するようになります。
陶器は粘土に砂などを混ぜて焼いた器で吸水性があります。一方磁器は粘土に長石を砕いて入れ高い温度で焼かれ、陶器より締まり割れにくくほとんど吸水性がありません。陶器は一般に鎌倉時代くらいから、磁器は江戸時代に入ってから生産されるようになりました。磁器の生産は豊臣秀吉が朝鮮出兵して陶工を連れ帰り有田(佐賀)で磁器を焼いたのが始まりといわれます。
こうして陶磁器は元々お茶を飲むお碗で、ご飯を盛る茶碗、飯碗が明治時代から生産されましたが、お茶を碗に入れて飲んでいた時代が長かったために、その名残りでご飯を食べる器も茶碗と呼ばれるようになりました。
江戸時代には漆を塗った塗椀や木地椀でご飯を食べていた
陶磁器の茶碗(飯碗)がなかった江戸時代は、基本的に漆を塗った塗椀(木地椀)でご飯を食べていました。塗椀が普及したのは江戸時代から、それ以前は漆を塗らない木地椀が広く使われていました。木地椀はろくろ職人が作り、木地屋という集団が各地を渡り歩いて売りさばいていました。江戸時代になると全国の漆器生産地が生業としてやっていける環境と流通網が確保され、塗椀が普及していきました。
陶磁器の茶碗 手描きと印判手(型紙摺りと銅版転写)
明治以降の茶碗(飯碗)は、器に描かれる文様の施紋方法が時代によって変わります。器に文様をつけることを絵付けといいますが、手描きと大量生産に合わせた印判のものと大きく分けることができます。手描きは筆を使って内面、外面に絵柄を描きますが、江戸時代に比べ明治以降は何を描いているのかわからないものが多く、絵柄が簡略化されています。絵柄を描く顔料は江戸時代は鉱石を砕いた天然の材料を用いていましたが、明治以降は人工の呉須である酸化コバルト、ベロ藍と呼ばれる顔料で描かれています。

印判手は型紙摺りと銅板転写に分けられます。型紙摺りは絵柄をくりぬいた型紙を器に貼り付けて筆で色を塗ります。明治の早い段階で技術が導入されました。手描きより細かい絵柄がつけられます。型紙は型紙師と呼ばれる専門の職人が竹の皮を原料とした薄い紙を柿渋で何枚か貼り合わせていたといいます。茶碗は丸いので、型紙は1回で貼れず3回くらいずらして絵付けをしました。
銅版転写も型紙より少し遅れて西洋から導入された絵付けの技法です。銅板を先端のとがった鉄の筆でひっかくようにキズをつけ絵柄を彫っていきます。キズの部分にベロ藍を染みこませ、転写紙を載せて、写しとった紙を器の表に貼り付けてはがすと絵柄がつく。型紙よりさらに細かい線を描くことができます。銅板は何度も使用できるので大量生産に向いていました。
ゴム版は年賀状の消しゴムハンコの要領でゴムの板に絵柄を彫りつけてベロ藍を塗って器に押すという方法。費用がかからないので資材や職人が足りない大戦中に広く使われました。
茶碗の生産地 愛知県の瀬戸市と岐阜県の多治見市・土岐市(東濃地域)
明治以降の陶磁器は、愛知県の瀬戸市や岐阜県の多治見市(土岐市を合わせた東濃地域)が一大生産地です。瀬戸と東濃は山を挟んで隣り合っていて、一帯は古代、中世、近世まで絶えることなくやきものを生産してきた窯場です。明治以降は茶碗の他、様々な陶磁器が生産されました。

瀬戸は主にアメリカ向けのコーヒー碗など輸出目的で生産し、東濃は基本的に国内向けの安価な器を主として生産していました。瀬戸と東濃で生産された器はまとめて「瀬戸物」と呼ばれています。これは東濃で生産された器が一度、瀬戸・名古屋を通って全国に流通したからです。
東濃地域は地域ごとに同業組合があり器の種類に専売権が制定され、村ごとに生産する器の種類を決めていました。お互いに販売先の奪い合いをしないようにするためです。これにより燗徳利は土岐市の下石(おろし)、コーヒー碗は土岐市の妻木、盃は多治見市の市之倉などに割り当て、茶碗については多治見市の笠原という地区、鉢・丼は土岐市の駄知(駄知丼)で生産され、貧乏徳利(酒屋で酒をもらうための大きな徳利)を焼いていたのは高田・小名田(多治見市)です。
笠原では手描き、型紙摺り、銅版転写と様々な茶碗を生産しました。手描きはベロ藍が持ち込まれた明治6年以降、型紙摺りは明治15年頃から、銅版転写は明治21年頃から。 銅版転写が主流になると型紙は使われなくなりました。
大正時代以降、高さが低くて腰部から口縁部にかけて逆ハの字状に開く合平形の茶碗が作られるようになりました。またそれまでは内面にも絵柄をつけていたが、大正以降は内面には何も描かないのが主に。また明治にはベロ藍の藍一色が多かったがこの頃になると緑とか紅に彩色されるものも増えました。

生産された陶磁器は熱田湊(現名古屋港)から江戸、新河岸川舟運で富士見市へ
古文書・古記録、聞き取り調査などによると、江戸時代から明治始め頃までは、生産された陶磁器は東濃地域から熱田湊まで運ばれ、海を経由して江戸(東京)にたどりつき、それが新河岸川の舟運で富士見市周辺まで運ばれてきたと考えられています。新河岸川舟運における東京の出発点は花川戸(現在の隅田公園のあたり)で、そこから隅田川、荒川を上り、和光・新倉あたりで新河岸川に入り、伊佐沼周辺の川越五河岸に物が運ばれました。富士見市内には蛇木河岸、本河岸、山下河岸などの河岸場があったが、それぞれに内陸と結ぶ河岸道という道があり、その道を通って内陸部の村にまで瀬戸物が流通しました。
川越五河岸の船問屋の運賃表には、江戸東京へ向う下り荷物と川越へ向う上り荷物の一覧が書いてあり、文化3年の場合、上り荷物の中に太物と呼ばれる織物の他、藍玉、化粧品などとともに瀬戸物があります。この時は瀬戸で磁器が焼成され始めたばかりのため陶器の皿類とみられます。明治13年の積荷表にも上り荷物に瀬戸物がありますが、これは磁器で焼かれた碗や皿と考えられます。
志木の引又河岸の船問屋井下田回漕店の出入荷物表という記録によると、明治12年の東京から送られてきた移入荷物を見ると、糠、木灰、穀物、醤油などの他、所沢と八王子に運ばれる部分に瀬戸物という表記があり、これは磁器の茶碗とか皿とみられます。
明治後期以降は、大正3年の東武東上線の開業、それに伴う新河岸川舟運の衰退により瀬戸物の流通は徐々に鉄道輸送に切り替わっていったと考えられます。
多治見の陶器商の活躍
鉄道輸送前の東濃地域からの瀬戸物の輸送は、熱田湊までを荷車による陸路、熱田湊からは江戸・東京までを海路で運んでいました。明治33年以降中央線多治見駅が開設され、鉄道による瀬戸物の輸送ができるようになりました。特に多治見駅の開設により笠原の茶碗や様々な瀬戸物が多治見駅に集まり、多治見は東濃地域の一大集積地になっていきまました。
ここで活躍したのが多治見の陶器商です。鉄道を利用して全国各地で瀬戸物の販売営業をしました。範囲は関東の他東日本はほとんど、西日本も有田焼のある佐賀にも乗り込んで営業をしていました。 その販売力が瀬戸物の販路を全国に広げた一要因になりました。
また、大正から昭和初期頃までの瀬戸物の普及には、「わんちゃ」と呼ばれる露店商の活躍もありました。たかまち(露店市)を渡り歩き、主に笠原の茶碗を売っていました。
本膳料理 箱膳:一人一人別の銘々膳
江戸時代には武士階級や有力商人などは本膳料理を食べていました。本膳料理は様々な料理を塗椀や塗皿に載せていました。お膳は銘々膳であり高足膳です。基本的に座敷にいくつも並べられ、座って食べていました。それが、幕末から明治くらいに商家を中心に箱膳と呼ばれるお膳になって普及し、その後農村部にも広がります。

箱膳は箱にお膳の機能がついたもの。箱の中に茶碗、汁椀、手塩皿、湯吞碗、箸を入れて保管しておき使用する時は蓋をひっくり返してお膳とします。銘々膳として自分の箱膳と使う食器が決まっていました。主人を正面にその両側に家族や使用人が序列に順い座っていたようです。食後は茶碗にお茶やお湯を注ぎ最後の漬物で米を取りながら飲み干してきれいにしていました。魚を焼いた時には大皿に盛り、各自が回し取りをしていた。基本的に食事中の私語は禁止、食事後は食器を箱にしまい納めていました。食器を洗うのは週1回くらいだったといいます。
ちゃぶ台、ダイニングテーブル
ちゃぶ台は卓袱(しっぽく)料理を食べるための食卓が日本家屋に合わせて改良されたもので、都市部のサラリーマン家庭を中心に明治から大正にかけて普及しました。箱膳も同時期ですので、箱膳とちゃぶ台を併用していた家もあったようです。有力な商家では家族はちゃぶ台で、使用人は箱膳と分けていた家もありました。

ちゃぶ台は家族が向かい合って食事をするという新しい家族像を形成しました。それまでは無言で食べることを基本としていましたが、ちゃぶ台の普及で会話を楽しみながら食事をとるという流れができました。
ちゃぶ台の次に来るのは今皆さんが使っているダイニングテーブルです。普及のきっっかけは団地など集合住宅に用いられたことで、住宅の洋風化の一つの要因となりました。
明治以降昭和20年代まではご飯は白米ではなく三穀飯、糧飯 埼玉では麦飯
明治以降から昭和初期にかけて、農村部では日頃から白米だけのご飯にありつくことはありませんでした。白米は祭りとかハレの日だったそうです。一説によると明治から昭和初期の米生産量では、日本人全員が白米だけを食べることは到底できなかったといわれています。収穫が圧倒的に少なかった。埼玉県で白米を日常で食べられるようになったのは昭和30年頃からとみられます。
白米が足りなかった昭和初期までの人々は米とともに麦、粟、稗など別の穀物を混ぜて(三穀飯)食べたり、穀物自体が不足した際には米に大根、人参の根菜類を混ぜて(糧飯=かてめし)主食としていました。米に他のものを混ぜたご飯は腹もちがよくなかったので、毎回ご飯茶碗に5杯くらいの量を食べていたようです。
埼玉県内の戦前はどんな主食だったのでしょうか。埼玉西部は、うどんとか、オッキリコミの麦食の文化が根づいていました。そのため米に大麦を混ぜて炊き込んだご飯(麦飯、ヒキワリゴハン、ハンバクメシ)を主食にしていました。入間東部地域の麦飯の配合比率は米2~3に麦7~8と麦が多かった。県内でも地域によって配合率が異なりました。
麦を臼で挽いたヒキワリムギの麦飯は角がありあまりおいしくなかったといいます。その後、大正末期から昭和初期に徐々に押麦に変わっていきました。押麦は口当たりがよくて食べやすかったそうです。
なお埼玉では麦飯が主食でしたが、全国では米に麦、栗、稗などを混ぜた三穀飯を主食とした地域が多かったようです。富士見市でも終戦直後などは米、麦にジャガイモ、ニンジン、ゴボウなどをなどを加えた糧飯をよく食べました。

埼玉県では昭和30年代、40年代の高度成長期には白米がどんどん普及していきます。30年代以降の貿易自由化によって穀物価格、特に麦の価格が低下し、麦生産者が麦から野菜などの栽培へ転換し、米は水田耕作道具の機械化により増産され、白米のみの飯を食べる文化が定着していったとされています。
三穀飯では茶碗で口にかき込むのは当たり前、手に収まりやすくすべすべの陶磁器が選ばれる
現在では茶碗を口に当てて飯をかき込むのはよくないとされていますが、明治以降の近代では茶碗で口にかき込む行為が当たり前であったとされます。三穀飯を主食とし箸を使っていると、麦飯や三穀飯は粘りがなくパサパサしているので白米のように米がまとまりにくく、茶碗を置いたままでは口に運ぶのが難しい。そこから茶碗を持って口に近づける作法が生まれたという説があります。
そうすると飯を盛る器は口に近づけるので手におさまりやすいのが第一、口にあててかき込むので器の縁にさわりのないものがよい。ざらつきのある木製の椀よりすべすべした磁器の碗の方がよいということで、明治以降に陶磁器が飯碗として選択されていったとされていま。かき込むような特異な食事作法が茶碗の材質や形状に影響を及ぼしたわけです。そして文明開化で磁器の茶碗が量産されたことや鉄道輸送が発達し広域に流通したことが、今日の食事文化における茶碗の地位を確固たるものにしました。柳田国男は、「器の白さが台所を明るくした」と述べ、明治以降は磁器の茶碗が使われたことで人々の生活が明るいものになったと評価しています。
陶磁器の碗に飯を盛る茶碗の歴史はそれほど長くありませんが、明治以降の茶碗に飯を盛る食事の形は現在の日本人の食事文化を形作る始まりです。茶碗こそ食における現代の日本人のアイデンティティであるものだと思います。
