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「川越街道大井宿跡周辺の文化財を巡る」富士見市資料館友の会ふるさと探訪部会第45回ふるさと探訪

 令和8年10月24日(土)、富士見市資料館友の会ふるさと探訪部会主催の「第45回ふるさと探訪」が開かれました。今回のテーマは「川越街道大井宿跡周辺の文化財を巡る」で、ふじみ野市・富士見市の旧大井宿周辺を巡りました。雨模様でしたが、探訪部会の皆さんのご説明を聞きながら楽しく歩きました。

オトウカ山は、勝瀬村が川越街道に届くまで確保した細長い土地・茶立久保に位置

 オトウカ山は、一辺20m、高さ5mほどの小高い塚です。名前の由来は、昔キツネ(お稲荷=トウカ)が棲みついていたことからと伝えられています。昭和34年埼玉県古墳所在地調査では古墳と報告されていますが、測量・発掘調査では何も出なかった。上に浅間神社の祠と稲荷社があった(今榛名神社に移設)が、正体は断定できていません。

オトウカ山
オトウカ山
オトウカ山説明板

 ここは現在の住所は富士見市ふじみ野西4丁目ですが、昔は茶立久保という地名で、勝瀬村の細長い領分が他村の間を川越街道まで伸びる奇妙な形をしています。現在の地図で見ると、富士見市の領域が幅100mでふじみ野市に食い込んでいます。

富士見市ふじみ野西
色つき部が富士見市域、「現在地」がオトウカ山公園、左「254」が川越街道

 

昭和12年建設、モダンな旧大井村役場 

旧大井村役場
旧大井村役場

(旧大井村役場担当者のご説明)
 この建物は昭和12年、当時の大井村役場として建てられました。22年に亀久保、苗間、鶴ヶ岡各村と合併、41年に大井町になっても、47年まで庁舎として使われました。

 木造2階建てですが、外部はラスモルタル造り、窓がオープンドア、2階にベランダもあり、モダンでオシャレな庁舎として評判を呼びました。平成14年に国の登録有形文化財になっています。

 この役場は、明治7年にできた、ふじみ野市内で一番古い大井小学校の敷地内にあり、 小学校の補習室として使われたこともあります。小学校は、当初川越城の米蔵を移設して校舎に用い、松平の葵の紋の鬼瓦もありました。

当初の大井小学校校舎
川越城米蔵を使った当初の大井小学校校舎(旧大井村役場展示)

 

上木戸、下木戸:宿場は夜間通行止め

大井宿には、現在の東入間警察署入口交差点近くに上木戸、約1㌔江戸寄りに下りに下木戸ありました。明け六つ(朝6時)に開いて暮れ六つ(夕方6時)に閉まる。その間は通行止めになる。おそらく治安維持のために夜は人を通さなかったのです。 

大井宿上木戸
上木戸跡(東京方面を望む)
大井宿下木戸
下木戸跡(川越方面を望む)

江戸から8里、川越へ2里半の大井宿

大井宿復元図
大井宿復元模型と地割図

 ここは大井宿の本陣跡(現在はカフェ)です。川越街道は、江戸の日本橋から中山道を経て、板橋宿の平尾追分というところで分かれて、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の各宿場があり、川越まで全部で11里、43㌔ありました。整備されたのは江戸時代ですが、元々は戦国時代に太田道灌が江戸と川越に城を作った時に2つの城を結ぶ軍道として造ったのが始めだそうです。江戸幕府にとって川越は防衛の拠点で、城主は代々老中、大老など中枢の幕臣が就き、川越街道は新河岸川の舟運とともに重要視されました。江戸時代は川越往還と呼ばれ川越街道となったのは明治以降です。大井宿は6つの宿場のうち川越の手前、最後の宿場で、江戸から約8里、川越城の大手門まで2里半の位置にあります。

大井宿本陣 伊能忠敬が逗留

大井本陣跡
大井宿本陣跡

 本陣は、新井さんというこの地域の名主さんのお宅です。新井さんは小田原の北条氏に仕えていた武士の出で、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い逃げてこの地域に土着して名主を代々務められ、大井宿本陣として開所しました。

 宝永2年(1705)の資料によると、大井宿の家数は94軒、人口479人、商人5人、桶屋1人、僧3人、馬60疋の記録が残っています。

 川越街道は全長43㌔、昔の人なら一日で歩く距離です。ここにお殿様が泊まることはなく、休憩所として機能していました。本陣には藩主以外の大切なお客は宿泊し、たとえば伊能忠敬の名が記録されています。宿屋は本陣だけでなく一般の旅人が泊まる旅籠が4、5軒ありました。

 宿場の機能でもう一つ大切なのは荷物の継ぎ立て(伝馬)。宿場には人馬が常備されていましたが、不足した場合助郷制度により周辺の農村に馬とか人足を出させました。大井宿の場合、元禄11年(1698)の段階で、現在の富士見市内の鶴馬村、勝瀬村の村々にも助郷が課せられ、天保13年(1842)には鶴馬下分も加えられました。農家にとっては通常の仕事に加えての労苦で、免除嘆願の話は全国各地であったようです。

 本陣跡の建物の裏に、樹齢200年から300年と言われるケヤキの樹があります。大井宿本陣であった時からここに立つ、旅人を見続けてきたケヤキの樹です。戦前、海軍の人が来てこの樹は船のマストにちょうどいいので譲ってくれと言われたそうです。

大井本陣のケヤキ
大井宿本陣跡に立つケヤキ

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明治の3回の大火で大井宿は焼失

 大井宿は明治10年から25年までで3回の大火に遭い、宿場の建物ほとんどが焼けてしまいました。それまで大井町だったのが火事の後は大井村になってしまいました。

徳性寺 旗本米津彦七郎の位牌

徳性寺
徳性寺

 室町時代創建の天台宗の寺院。江戸時代初期大井を領地とした旗本米津彦七郎の菩提寺で、位牌があります。明治14年の大火で建造物は失われ、昭和48年に本堂が再建されました。山門は、明治25年に移築されてきたもので、川越の南院のものとも川越城の遺構とも言われています。大井清水弁財天の本尊が移設、安置されています。また、境内に大井宿下木戸にあったお願い地蔵が立っています。

下木戸にあった地蔵
下木戸にあった地蔵

大井の名前の由来になった大井戸

大井戸
復元された大井戸

 大井の名前の由来になった大井戸のレプリカです。実際にあったのは30m南。昭和50年に砂川堀の改修で偶然発見され、20m下に埋まっていました。復元した穴は2m四方ですが、これは水が出るところだけで、井戸全体は14m*10mの大きさでした。台地で水源が深いためらせん状に掘り下げるまいまいず井戸に似た形態だったと考えられます

弁財天を祀った大井弁天 上野不忍池から分霊

 砂川堀のほとり、斜面林の下に、湧き水の池があり、大井清水弁財天が祀られていました。

大井弁財天跡
大井弁財天跡

 砂川掘は狭山丘陵の早稲田大学人間学部の校内にある池が水源地です。水がないときは涸れてしまうが、雨が降ると水浸しになり水害が発生するので、川を掘り下げ今は雨水を流す水路になっています。富士見市の榛名神社の近くを流れ、新河岸川に注ぎます。

 大井弁天には伝説があります。昔、南畑村に与右衛門とおりくという大工の夫婦がいた。お花というたいそう器量良しの娘がいたが、ある時娘の体中にできものができて、医者に診せても薬を塗っても治らない。与右衛門さんが大井に仕事で来て、切り株に腰掛けてうとうとしていると、夢の中に弁天さんが現れ、「この泉の水を汲んでお花さんの体を洗うと皮膚病がよくなる」とお告げがあり、その通りにするとすっかりよくなった。与右衛門さん、おりくさん、お花さんは感謝して、ここにお堂を建てて弁天さんをあつく祀った。近在の人たちがその話を聞いて、弁天さんには御利益があるとお参りに来るようになり、大変賑わったそうです。

 大井弁天は、上野不忍池の弁財天から分霊したと言われています。不忍池の弁天様は琵琶湖の竹生島から来ました。弁天様は元々インドの神聖な川の神さまでしたが、仏法を守る神として仏教に取入れられた。竹生島の弁天は頭の上に蛇とおじいさんの頭(宇賀神)が載っています。農業、芸能の神です。

大井弁天の森の池
大井弁天の森の池

 今は大井弁天の湧き水はほとんど涸れてしまい、湧いているかどうか確認できません。 以前三間四方のお堂(御籠堂)がありました平成元年に解体され、本尊の弁財天は徳性寺に移されました。大井弁天の周辺は、春になると桜だらけになります。

奈良時代、大規模な製鉄所であった東台金山公園

製鉄想定図
製鉄想定図
復元された製鉄炉
復元された製鉄所炉

 古代において、かね(金属)はあかがね(銅)、しろがね(銀、すず)、こがね(金)、 くろがね(鉄)の4種類ありました。そのうち鉄は砂鉄の溶け始める温度が1200度程度と一番高く、ふいごで空気を送り込んで温度を上げないと加工ができない。その代わり一番硬い。くろがねを加工するのは古代においては大変な高度な技術でした。飛鳥時代まで鉄は延べ板で朝鮮半島から輸入し国内ではほとんど作れませんでした。奈良時代、8世紀頃になると、国家的事業として奈良の大仏が建てられ、技術が進み、ふじみ野市や富士見市で鉄の生産が行われていたことが何カ所かの遺跡で確認されています。  ここは東台金山公園。奈良時代の大規模な製鉄所の遺跡です。砂鉄から鉄の塊を作る製鉄炉が7基発見され、公園内に復元されています。炉の原料となる粘土も付近で掘り、燃料の薪と砂鉄を交互に入れ、ふいごで加熱します。遺跡周辺から製鉄の残滓である鉄を含む塊が多く出土し、金糞と呼んでいました。

東台金山遺跡から出土した金糞
東台金山遺跡から出土した金糞

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昭和初期の役場の姿伝える 国登録有形文化財 旧大井村役場