奥秩父の小鹿野町にかつて、「小鹿野のエジソン」と呼ばれた人がいた。赤岩松寿(あかいわ・まつじゅ、1914~1994)がその人である。シベリア抑留の苛酷な経験を経て、戦後郷里で、様々な発明の創作・製作に精を出し、テレビにも出演した。水虫治療薬「水虫あばよ」は札所三十一番で販売し寺の補修資金に充てた。一体どんな人だったのか。赤岩松寿氏の甥で、親子のように身近にいた赤岩一男さんに思い出話をうかがった。(以下は、赤岩一男さんのお話、佐々木明著『埼玉奇才列伝』=さきたま出版会を参考に作成しました)
「ピストル型コマ回し機」、「木製のベルト」、「ミノムシの皮をつなぎ合わせたハンドバックと財布」、「ネズミ自殺器」など商品化

赤岩松寿氏は、大正3年(1914)小鹿野町の養蚕農家に10人兄弟の長男として生まれた。小さい頃から手先が器用で、学業成績も優秀だった。秩父農林(現埼玉県立秩父農工科学高等学校)を経て埼玉師範(現埼玉大学)に入学。卒業後中学・高校教諭免許を取得、地元の青年学校で職を得るも太平洋戦争が始まり、満州に送られた。戦後シベリアに抑留された。
引き揚げ後実家に戻るが定職にはつかなかった。木工、音楽、俳句を始め様々な挑戦をし、アイデアを実行に移した。山間部でガスが吹き出す現場を見つけ事業化を検討。荒川の支流の一部区間で天然スケートリンクを開設した。実家の敷地内に創作工房を設置しモノ作りに没頭、「ピストル型コマ回し機」、「木製のベルト」、「ミノムシの皮をつなぎ合わせたハンドバックと財布」、「ネズミ自殺器」などは商品化された。しかし継続的な事業化までは至らなかった。
カブトムシの養殖も話題となり、NHKにテレビ出演。「小鹿野のエジソン」と呼ばれるようになった。数種類の薬草を使った水虫治療薬「水虫あばよ」は評判となり、還暦の頃から秩父札所三十一番観音院で御朱印帳の記帳をしながら売店で売り、収益の大半は寺の補修費に充てられた。しかし薬事法違反として県から製造中止を命じられ、販売はほぼ10年で終わった。晩年は木工製品作りの他、句作に打ち込んだ。埼玉県俳句連盟理事にもなった。
[赤岩一男さんに聞く]
10人兄弟の長男だが家は継がず
―赤岩松寿さんは農家の長男に生まれたのですか。
赤岩 養蚕農家の10人兄弟の長男です。男6人、女4人。高等小学校を出て秩父農林に進みました。
―長男でも跡を継がなかった。
赤岩 3男である私の父が継いだわけです。
―シベリア抑留から引き揚げて戦後はどうしていたのですか。
赤岩 実家にすぐには帰らず、熊谷で結婚したのです。松寿はヴァイオリンを作ったりしていましたので、その縁だと思います。しかしうまくいかず別居して、実家に戻ってきました。
親子のような関係
―実家は3男が継いでいたわけですね。
赤岩 そうです。広い家で、離れがありましたので、松寿はそこに住んでいました。
―それで赤岩一男さんは松寿さんと一緒に暮らすことになったわけですね。
赤岩 はい。私は1955年生れですが、私がものごころついた時から松寿は家にいました。基本的にはずっと一緒です。私は15の高校の時出ましたが、その後も松寿は家に帰ればいました。親子ではないけど親子みたいなものです。姉と私は松寿を「ピーちゃん」と呼んでいました。松=pineからとった。
―松寿さんの身の回りの世話はどなたがしていたのでしょうか。
赤岩 一番偉いのはうちのお袋です。松寿だけでなく、私と私の姉、10人兄弟の下の方の4人は、一緒に住んでいたのを覚えています。
頭がよく、弁は立つし字はうまかった
―松寿さんはどんな人だったのですか。
赤岩 周りから見れば粋人です。頭がよかった。弁は立つし字はうまいから札所の御朱印帳の記帳を任されていました。俳句もやる。楽器もやり、学校のピアノの調律もやっていました。そういう面では有名人ではありました。文化人に近いような形で。町内に出かけて いろいろな人と仲良くお付合いしていました。
―ピアノの調律もできたのですか。
赤岩 習ったのかどうかわからないが、小学校、中学校の音楽室のピアノの調律には松寿が来ていました。
―元々手仕事が好きだった
赤岩 手が器用だったし、好きだったようです。あまり実業が好きでなかった。農作業もダメでした。
プレハブの「赤岩創作所」でいろいろ発明
―松寿さんは、実家に工房を建てたのですか。
赤岩 プレハブの建物で「赤岩創作所」という名前をつけていました。3年くらい前に壊しました。
―「ピストル型コマ回し機」、「木製のベルト」、「ミノムシの皮をつなぎ合わせたハンドバックと財布」、「ネズミ自殺器」などの発明品は実際にできていたのですか。
赤岩 それは事実です。確かにいろいろ作っていたんです。創作おもちゃみたいなものです。東京のおもちゃ問屋ともお付合いがあったし、一人手伝いを置いていた時期もありました。お金にはならなかったでしょうが。
天然ガス開発、天然スケートリンク
―天然ガスの開発を試みた。
赤岩 地元にたまご湯と呼んでいたが鉱泉があって、たまたまうちの土地だった。硫黄のガスが出ていたので事業にできないかと。この頃「小鹿野のエジソン」と言われ始めた。
―スケートリンクを作った。
赤岩 昔は白久(秩父市)に秩父鉄道が経営するリンクがありました。小鹿野も荒川の支流があり リンクがあって、その下流に川をせき止めて新しくリンクを作って「秩父第1スケートリンク」を低料金でオープンしました。
―札所三十一番観音院で販売した「水虫あばよ」は売れたようですが。
赤岩 売れました。しかし、薬事法違反と言われ、県に呼び出されて大変でした。
カブトムシを養殖しNHKの「それは私です」に出演
―カブトムシの養殖も。
赤岩 私が一番覚えているのはカブトムシの養殖です。オガクズに幼虫を入れる手伝いもさせられた。やはり難しいのです。オスでなければいけないが、栄養が足りないとオスの角が大きくならない。2、3年目になりノウハウができてそれなりのものができるようになりました。
NHKの「それは私です」という番組に出たのです。「カブトムシ博士赤岩松寿、それは私です」という最初のナレーション。3人候補者が出て、回答者は、池辺良、安西愛子、 曾野綾子。池辺良が当てた。「何でわかったんですか」と聞かれ、コメントが「一番自信がなさそうにしゃべっていた」。
カラーテレビになったばかりの頃で照明がすごく強い。持って行ったカブトムシが照明に向って飛び立った。予期せぬ演出でした。その後も他のテレビにも出ていました。
季語「もがりぶえ」
―他に松寿さんについて印象に残っていることは何ですか。
赤岩 俳句の季語をいろいろ教えてもらいました。「もがりぶえ」。竹で作った柵に冬風が当たると鳴る。それを電線の風の音ももがりぶえの一種だと、俳句を作った。「ピーちゃん、もがりぶえって何」と聞くと「おまえ知らないのか」と言って教えてくれた。
面白い言葉では、「世の中は中途半端なやつが一番ダメ。戦争の時に防空壕に隠れていて安全なところに逃げようとして最初に出て行ったやつは撃たれない。それに続いて次に出ようとしたやつはみんな死んでいる。最後まで臆病で残ったやつも生き残る」
シベリア抑留時代のスケート靴を持ち帰る
―シベリア抑留の経験については。
赤岩 シベリアは大変だったと言っていました。体が強くなかったからよけい大変だったろうけれど、でもそれなりには楽しんでいたみたいです。スケート場を作った時に、シベリア時代のスケート靴を軍靴と一緒に持ってきていました。
―赤岩さんは松寿氏から教えられることも多かったのでですね。
赤岩 後から思うと勉強にはなりました。
早くから開けた小鹿野
―小鹿野はどういうところですか。
赤岩 埼玉で町制を敷いたのはは川越に次いで小鹿野が2番目なんです。秩父は当時大宮村でした。秩父地域で小鹿野の人はそれなりにプライドがあるのです。うちの実家は下小鹿野ですが、中山道の裏街道で街中はそれなりに開け、旅籠もあったし本陣もありました。小鹿野歌舞伎は有名ですが、近年はオートバイによる町興しに取り組んでいます。
(取材2026年6月)
