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長谷川清の地域探見(37)小川町を歩きながら和紙について考えました

 東武東上線の池袋駅から急行で70分、電車は秩父山地東端の周囲を山で囲まれた小川町に到着します。本誌の読者であれば小川町が関東を代表する「手漉き和紙」の産地であることは、よくご承知のことでしょう。全国各地を訪ね歩く自称・地域探見家の私にとって和紙は日本の伝統工芸品としていつも関心の対象です。雨が続いた今年9月、短い雨上がりのタイミングを狙って暫くぶりに小川町を訪ね、静かな街並みを歩きながら和紙のことをあれこれ考えてみました。

東武東上線小川町駅

日本の風土と和紙

 現在私たちが使っている「紙」は、紀元前2世紀頃の古代中国で開発され、日本には7世紀初頭の飛鳥時代に高句麗の仏教僧侶が墨と一緒に紙の製法を伝えたとされています。紙は植物繊維をトロロ葵などから採取されるネリと一緒に水に溶かし込み、木製の枠組みで漉いて作られます。古代中国で開発された紙は麻の繊維を使っていたようで、それが世界各地に伝搬すると地域毎に原料が異なる紙が生れました。

 日本に伝来した当初、製紙の原料は中国に倣って「麻」だったようですが、そのは日本の風土に合わせて野山に自生してる「楮(こうぞ)」や「三椏(みつまた)」、「雁皮(がんぴ)」などが原料として使われるようになりました。伝来して暫くの時期、紙は仏教の普及に合わせて写経用紙として使われ、その後各種の色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが作成されて華麗な天平文化の一翼を担いました。これに合わせて紙を漉く技法も独自の改良が加えられて日本独自の「和紙」に発展、江戸時代には全国各地に多くの産地が生れました。

 和紙に関する研究書や識者の著作は数多く、私のようなド素人が口をはさむ余地は全くありません。下手に口出しすると袋叩きに遭うのが目に見えています。ただ、長く全国各地の地域産業を眺めてきた経験から言うと、全国に多くの産地が形成された背景には、和紙に対する地域の需要が旺盛だったことが想像されます。日本では江戸時代まで、和紙は文字を記録する媒体だけでなく、日本画・版画・浮世絵の用紙や裏打ち紙、のし紙、包装紙、懐紙、祝儀袋など儀礼品、障子紙、襖紙など建築資材など多様な分野で活用されていました。

 とりわけ日本の気候風土と和紙との関係は大切で、その典型が建築資材として使われた和紙でしょう。日本の気候は夏の高温多湿が特徴です。日本人は古くから蒸し暑い夏をいかに過ごすかに悩み、住まいに様々な工夫をこらしてきました。鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活動した兼好法師(けんこうほうし)は随筆集「徒然草」に「家の作りようは 夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる 暑きころ わろき住居は堪えがたきことなり」と書き残しました。高温多湿という気候風土で発達した日本の木造住宅は、和紙を貼った障子や襖が組み込まれ、湿度が高いときには湿気を吸収し、湿度が低いときには湿気を放出する調湿機能を果たしていたのです。

 全国手漉き和紙連合会のHPをみると、関東では埼玉県小川町・東秩父村など比企地域の小川和紙、東京都あきる野市の軍道紙(ぐんどうし)、茨城県那珂郡山方町の吾介和紙(ごすけわし)、栃木県那須烏山市の烏山和紙(からすやまわし)、群馬県桐生市の桐生和紙、山梨県身延町の西島和紙(にしじまわし)など記載されています。「所変われば品変わる」という言葉の通り、和紙も産地が変わり、作り手が変わると同じ原料を使っても出来上がりの風合いが違ってきます。

 残念ながら近年の手漉き和紙生産額を表す統計データを見つけ出すことが出来なかったのですが、日本特産物農産物協会がまとめた和紙原料の楮、三椏の国内生産額をみると、1990(平成2)年から2024(令和6)年までの34年間に楮が81%、三椏も98%と激減していることが示されています。このデータから、地元原料を使った伝統的な手漉き和紙作りが一層衰退していることが想像できます。

国際的な評価を得た手漉き和紙職人

 手漉き和紙は日本の自然環境に生育した植物から抽出される繊維を人々の知恵と工夫が積み重なった手仕事により紙にしたもので、その品質と多様性は日本のモノ作りの原点とも言うべき価値があると私は考えています。世界でも日本の手漉き和紙に対する評価は高く、UNESCO(ユネスコ:United Nations Educational Scientific and CulturalOrganization)の「人類の無形文化遺産」として2009(平成21)年の島根県浜田市の石州半紙(せきしゅうばんし)に加えて、2014(平成26)年に岐阜県美濃市の本美濃紙と埼玉県小川町・東秩父村で作られる細川(ほそかわ)和紙、2025(令和7)年に福井県越前市で使うられる鳥の子(とりのこ)紙を「人類が守るべき無形文化遺産の代表的な一覧」に記載しました。

 ユネスコ世界遺産に登録された手漉き和紙の中で石州半紙、本美濃紙、細川紙は共に楮を原料とし、同程度の歴史を有していますが、それぞれに出来上がりの風合いが違います。原料の楮(こうぞ)が育った自然環境、おかれた社会環境が求める紙に対する需要、それに応えて工夫された繊維質の抽出方法、紙すき技法、されには職人自身の個性などが積み重なった結果でしょう。世界の無形文化遺産に指定された手漉き和紙の産地を聞くと、かつて旅人として歩いた地域の風景が脳裏に浮んできます。島根県西部の石見地方は赤褐色の石州瓦を使った家並みが続き、岐阜県南部の美濃地方は点在する焼き物業者、そして小川町は秩父山系の山々という具合です。ここで気になったのは、ユネスコの無形文化財に登録されたのが「小川和紙」でなく、「細川和紙」ということです。何故でしょう。私なりに考えてみました。

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小川町の細川和紙

 小川和紙に関する資料を読むと、小川・東秩父など比企地域では石見地方や美濃地方と同様に1300年ほど前の奈良時代から和紙作りが行われ、武蔵和紙として知られていたようです。比企地域の自然風土や人々の性格が和紙を作るのに合っていたのでしょう、農家が栽培する楮や三椏は出来が良く、良質な材料を使って作られる和紙は職人の技量も相まって利用者から評価を得ていたようです。

 1600(慶長5)年に徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸に全国から人が集まると、比企地域で作られる和紙に対する需要が急拡大しました。これに合わせて地域では楮や三椏など和紙原料の栽培が拡大し、手漉き和紙を作る工房も増えて大量の和紙が作られるようになり、江戸市民にも小川和紙として知られるようになりました。

 比企地域で漉き上げられた和紙は各種商業者の手を経て消費者に届けられましたが、作り手や売り手が増えると販売競争が起こります。販売競争を乗り越えて売り上げを確保するためには、他の事業者が扱っていない新商品を投入して客を奪うのが何時の時代でも変わらないのが商売の方策です。1700年代の江戸時代中期、比企地域の和紙工房に和紙の商人から細川和紙を作らないかとの提案が持ち込まれました。細川和紙は、紀州細川村(現在の和歌山県高野町(こうやちょう))で作られていた楮の繊維をすき上げた強靭な紙で、商家の大福帳、役人の帳面、掛軸の裏紙、和傘、提灯、紙器として使われていました。

 細川和紙の作り方が比企地域に伝えられたわけですが、具体的な伝達方法は分かりません。先に触れたように比企地域は、その時点で既に数百年の伝統を持つ和紙の産地でした。地域の工房が手掛けている和紙の種類も多岐に及び、和紙職人にとって細川和紙を作るのは取扱品目が一つ増えて程度の認識だったでしょう。幸い比企地域で作られた丈夫な細川和紙は、江戸消費者のニーズに合致して好評を獲得、他の紙より高い値段で販売されて比企地域を代表する和紙となりました。和紙作りは水温が下がる冬場に行われますが、冬場の比企地域は乾燥した天候が続き、青空の下に天日干しされる細川和紙は遠目から輝いてみえることから「ぴっかり千両」と呼ばれました。

小川町で作られた細川和紙(小川町HPより)

 江戸で評価を獲得した比企地域の細川和紙ですが、皮肉なことに細川紙を生み出した和歌山県の産地は衰退してしまいました。江戸時代の和紙作りにも厳しい浮き沈みがあったことを示しています。細川和紙の産地に明暗が分かれた要因を私なりに考えると、二つの要因があったように思われます。

 一つは立地の違いです。細川村(現・高野町)は海抜1千メートル前後の山々が連なる紀伊山脈の中にある地域で、京都や大阪など紙の大消費地から離れ、物資の流通にも苦労する地域です。一方の比企地域は、消費地の江戸からやや離れているものの、関東平野に程近く、河川を使った物資の運搬も可能で、和紙職人が作った和紙はそれ程間を置くことなく消費者に手元に届けることが出来る地域でした。

 もう一つは、細川和紙に対する安定した需要者の存在です。和紙に限らず各種日用品の産地が活動を継続するためには、職人や工員が作った製品を購入してくれるユーザーの存在が不可欠な条件です。細川和紙の製作を提案した和紙商人は、幕府の機関や寺社、商店などに各種用紙を納めており、その経験から細川和紙の販売についてある程度の目算を立て、目算が見事に的中したというわけです。その点、細川村では高野山に和紙の需要が集中して広がりが無く、京阪神地域の和紙工房との競争もあって採算を維持するのも困難となり、衰退を余儀なくされたのではないでしょうか。

 江戸時代後半、比企地域の和紙生産は細川和紙を含めて活況を呈しました。しかし、ユーザーの要求は時代と共に変化していきます。明治時代に導入された安価に大量生産される西洋紙は、瞬く間に日本の紙市場を席巻し、和紙を大量に使用していた木造住宅は、コンクリート造りのマンションや輸入材を使った4バイ4住宅となり、室内の温度・湿度調整はエアコン任せになって、建築資材としての和紙需要は大きく縮小してしまいました。

 和紙作りも工業化が進んで手漉き和紙に対する需要が激減しました。これは和紙だけでなく焼き物、織物、木工品など伝統工芸品に共通した事態ですが、その中で和紙は少し事情が違うと私は考えています。それは和紙が素材であるため時代変化に合わせた新たな需要が生れる可能性があることです。ただし、求められる和紙の姿かたちは変わります。楮の長い繊維が互いに絡み合うようにすき上げられ、その強靭さが特徴の比企地域で漉き上げられた細川和紙も、必ず新たな活用分野が切り開かれるでしょう。期待しています。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。