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20年間、社会貢献に尽力 小杉武さん (富士見市)

富士見市の小杉武さんは、NPO法人ゆめつるせの代表として、びん沼川の清掃に始まり、数々の社会貢献活動に打ち込んできた。脳梗塞を患ったが、自力で克服、その後も病気に関する講演会、地元小学生の農業体験学習の指導などを続けた。このほどNPOを解散、活動に一区切りをつけた小杉さんにこれまでの歩みを振り返っていただいた。

(併せて「東上沿線物語」第23号=2009年5・6月「貧乏に育ったことはうれしい」を再掲します)

小杉武
小杉武さん(2023年8月)

脳梗塞を自力で克服

―脳梗塞になったのは。

小杉 2012年です。63歳の時でした。

―それを自力で治したのですか。

小杉 毎朝4時に起きて先祖のお墓掃除。それから自転車で自宅から新河岸川を下り志木市役所まで往復約8㌔を1時間かけて走ります。最後の1㌔は自転車を担いで歩きました。これを730日、2年間続けました。

小杉武
自転車を担ぐ小杉さん

それだけではなく、自分の畑がしばらく放っておいたら荒れ放題になってしまった。その草刈り。さらに新河岸川の遊歩道の草刈りも3年くらい続けました。

―その頃奥さんを亡くされた。

小杉 妻は脳梗塞が起きた時は助けてくれたのですが、しばらくして亡くなりました。それからは、自分の心を戒めるためにもあえて苦行に挑みました。

―病気は回復されたのですか。

小杉 最初は足も手も麻痺がありましたが、絶対治すという信念でやりましたから大分よくなりました。ただ、今でも足の裏が熱く感じられ夜は氷で冷やして寝るようですが。

―自分でリハビリ体操を考案した。

小杉 朝、お風呂の中で、足を100回ずつ上げ、足首を左右別方向に回します。今でもやっています。

―病気になるまでNPO活動でいろいろお忙しかったのですね。

小杉 埼玉県南西部地域NPO法人連絡会副代表や新河岸川広域景観づくり連絡会代表などを務めていましたが、脳梗塞になり役職を退きました。ただ、びん沼川環境まつりは2013年も継続して開催しました。

病気をテーマに講演会開催

―その後、今度は病気をテーマに講演会を開くことになるわけですね。

小杉 2016年に、イムス富士見総合病院と共催で「脳梗塞からの快復」と題した講演会を富士見市文化会館キラリ☆ふじみで開きました。専門の先生のお話を聴くとともに、自分の体験を他の方の参考にしていただきたいと考えました。その後も、イムス三芳総合病院の協力で講演会を2回開催しました。

2016年脳梗塞講演会チラシ
2016年脳梗塞に関する講演会チラシ

小学生に農業体験の場を提供

―2017年からは小学生に農業体験の場を提供された。

小杉 地元富士見市の諏訪小学校の体験学習に協力しました。畑と田んぼで1年生はサクランボ狩り、5年生は田植えと稲刈りです。 

小学生の農業体験サクランボ狩り
小学生の農業体験サクランボ狩り(2018年)

―畑と田んぼはご自身の所有地ですか。

小杉 そうです。田んぼは約100坪、周囲を入れて全体150坪ですが、私が造成しました。

―造成とは。

小杉 元々畑だったところに田んぼを作りました。パワーシャベルを使い、一人で毎日やって3年かかりました。水も自分で引いた。

小学生の農業体験稲刈り風景
小学生の農業体験稲刈り(2021年)

―田んぼは水の管理が大変ではないですか。

小杉 水路から流れを確保しなければならず、季節になると毎朝4時に起きて作業しました。

―子ども達にとって農業は貴重な体験です。

小杉 子どもはうれしいですよ。農家の子はほとんどいないですから、農業体験は普段はできません。先生も、田んぼに入るのに「靴を履いていいですか」と聞かれたことがありました。

―小学生の農業体験は7年やって、今回終了されたわけですね。

小杉 やりがいはありましたが、ともかく大変でした。やめた理由は、昨年、刈った稲を脱穀に運ぶのに3㍍歩くともう動けなくなる。年をとり、体がそうなったのでやめさせてもらいました。

―今はおいくつですか。

小杉 もうすぐ75になります。会社の取引先も30以上あったけれど亡くなった方が多い。 生き残るのは大変なことです。

自分で決めたことはあきらめない性格

―長い間、社会貢献活動を続けられました。

小杉 自分で決めたことはあきらめない性格ですから。びん沼の清掃から始まり、なんだかんだでNPOを20年くらい続けました。社会のためなんだけれど、結局は自分のため。経験し、成長できる。でも、ちょっとやり過ぎちゃったかもしれませんね。  

病気と健康を話し合う場を

―今後はどうされるのですか。

小杉 私の経験を踏まえて、病気と健康のことをお話する場を作れればと考えています。脳梗塞の前兆とか、ならないためにはどうしたらいいかとか。

11月に同級生が集まる機会があります。皆さん持病もあると思うので、それぞれが、自分の持ち時間でしゃべってもらったらどうかと考えています。地元でも、近所の高齢者を集めて同じような会を開きたい。                    (取材 2023年8月)

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乏に育ったことはうれしい  小杉武 NPO法人ゆめつるせ代表理事・小杉工務店社長

(「東上沿線物語」第23号=2009年5・6月)

 びん沼クリーン運動、地元中学校における木造建築体験学習、薬物乱用対策講演会、防災・交通安全フェスタ、そして空き家の有効活用・・・。

 次から次へと活動を繰り広げるNPO法人ゆめつるせ(富士見市)。小杉武代表を社会奉仕にかきたてるのは、那須の貧乏な家に生まれ、山菜売りなどで家を助けた子ども時代の記憶、という。

誰かに仕事を作ってもらうのはいや。自力で工務店立ち上げる

―ご出身は。

小杉 栃木県那須町です。集落が30軒ほど。那須高原まで車で30~40分のところです。

―家業は。

小杉 貧乏な農家でした。8人兄弟の2番目でしたので、小学校4、5年から、山へ入って山菜を取り、それを町に売りに行った。子ども用自転車がないので親の自転車を「三角乗り」で。三角のところに足を入れて乗るんです。

 水蕗という蕗ですが、ワラで束にして一軒一軒売って回る。5~6把で30円とか50円ぐらいで売れるんです。それで味噌煮の缶詰を買って10人で食べた。家が貧しいために、そうせざるを得なかったんです。 

 修学旅行はやはり行けなかった。農業の仕事を手伝い、煮炊きは全部薪でしたから、薪を集め山から橇に載せて下ろしたり。そういうことやって家を助けた。

―就職はどこで。

小杉 中学卒業まで那須にいて、集団就職で汽車に乗って東京に出て、土木関係の仕事に就いた。当時は給料なしでしたね。20歳くらいまでいたかな。それから埼玉に来て、22歳で今の小杉に居候したわけです。小杉は家内の姓なんです。

―それから建築の仕事を始めた。

小杉 24で個人で工務店を立ち上げました。大工の「ダ」の字も知らなかったんですが、生きていかなければならない。

1軒の家を(作るのを)全部覚えるのは大変なことですよ。親方はいないし、誰も教えてくれない。手伝いに行き、建て舞いがあると夜遅く足場の上まで上がって、屋根の難しいところをマッチで火を点けて見て、わからないところは都内の書店まで行って調べた。すべて自分で盗むようにして覚えた。大体4年かかりました。それで自信つけたんです。

―その後会社を設立する。

小杉 悔しい思いをさんざんしてきましたから、いつまでも人に使われているのはいやだという思いが浮かんできて、35で有限会社にしました。鶴瀬の駅近くに、八畳くらいの掘っ立て小屋を建てて始めました。

3年くらい仕事は何もなかったです。お金が入ってこないからかみさんも泣いていました。大きな建設会社の下請けから入るというのが一般的なんですが、私は誰かに仕事を作ってもらうのがいやなんです。棚からぼた餅みたいに誰かが仕事やるからといってもらうのは極力やらなかった。やるなら最初からやりたい。ベニヤ1枚、釘1本の仕事でもいいから、自分で直接お客さんから仕事をもらいたいという執念できたんです。

当初から私は飛び込み営業です。三芳町にある会社に月に1回顔出しに通って、3年たって、やっと「コンクリートの駐車場を作ってくれないか」と言われた。リース屋からパワーシャベル借りてきて、自分で作った。それが最初の大きな仕事でした。これは一生懸命あきらめないでやると仕事を頼んでくれるんだということを覚えたんです。3年過ぎてから、親の顔もありましたが、ポツン、ポツンと仕事が入るようになりました。

貧しい家に育ったということはうれしいんですね。修学旅行もいけずくやしいですから、社会に出たら一生懸命働きたいんですよ。お金もいただけますし、喜ばれるし。

雲をつかむようなことをやりたい

―独立心が強いんですね。

小杉 誰かに根回ししてどこどこへ行くというやり方は嫌いな性格ですから。ともかく雲でもつかむようなことをやりたい。常々子どものころからそんな風だったんです。

いい話は信用しないし、自分の手の届く範囲のものでないとやらない。だから人からだまされることもない。有限会社始めた当時はひっかかったこともあったけどね。

―その後も事業は順調に。

小杉 当時は今と比べれば景気もよかったんでしょう。ですから仕事に困らなかった。47歳で株式会社に。

6年ぐらい前に、社屋のビルとマンション2棟を自力で建設しました。今は木造住宅建築が中心で。重量鉄骨や、7、8階建てのマンションもできる体制です。その他、不動産(土地の売買、アパート・マンション管理、分譲住宅の販売)も。

 

―これまでを振り返ってどうですか。

小杉 日頃いろんな面でチャレンジしてきたのでチャンスも訪れたんでしょう。常々チャレンジしていれば回りの人たちもついてきてくれると思うんですよ。

それと、3年、5年と、きちっと目標を持つことですね。これをやりたいんだと。私は職人さんから、いずれは経営者になりたいという願望がありました。すると目標通りにいくんですよ、不思議と。

 

子どものころ家を助けた記憶から人助けに乗り出す

―ボランティア活動を始めたきっかけは。

小杉 平成12年のころ、富士見市健康増進センターの隣を流れる富士見江川に桜の苗木を植えたいと、市の方に提案したんですが、河川法とかの制約あり、断念したんです。

平成16年に、富士見市の障害者の施設「ゆいの里」に、桜の苗木をプレゼントしました。最初ボールペンくらいの太さのを畑に植えておいて5、6年たったものを、パワーシャベルとダンプ出して、1日がかりで植えた。もう咲くでしょう。

―それがNPO活動に発展した。

小杉 それからぐいぐいとNPOの方に入ってきた。16年に最初個人で「ゆめつるせ」という団体を立ち上げて、19年にNPO法人に。

―学校の支援活動に力を入れている。

小杉 自宅の近くに富士見台中学校があります。保護者会の時大根を寄付したりしていたんですが、学校側からバスケットコート支柱が腐り土の中に塊が残っており、何とかしてほしいと。それならパワーシャベルを使えば簡単にとれるが教育にならないから、子どもたちにスコップ持たせて掘らせたらと指導したんです。校長先生、生徒からも感謝状をいただきました。18、19年には、木造建築の体験学習もお手伝いした。

学校の先生は、私たちの世代にとっては雲の上の存在でした。今、学校も、予算が少なくて大変な思いをしている。困っていることなら、お願いされたことは断らないで気持ちよく、やってあげるということ。やはり人助けをしたいということです。

―「びん沼クリーン作戦」はどういうことから。

小杉 私も那須で育ち、川で魚を採ったりという思い出を引っ張ってきています。びん沼は地元ですが、実際に川岸を歩いてみたら、あまりにひどい。ごみはあるし、釣り人は自分の周りにごみが浮いていても片付けようともしない。これは大変なことになるなと。びん沼の水は荒川と合流し、我々は荒川の水を飲んでいるわけです。

 平成17年でしょうか、埼玉県の方に足を運んで、「びん沼をきれいにしたいから何か指示を出してください」と。モデル事業の水辺の里親制度を紹介された。それから年3回、清掃をしています。ごみがすごいですよ。

びん沼川清掃作戦
びん沼川クリーン作戦(NPO発足当初)

―NPOの活動はどんな分野。

小杉 町づくり、環境、青少年育成が3つの柱です。青少年育成では薬物問題、町づくりでは防災防犯も力を入れています。やらなければならないことは山ほどありますよ。

空き家の活用で安価な住宅を提供

―これから取り組んでいこうとされているのは。

小杉 県とNPOとの協働事業として、今年2月には、空き家の有効活用について提案しました。

今大騒ぎになっていますが、リストラされ、寮からも追い出され、寝るところもない人たちがいる。住まいがないと就職もできない。 その中には20代、30代の人も多い。若い人は可能性はいっぱいある。将来社長になるかもしれない。そういう人を応援したい。

―具体的にどのようにすれば。 

小杉 アパート、マンションも特に古いのは空いているが、不動産会社は、マンネリになっていて、値段のいい物件は優先的に扱うけど、古いアパートは商売にならないから手をつけない。こういうアパートがあるから、困っている人にあっせんしたいというしくみを作らないと。具体的には家賃負担など県の方の手続き上のことも出てきます。地主さんは固定資産税を安くしてもらうとか。

それと、一戸建てでも、今50代~60代くらいの人は子どもさんは家を出てしまって、大きな家はいらない。体が悪くなれば施設に入ってしまうから今後は空き家が増えてきます。そこで、完全に空き家になる前に、若い人と年寄りが一緒に住むというやり方がある。若い人も家賃五万円のところ、2万5千とか2万円くらいで入れればいいでしょ。年寄りも若い人から学べ、人間として生きるうえでお互いにいい。こういうことを提案したい。

―次々と新しいアイデアが。

小杉 マンネリで同じことをやっているんではだめですから。経済は変わっており、変わっている状態に合ったようにしていかないと。   

―NPO活動を続けるのは大変ですね。

小杉 NPO法人は実際経費がかかります。ほとんど私が負担しています。従業員も一人がつきっきりになっていますから。

―行政の助成を受けるという手もあります。

小杉 しかし富士見市も赤字です。赤字のところに、ボランティアするのでお金くださいというのは理解できますか。いくら税金にしても。人を助けたい、ボランティアをしたいなら、事業資金は自分たちで考えなさいよと。

―お金のない人はできませんね。

小杉 だったらやらない方がいいんです。人の金ですから。自分の力でやるならいいんですよ。そうでないと社会がなまけものになってしまう。教育のためにもよくないです。根本的発想がそこ。

―そこまで犠牲を払って活動するのはどうしてでしょうね。

小杉 こうしたことを始めたのも、やはり子どものころ家を助けたという記憶が生きているのかもしれません。自分で自発的になるから。誰からも指示されたわけでもない。 

 でも、社会に奉仕することは悪いことではないですから。自己満足ではないでしょ。釣りとかパチンコは自己満足で、私はそういうことは嫌いです。そういうお金の使い方は納得いかない。どうせお金を使うなら、死ぬときに水いっぱいになって戻ってくればいいかなと。

のらりくらり生きているより、そっちの方やった方がいいでしょ。そう思いませんか。もちろんいろんな生き方があっていいと思いますが。

2010~2013年の活動  「新河岸川広域景観づくり連絡会」からびん沼川環境まつりへ

 NPOゆめつるせの小杉代表は、びん沼の清掃から始まり、地域の社会貢献活動を広げていった。2010年には「新河岸川広域景観づくり連絡会」代表に就く。これは埼玉県が進める「新河岸川広域景観プロジェクト」の推進組織。小杉氏はこの連絡会を主導し、サイクリングマップの作成、カヤック体験などの事業を実施、さらに11年からは「びん沼川環境まつり」を開いている。

びん沼川環境まつり
びん沼川環境まつり(2011年)
新河岸川広域景観づくり連絡会イベント
新河岸川広域景観づくり連絡会カヤックイベント(2012年)

びん沼川環境まつりは、びん沼の環境保全を目的に、住民や釣り人の意識を高めようとするイベント。会場は富士見市のびん沼自然公園。様々な趣向を凝らし、これまで11、12、13年と3回実施している。

13年は11月16日に開かれ、恒例のゴミ拾いの他、自転車安全教室、煙体験・消化訓練、演奏(消防音楽隊、小学校鼓笛隊、金次郎バンド)、のど自慢大会などが催された。

なお、びん沼川環境まつりは、11年、12年は新河岸川広域景観づくり連絡会が主催したが、13年はNPOゆめつるせが主催者になっている。

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