かつて東上線小川町駅から根古屋線という支線があった。終点根古屋付近で採掘される石灰石を東京の浅野セメント工場まで運ぶため東武鉄道が敷設した貨物専用鉄道である。線路跡は今は道路になりほとんど痕跡もないが、地元の郷土史家内田康男さんは、今年が同線開通100年に当たるのに合わせ『東武鉄道根古屋線の歴史―石灰石・砂利・一般貨物等の輸送―』と題する本を著わした。内田さんに、根古屋線の歴史についてご説明いただいた。


小川町西南部の根古屋荷扱所(腰越地内)まで4.3㌔㍍
―今年は根古屋線開通100年に当たるのですか。
内田 根古屋線は大正15年9月5日に開通し、今年9月でちょうど100年経過したところです。
―動いていたのはいつまでですか。
内田 昭和42年3月に廃止されました。
―根古屋線はどことどこを結んだ路線ですか。
内田 東上線小川町駅と町の西南部に当たる腰越の根古屋荷扱所を結ぶ、4.3㌔㍍です。小川町駅は大正12年11月5日に開業していますから、その3年後です。

―根古屋という地名には言われがありますか。
内田 戦国の頃根古屋城という山城がありました。根古屋という地名は中世の城跡付近によくある地名です。城に仕えた人たちの寝る小屋があったという説と、城山の根(ふもとの意味)に小屋があったという説があります。
根古屋線を敷設した理由は
―この路線はどのような目的で造られたのですか。
内田 当時日本の代表的なセメント会社であった浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)が、腰越に開設した採掘場から採掘した石灰石を東京の深川工場まで輸送するため東武鉄道が敷設しました。当時ほかの場所でも石灰石など輸送のために東武や浅野が鉄道を引いたところもありますが、ここは東武が積極的だったようです。
―根津嘉一郎社長の関わりは
内田 東武鉄道が敷設したので、当然根津嘉一郎社長の決断があったと思います。開通直後根古屋線に乗車し視察に来ています。
―小川の根古屋で石灰石が採掘されるきっかけは
内田 腰越付近に石灰石があることは古くから知られていました。特に根古屋城跡は石灰岩が露出する岩山だったようです。大正12年9月関東大震災が発生し、2カ月後の11月に小川町駅が開通して間もなく、浅野セメントの担当者が石灰石鉱床の調査のため当地に来て調査したところ、帝都復興のためにセメントの需要が見込まれると考え、鉱量は少ないが大震災後の帝都復興のため掘ろうと決めたようです。

―当時の浅野セメントは
内田 浅野セメントは日本のセメント会社では一番古い。明治17年、東京深川にあった官営のセメント工場を払い下げてもらい創業しています。現在「セメント工業発祥の地」の碑が建っています。
―深川工場までの輸送経路は
内田 工場は他にもありましたが、小川採掘場は深川工場の主力原料山の一つでしたので、深川まで運ばれました。東上線池袋駅から南千住駅(隅田川駅)まで行き、そこから船便で深川に運ばれたようです。
―石灰石は加工しないでそのまま貨車に積んだのですか。
内田 石灰石をクラッシャーという機械で細かくしてから貨車に積み込みました。
根古屋、槻川、大河の3カ所に荷扱所
―駅は根古屋だけですか。
内田 荷扱所(駅のこと)ですが、最初申請したときは根古屋だけでしたが、その後槻川(つきがわ)、大河(おおかわ)が追加され3カ所になりました。槻川では付近の河原から採取される砂利を積み込み、大河では一般貨物を扱いました。小川町駅から蒸気機関車が先頭で貨車を牽引してきますが、大河で蒸気機関車を後尾に入れ替え、そこから根古屋まで後押し運転をしていきました。大河にはその入れ替えるための側線がありました。

―旅客は扱わなかったのですか。
内田 敷設申請書に添付された埼玉県知事の副申によると地元は旅客の運輸も希望していたようですが、実現しませんでした。大河ではこの地方から産出される蛇紋砕石や鉄平石、枕木用の松材などを搬出したり、一方で付近の木材建具業者のため遠くから秋田材を、製紙業者のため福島から製紙原料などを取り寄せてここで降ろしたり、一般貨物の発着も扱いました。
昭和30年からは日高町まで、34年から国鉄から機関車借り入れ、最後まで蒸気機関車で走る
―蒸気機関車で深川までは行かなくなったわけですね。
内田 昭和14年、浅野セメント深川工場閉鎖後は、社外売鉱となりました。昭和30年に日高町に日本セメント埼玉工場ができると、小川の石灰石は根古屋線から八高線経由により同工場へ持って行くようになります。
―最後まで蒸気機関車ですね。
内田 最後まで蒸気機関車です。東上線の客車は昭和4年に電化され、貨車も昭和34年に無煙化計画で蒸気機関車は使われなくなりました。そのため、それ以降は国鉄(八高線)から蒸気機関車を借り入れて運行しました。
根古屋線で走っていた東武の機関車39号機は、34年以降東武佐野線で使用され、昭和41年引退後は東京の高校で展示されていましたが、現在は三重県の貨物鉄道博物館で保存展示されています。


―根古屋線の運行本数と牽引した貨車数はどのくらい。
内田 昭和17年の時刻表によると一日3往復。戦後東武の蒸気機関車当時は2往復で5、6輌ずつ、国鉄の蒸気機関車になってからは1往復で15輌くらいだったようです。
―石灰石を積んで坂道を走るのは大変だった。
内田 小川町駅と大河荷扱所の間にちょっとした坂があるのですが、貨車数が多かったり、雨の日などは登りきれないで戻ってくる。一番多い時は7回、1キロくらい戻り、勢いをつけて再度登っていったそうです。
昭和11年からは皆谷鉱山から根古屋まで空中索道(ロープウェイ)で搬出した
―廃止は何が理由ですか。
内田 浅野セメントは昭和11年根古屋付近からの石灰石採掘をやめ、同年槻川村(現東秩父村)に新たに皆谷(かいや)鉱山から石灰石採掘を始め、そこから根古屋まで4.8キロを空中索道(ロープウエイ)により搬出しました。その皆谷鉱山の石灰石が枯渇したため昭和42年3月根古屋線は廃止されました。

―廃線になった線路はどうなったのですか。
内田 線路の跡は東武から町に寄付されました。その後町は道路として整備しました。地元では今でも「根古屋線」と呼んでいます。

―荷扱所の跡は。
内田 跡地はわかりますが、建物などは一切残っていません。荷扱所の位置や様子などが今回正確に把握できたので、今後に伝えていかなければならないと思います。

子供達は学校裏の坂を登るのに苦労する機関車を応援した
―地域にとって根古屋線は何だったと言えますか。
内田 根古屋線は、主に石灰石輸送という役割を最後まで続けましたが、大河からは地域の石材業、木材建具業、製紙業など様々な産業の振興に大きく寄与したことも忘れられません。そして地域の人達にとっては思い出の多い愛着のある鉄道でもあったようです。よく語られるのは、小学校や中学校在学当時、学校裏の坂をあえぎながら登っていく蒸気機関車の姿に自らを照らし合わせて心の中で応援したこと、生徒達が蒸気機関車の動きに関心がいってしまい教師が授業を進めるのに苦労したこと、ときどき登り切れずに戻っていき再度勢いをつけて登っていったこと、ときには煤煙のため坂の土手の草に火が燃えついて消火作業をすることもあったことなどです。また、朝の通勤通学の時間帯に根古屋付近の踏切では15分位待たされ、学校裏の坂が登り切れるまで付近の踏切も待たされるという迷惑な思い出もあったようです。そのほかに石灰石搬出のための空中索道(ロープウエイ)も懐かしく思い出されるようです。こうした地域の人々に多くの思い出が残されている鉄道の足跡を今まとめておかなければ将来わからなくなってしまうと思いまとめてみました。当時の写真も多数掲載して読みやすいように工夫しました。

―今回これをまとめるのに時間がかかったのではないですか。
内田 私の郷土史研究は57年目くらいになりますが、様々なテーマについて研究を並行して進めてきており、根古屋線に関しては平成23年頃から本格的に文献調査や聞き取りを始めました。なかには100歳になる方もおられ、昭和初期の様子も把握できました。
「懐かしき小川町」の講座資料をもとに再調査しまとめている
―内田さんのご経歴は。
内田 私は昭和30年に生れ、49年に小川町役場に就職、途中で町史編さん担当もしながら平成27年に退職しました。その後は小川町民会館からの依頼で10年間「懐かしき小川町」の講座を開き、その資料としてまとめた内容をさらに充実させるために再調査したうえで、昨年から順次冊子としてまとめています。今回の根古屋線は第7集になります。これまで関係機関や大勢の方に協力いただいているので、恩返しする意味もあります。テーマはいっぱいあり、次は小川絹織物業の歴史をまとめています。
これまで発行した『懐かしき小川町』シリーズ
第一集 『名産小川素麺の歴史』(令和7年)(A5判71頁)
第二集 『風船爆弾と小川和紙業』(令和7年)(A5判121頁)
第三集 『小川町における準遊郭の歴史』(令和7年)(A5判33頁)
第四集 『穴八幡古墳と穴八幡宮』(令和7年)(A5判55頁)
第五集 『小川町における花柳界の歴史』(令和8年)(A5判79頁)
第六集 『太平洋戦争末期の軍隊駐屯と地下壕構築等』(令和8年)(A5判101頁)
第七集 『東武鉄道根古屋線の歴史』(令和8年)(A5判111頁)

風船爆弾と小川和紙業

―風船爆弾についてもまとめられた。風船爆弾と小川町はどう関わっているのですか。
内田 小川では風船爆弾(ふ号兵器)に使われた気球部分に使われる極めて薄い和紙を漉きましたが、その漉き方の開発当初から全国で一番長く関わりました。昭和8年頃に東京蒲田の国産科学工業研究所の近藤至誠という元軍人から東京の和紙問屋小津商店を経由して小川の和紙問屋新井商店に依頼があり、同商店から2軒の紙漉き家に極めて薄く漉く方法を開発させました。近藤は昭和11年に和紙をこんにゃく糊で数枚貼り合わせ、アルカリ溶液中で煮沸し、グリセリンの混合液に浸すと柔軟気密な柔軟紙ができる方法を特許登録しました。その後も気球紙は全国唯一小川だけで漉いていましたが、昭和19年に軍部から気球一万個整備命令が出され、全国7県11産地で漉くようになりました。引き続いて小川では一番大きな判を漉きました。19年11月から太平洋沿岸の3地点から本格的に飛ばしました。当初は1万5000発の予定でしたが、実際の発射数は明確ではありません。アメリカ本土へ約1000個は到達したと推測されています。
―内田さんの研究で新たにわかったことがあったのですか。
内田 戦時中小川地方では紙漉き屋が558軒位あった。これまでそのうち何軒が気球紙を漉いていたのか等基本的なことがまったくわからなかった。そこで小川和紙工業協同組合の資料をすべて見せていただいたところ、共同作業といって設備の整っている家168軒に集まって1215人(男266人・女949人)が漉いたことが記録されている資料が発見されました。さらに紙漉き経験者の徴用解除が行われたこと、深夜作業のため食糧の特別配給が行われたこと、原料の楮加工に地域住民が動員されたこと、紙漉農家に気球紙製造に集中してもらうため農作業手伝いに中学生が動員されたことなど、地域をあげて気球紙増産に取り組んだことが詳細にわかりました。そのほか、長く地域の聞取り調査を進めてきたところ、気球紙の貼り合わせ工場も新たに数か所把握できました。冊子発行後、新聞報道されましたので、全国から購入の問い合わせがありましたが、中には実際に東京の日本劇場で気球紙を大きく貼り合わせる作業に動員された方から連絡をいただき、早速聞取り調査を行いました。冊子残部がなくなりましたので、現在それらの内容も加えて増補改訂版を発行すべく準備しています。
(取材2026年10月)
内田康男さん 連絡先 0493-73-1559
Email ajyvl71422@yahoo.co.jp(ajyvlの次はLの小文字です)
(各冊子印刷実費800円=送料別にて頒布)
