(再開発事業を通して触れ得た川合市長)
1.川越駅東口再開発事業を仕上げた川合市長

(1)「圓山さん、よくやってくれました」の言葉に感激
▽第3セクター設立担当主査を拝命
平成2年(1990年)5月14日、川越駅東口再開発事業の核施設である再開発ビル/アトレが完成した。再開発事業としては着手以来、18年を費やした事業であった。
当日、再開発ビル/アトレの地下駐車場で挙行された完成式典後、同会場を衣替えして行われた祝宴までの間に時間が生まれ、その間の時間繋ぎで川合市長が社長もしていた川越市出資の第3セクター/㈱川越都市開発(再開発ビル管理会社)の一室で川合市長と二人になることがあった。
その際、「圓山さん、よくやってくれました、ありがとう」と慰労の言葉を掛けて頂いた。川合市長はこの間の私の仕事ぶりを見てくれていたのだと感激した。
私は昭和62年4月の人事異動で川越駅再開発事務所/第3セクター設立担当主査を拝命し、再開発事業(*注1:参照)の最後の段階で事業の一端を担い始めた。
詳細は省くが異動当時の再開発事業の局面は、事業の最終段階である権利変換計画の認可を得て再開発ビルの着工、そして完成オープンに至るためには、より一層関係地権者等の理解と協力が不可欠となっていた。そのため川越市は完成後も共有床として権利変換した床(資産)の保全面も含め、責任をもって再開発ビルの管理運営に関与することとし、その一環として近隣類似の市施行の再開発事業同様、第3セクターの設立を当事業完成の着地点としたのである。
異動し上司の竹ノ谷秀次・再開発事務所長からは、年内に工事着工をしていくためには、第3セクターの再開発ビル管理会社はできるだけ早くできればと言われ、出資する予算は確保してあるということで、ニュアンスとしては半年ぐらいでできないかということであった。
*注1:再開発事業とは、低層の木造住宅等が密集した地区の都市基盤整備事業で、都市防災を図り、快適な都市空間を生み出すための都市計画事業である。事業手法としては縦(たて)の土地区画整理事業とも言われ、従前の土地所有権及び借地権を従後の高層化した施設建築物の中の区分所有権に置き換えることを主眼とする。この所有権の変換を権利変換というが、これは土地区画整理事業の手法の換地に該当するものである。土地区画整理事業では、換地計画の認可、公示で市などの事業施行者は道路等の造成工事の着工が可能となるが、再開発事業の場合、権利変換計画の認可、公示をもって施行者は高層の施設建築物の建設着工が可能になる。
▽無手勝流で第3セクター設立に突っ走る
再開発事務所ではほぼ当初から担当してきた川野栄・次長補佐の適切な助言を受けながら、一人職員を付けてもらいとにかく動き出した。先進事例の浦和市や所沢市などの第3セクターを視察し、会社設立関係の本を読み、しゃにむに関係者の間を動き回り始めた。スケルトン(躯体構造物)や甲・乙・丙の工事区分、ストアコンセプト(店舗全体を貫くイメージ)やMD(マーチャンダイジング/販売企画、売り場づくり)など、建築工事や店舗づくりの専門用語の感覚、感触として掴んでいくため、いろんな人間に会っていった。
庁内トップ(市長、助役)から庁内各課、そして地権者協議会、委託先コンサルや核テナントの担当者まで極めて協力的というか向かう方向が一緒だったこともあり、無手勝流で臨んだ会社設立は同年10月31日に設立登記することができた。川越市初めての第3セクター/川越都市開発株式会社(資本金1億円、川越市出資分48%)が生まれたのである。翌年4月からは身分、処遇も川越市東口再開発事務所付(給与は市持ち)ではあるが、川越市出資の株式会社に出向派遣の形となり配る名詞も川越都市開発㈱総務課長となった。とにかく突っ走って当面の目標の会社設立には辿り着いた。
再開発ビルの着工後は時間との戦いが始まり、市の商業核に相応しいストア・コンセプトの出店地権者への徹底、共有床となっている商業店舗部分の床配置の決定、共有床内の工事区分、更に市が公表している市内商業者に対する一般公募店舗の募集、そして共有床管理のシステム構築も含み込んだ管理会社自体の経営計画の立案など、次から次と出てくる課題に追われていった。
当然そこには市サイドが委託している再開発コーディネーター及び商業コンサルタントや、核テナントの出店準備室長以下の専門家やテナント管理の職業集団が知恵者というか企画提案者として存在し機能していた。しかし対外的には、第3セクターである管理会社の川越都市開発㈱が前面に出て仕切り、纏めていかざるを得ない立場に置かれていた。
そのようなこともあり、次々と押し寄せる商業・業務ビルである再開発ビルの管理会社の立場を意識しての関係地権者(銀行等業務区分所有者も含む)や核テナント、そして再開発事業の施行者である川越市との折衝協議はいつも刺激的なもので、少しも気が抜けなかった。和して同ぜずの実践の場であった。
そのようなことが日々連続するうちに、本来、第3セクターの設立目的は市施行の再開発事業の地権者等関係者に対する、川越市としての再開発ビル完成後も資産保全面等での責任担保の側面が強かったのであるが、動き出してみると当会社はそれなりの存在価値がかなりあることに気付かせられていった。
私にとって再開発ビル完成にまで至る3年余りの仕事/職務は、若いからこそ凌げた心身ともに頑張りぬいた時間であった。そこには川越市役所総体のみならず、関係者全体のまとまりが機能していた。今はその一端を担えたことを誇りに思っている。
ここでもう一度川合市長に思いを馳せれば、常に部下を信認し、陣頭に立ち当事業を引っ張って来た川合市長にとっては、当再開発ビルの完成オープンは万感、胸に迫るものであったのであろう。
川合市長から完成式典後の合い間に掛けて頂いた「ありがとう」の言葉はそのようなことを感じさせる言葉であった。と同時に、川合市長は当事業に関わっている一人一人を見てくれていたのだなと感激させる言葉でもあった。
(2)昭和42年の「密集市街地街路調査」が再開発の発端
川越駅東口再開発事業の完成までの経緯を川越市編集発行の当再開発事業誌「時 世」(平成3年3月発行)によって体系的に述べれば、次の通りとなる。
当事業の発端は、前市長の加藤瀧二市長時代の昭和42年度に建設省都市局長より川越市に委託された「密集市街地街路調査」に端を発している。
当報告書のまえがきで、加藤瀧二市長は「川越市の人口は最近急激に増加しておりますが、都心から40㎞放射線状にのびる交通路線と、東京環状線である16号国道との交差点に位置する立地条件から、将来副々都心的な周辺の拠点都市としての発展が期待されます。しかしながら、本調査地区の現況を見てみますと、東口は不良密集地区であり、西口は少年刑務所が駅前に近接し、木造低階層の住宅、工場が多く何れも発展する川越市の玄関口としてはふさわしくない状態にあります。そこで刑務所移転が決定した現在、川越市の玄関口にふさわしい姿を描き出し、その実現の方向を示そうとしたのが、この報告書であります。」と記し、「この報告書は、川越駅前地区再開発のための一つの提案であります。……今後この計画を基礎に、更に綿密な調査研究と、市民各位の創意を加え、近代都市建設のため、川越関周辺の再開発を、一日も早く実現させたい所存であります。」と結んでいる。
このことが契機になり川越市としては、「昭和47年4月に都市計画部都市改造課の中に川越駅東口再開発担当が配置され、同年、当事業が国庫補助事業として採択」されるに至ったわけである。ここが川越市の再開発事業としては着手の日とすれば、それ以来まさに18年を費やした事業であった。
「昭和49年10月に都市計画決定した後も、オイルショック等の社会経済環境の影響もあり昭和52~54年頃は実質的には事業凍結」を余儀なくされたこともあった。
昭和56年1月、前任の加藤瀧二市長が退任し、新市長の川合喜一市長が誕生した。川合市長は選挙公約(*注2:参照)として川越駅東口再開発事業の推進を掲げていた。難問山積でもあった当事業に心機一転取り組み始めたのだった。
*注2:埼玉新聞、昭和56年2月4日/川越市長選、三人の候補者にアンケートから
川合喜一氏の個所から一部抜粋
質問内容…当選して最初に手掛けたい事業
回答内容…川越駅東口再開発と、これに関連した新しいまちづくり。
▽付記(圓山)…当質問項目に対し、川越駅東口再開発と具体的に明記した候補者は川合喜一氏以外にはいなかった。
事態は時間の流れの中で、大幅に計画内容を見直さざるを得ない局面になっていた。「変化する市民ニーズや周辺都市との競合関係等を踏まえ、駅前広場や施設建築物の配置見直しを含め、昭和59年6月に都市計画変更」に踏み切らざるを得なかったのである。その背景としては、自動車保有率の向上等による駅前広場や駐車場施設のあり方の再検討や、都心に近い立地の商業環境を生き抜く都市型百貨店/核テナントのコンセプトを十分に活かした再開発ビルにしていくことが求められていた。
殊に都市型百貨店として川越の集客力を高め、県西部圏域の客層の都心流失を防いでいくことが本来的使命でもあった核テナント・丸広百貨店の意向をどう反映して、地権者協議の場に臨んでいくかが、最大の重要事項になっていたのである。
その後、これら諸課題を乗り越えるため、関係地権者との協議をあらゆる角度から繰り返すことで、「昭和61年6月に再開発事業の最後の山場である事業計画(施設建築物の設計内容、資金計画等)も告示」され、「昭和62年11月、工事着工へ向け最後の詰めである権利変換計画(施設建築物内の区分所有床配置計画)の縦覧、認可も経て昭和63年2月、再開発ビルの起工式」に辿り着いたのであった。
地価高騰の激しいバブル経済の中での工事着工であった。工事の進捗に併せての仮設店舗の移設や駅前広場及び地下駐車場の建設と折り合いをつけての駅前仮設道路/バス進入路の切り替えなど、大変な工事の連続であった。これら工事も円滑にこなされ、平成2年の春季の5月半ばに再開発ビル/アトレはオープンしたのであった。
(3)川合・市会議員が市助役となり再開発事業を担務した
川合市長と川越市東口再開発事業とのかかわりを見ると、前任の加藤瀧二市長の有力な支援者であった市議会議員時代も含め、加藤市長の意を受け事業の節目で動いていたことがわかる。
昭和48年12月末に助役に就任して以来、特命事項として川越駅東口再開発事業を担務し、都市計画決定、地元意向の集約、核テナントの内定などぶれずに着実に事業の進捗を見守り図って来た姿がある。
そして昭和56年2月の加藤市長退任後の市長選では、川越市東口再開発事業の推進を掲げて当選、再開発事業着手以来の時間の経過と経済環境変化を受けて余儀なくされた都市計画決定の変更等々、いくつもの山場を根気よく静かに乗り越えてきた姿がある。
川合市長の経歴を見ると、昭和48年9月の市長選で前任の加藤瀧二市長が3期目の当選をした後、加藤市長が懸案事項を推進するべく、同年12月市議会に当時市議会議員であった川合喜一氏を二人目の助役として提案し議会同意を得て助役に就任したのであった。川合喜一氏は1917年4月生まれで助役就任時は56歳であった。
当時の私は市役所入所2年目で社会福祉事務所に所属し生活保護のケースワーカーをしていたが、庁内の事務連絡で内部事務全般は先任の渋谷庄次助役が担務し、川合喜一・新助役はできて間もない市民サービス部及び同和対策室関係のみで、それ以外は特定事務を担当するということを知らされた。職場では川合助役は数期にわたる市議会議員で熱心な加藤市長の支援者であり、そういうこともあり助役になったのではないかと話題なったことも覚えている。
その後数年経ち、私も昭和51年4月に企画課に異動し1,2年たった頃、川合助役は、川越駅東口再開発事業及び埼玉医科大学付属病院の川越市鴨田での新設問題を担当していることを知った。どちらも将来の川越市にとって最重要の行政課題であった。
特に川越駅東口再開発事業に限れば、昭和52〜53年頃は経済環境も悪く当再開発事業の見通しも立てられず苦境の中にあったわけである。その際、一つの突破口として事業進捗に向けては何としても再開発ビル/大型商業ビルの核テナントの早期決定が課題としてあげられていた。そこには凍結とも言える状態にある事業を継続活性化していく観点からも、また地権者協議会や地元商店街からも核テナント選定の要望が川越市に寄せられていたこともあった。
昭和53年に入り、川越市も庁内に核テナント選考内部協議会を設け、困難ではあるが関係諸団体の意向や進出希望事業者の把握堀起こしに努め、昭和54年4月、核テナントとして地元百貨店の丸広百貨店の内定に漕ぎ着けたのであった。この調整、結論付けのプロセスを仕切ったのが、加藤市長から特命事項として所管していた川合助役であった。
昭和49年の都市計画決定の時以来、進出、出店を働きかけた都心の既存百貨店や大型スーパーなどから色よい返事を得られず、結果として核テナントも決まらず時間が経過してきていた。やはり川越の表玄関の商業核は百貨店でなければならない、それも川越で時代の先端を行く都市型百貨店を展開してくれるのは都心部外に本店のある百貨店の雄である丸百貨店にしようということで、核テナント問題の方向付けをしたのであった。
この核テナント確定の結果については、川合市長は助役時代に関与した信義則を堅持した。その後、バブル経済とも言うべき時代が来て、保留床の価格等で高条件を提示し核テナントの見直し等のゆさぶりをかけてきた商業者が表れてもぶれることはなかった。再開発事業の遅れの間も施行者の川越市と一体となって動いてくれた核テナントに感謝の言葉を述べていた。
圓山壽和(まるやま・としかず):地域サロンコーディネーター、川越市在住。
随想/人生何があるかわからないし面白い(7)我が師・川越を知り抜き、自助の人だった川合喜一市長 目次
(再開発事業を通して触れ得た川合市長)
1.川越駅東口再開発事業を仕上げた川合市長
(1)「圓山さん、よくやってくれました」の言葉に感激
▽第3セクター設立担当主査を拝命
▽無手勝流で第3セクター設立に突っ走る
(2)昭和42年の「密集市街地街路調査」が再開発の発端
(3)川合・市会議員が市助役となり再開発事業を担務した
(市役所職員として仕えた目から見た川合市長)
2.市長選立候補の言葉で貫かれたまちづくりの姿勢
(1)総合計画を係長全員の参画で骨肉を形成させた
(2)出るべきタイミングの時には自ら動いた
(3)利権とは全く無関心というか関与しなかった
(人間のあり方として魅かれる川合市長)
3.起案書に静かに目を通し部下を見守る姿には威厳があった
(1)淡々と練られた言葉で語り自助の精神を説いた
(2)市民、事業者、広域圏に配慮し固有名詞を大切にした
(3)なすべきものはなして去って行った
