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随想/人生何があるかわからないし面白い(6)我が師・真善美の古武士だった加藤瀧二市長(下) 圓山壽和

3.加藤市長の実績/人口急増期の川越市の課題に安定して対処

 私の市役所生活で加藤市長の期間は、昭和47年4月から昭和56年1月までの9年10か月であった。新採用時の社会福祉事務所で4年間、企画課で5年10か月、そのうち同課広報係で2年3か月、課内異動して同課事務管理係で3年7か月、そして最後の昭和55年8月からの6か月は事務管理係長として仕えた。

 私自身はその後、平成19年/2007年3月の定年退職まで川越市役所に居させてもらった。その間、計7年間居た企画課を出た後、環境整理/廃棄物処理、道水路敷の土地管理、都市計画/再開発・区画整理・新規計画策定、更に教育委員会/小中学校・市立高校の施設管理・事務管理、生涯学習/大学連携など多様な職種にかかわらせてもらった。

 ここでは行政のプロを自認していた加藤市長が、昭和40年9月に前任の伊藤市長を引き継ぎ、ほぼ同時期に始まった人口急増期の川越市の課題を安定して対処していった姿を述べておきたい。

 昭和40年から始まった人口急増期の行政需要の増大に対し、それに見合った柔軟な行政手法を淡々と開発導入し、多様な市民サービスを低下させることなく提供していった力量は認めざるを得ない。

 (1)行政手法に精通し財政健全化を達成

 我が国の地方分権を語るときほぼ一貫して、その地方財政の貧困さ、特に財源不足の法的不備が指摘されてきている。一方、戦後復興、そして所得倍増を掲げた経済成長期、更にオイルショックを経ての安定成長経済への移行期にあっては国、県、市町村一体となった経済政策が有効であったことは事実であった。

 そう言う状況下では県・市町村等の個々の自治体が地方財政制度の不備を盾に自らの行政執行の不十分さを国からの財源移譲不足にしていても仕方のないことでもあった。その点、川越市の加藤市長は地方政府/地方分権としての自主的行政執行権を活かし、市議会や各種関連業界団体、更に労働組合等とも対峙、協議し、多様な行財政管理手法を開発し取り入れて、健全財政を確保していった。

 私は企画課広報係及び事務管理係時代にこのことを知り、加藤市長の自負する行政のプロとしての目の付け所に感心したことがあった。

 先ず加藤市政時代の昭和40年代初頭から50年代半ばの頃、川越市の財政は健全で、昭和50年前後の公債費比率(歳出における借金返済率)は平均して3%前後(*注3/参照)で、全国の市の中でもその低さがトップ層に位置していたことを知らされた。

 昭和30年の隣接9か村との市町村合併により、川越市の人口は2倍の10万人に、面積は6.5倍の110平方キロメートルになった。戦後の学制改革による新設中学校の建設費の増大や地方財政の構造的弱さの露呈などが累積し、合併後の昭和30年代初頭には赤字再建団体に陥り、財政再建に取り組まざるを得ないこともあった。

 加藤市長の就任した昭和40年は人口急増期に入った年で、昭和44年から昭和50年にかけては毎年の人口増が1万人(年間増加率6~7%台)を超える人口急増で、地価高騰やオイルショックという経済的激動の時代であった。

 小・中学校や保育園の新増設、老朽化した本庁舎の全面建て替え(昭和47年)、川島町と川越地区消防組合の設立(昭和48年)と同消防庁舎整備(昭和49年)、市営火葬場の全面改修(昭和51年)、ごみの全焼却を可能にした西清掃センターの建設(昭和53年)など、対市民、対議会との関係で安定感をもって進めた行政は評価に値する。

*注3…昭和51年度当初予算での公債費比率は3.6%、同じく昭和52年度は3.4%である。なお、加藤市長は川越広報・昭和52年1月10日号掲載の年頭のごあいさつで、昭和51年10月19日の日本経済新聞の記事/全国各市の債務負担能力に触れ、そこで川越市が全国の10万以上の市174市の中で第4位であることを引用し、川越市の財政が揺るぎないことを述べている。

(2)調和のとれた土地利用計画を堅持し民間委託を推進

 加藤市政は、前任の伊藤市長が掲げていた「農商工のバランスのとれた都市づくり」を継承し、市街地整備地域と農用地保全地域のバランス(3:7)を堅持した土地利用計画である「川越都市計画市街化区域及び市街化調整区域の決定」を昭和45年5月に行った。 

 昭和30年の合併により広域の市域を確保できたこともあり、首都圏の各市に比較し既存市街地を旧市街地に絞り込んだ市街化区域の決定となった。旧隣接9か村区域には、現行の農用地としての土地活用を前提とした上で、将来に向けて公共・公益施設用地の活用も含め計画開発また面的整備を必要とする市街化調整区域を大幅に存置した。

 首都圏の類似市と比較し市域が広いことを活かし市街化区域の比率は低くし、環境保全区域でもある市街化調整区域を外延部に配置し、調和のとれた土地利用計画を堅持した。

 人口急増に伴う喫緊の需要増大に対し、加藤市政は法的に課せられている義務的行政サービスの確保に知恵を絞っていった。ごみ/廃棄物処理(収集業務及び施設運営管理)の民間委託推進や開発公社による小・中学校等の公共施設建設、更には保育園の拡充面では市立のみならず社会福祉法人立の保育園の設立も視野に入れ、その拡充支援を推進した。

 特に評価に値するのは、政府の人事院勧告を遵守した給与体系のため、廃棄物、いわゆるごみ収集事業における現業職員、同じく市立保育園の増設に伴う保育士増員に伴う人件費比率の拡大からくる財政逼迫に対処するため、ごみ収集事業の民間委託、及び社会福祉法人立の民間保育所の新増設を推進したことである。

 ごみ収集の場合は、市内の廃棄物処理業者の方々に処理組合の設立を働きかけ、当該組合に市からのごみ収集を委託した。また保育園の場合は、新設に伴う国・県からの補助金に併せ市からも応分の支援をして、保育事業に思いのある市民/事業者に社会福祉法人立の設立を促した。

 加藤市長は財政健全化のため、就任とともに行政サービスの提供におけるコスト意識の喚起を職員に呼びかけ、可能な限り定型的業務の民間委託を徹底していった。

 人口急増(*注4・参照)の時代であった。それに伴う地方自治体としての義務的行政需要の増大と、高度経済成長に伴う地価高騰と土地開発優先の時代であった。それに対し加藤市長は、まちづくりの基本に都市経営と行政指導を基軸に置き、健全財政を保持し、都市環境/土地利用の蚕食/スプロール化を防ぐという姿勢を堅持していた。

 加藤市長は市民会館での仕事始め式や年度当初の職員訓示で、市職員を前に「小市長」としての自覚を促し、多様な課題の掘り起こしとそれへの行政手法の開発を促した。「真善美」の実践の何たるかを述べていたのであろう。今はそのことがわかる。

*注4…加藤市長が就任した昭和40年/1965年(10月1日)の人口は127,331人、そして退任した昭和56年/1981年(10月1日)は259,341人である。在任中の16年間で人口は203.6%増と2倍以上になっていた。まさに人口急増期の川越市長であった。

 その後9年かけて平成2年/1990年(10月1日)に30万人台に載り、令和7年/2025年(10月1日)現在は352,670人であるが、ここ数年はほぼ横這いである。

(3)都市経営及び行政指導の視点で展開された具体的事例

 ここでは、私が企画課から異動し廃棄物処理の環境整理課を経て、いわゆる技術畑の道路、水路敷の管理や学校建設、そして都市計画分野を担当した時に肌身で感じた、加藤市長の都市経営面での行財政管理手法の具体例を記しておきたい。

 これらまちづくりの中に生きている行政指導や自主的施策判断が、土地利用におけるスプロール化(虫食い蚕食化)を防ぎ、財源の効率化をもたらし、街の活性化に寄与していったことは明らかである。

ア)土地の農地転用の際、接道部分の道路中心線から2m後退部分を市へ寄付する行政指導を徹底した。併せて建築確認業務が県から市へ移譲された際、接道部分の道路中心線から2m後退部分を市道として無償使用する旨の行政指導も開始した。 

イ)小中学校の新設時には、国庫補助金を弾力的に活用し、体育館と公民館を合築し生涯学習施設の整備を推進した。 

ウ)川越駅西口の川越少年刑務所の大東地区への移転(昭和44年)を完了し、課題であった川越駅周辺整備の種地/市有地を確保できた。これにより昭和52年度に川越駅西口区画整理事業第1工区(駅前区域)が完成し、昭和56年度には川越駅東口再開発事業第2工区(日本住宅公団に委託した住宅付設の再開発ビル・マイン)が完成した。

エ)懸案であった川越城本丸御殿の修復や市民の保存運動に応え旧万文の取得(現蔵造り資料館の開設、昭和52年)など文化財保全への理解を示した。 

オ)騒音、排水で苦情のあった住工混在地域の解消と敷地拡張が困難な既成市街地の工場の需要に応え、県企業局と提携し芳野台・川越工業団地を造成(昭和56年)した。

 (4)それまで出会ったことのない大きな人物であった

 加藤市長が行政手腕を発揮した裏には、戦前戦中、内務官僚として各県の経済部長や内務部長等を経て来たことがあった。一国一家を任されている古武士の矜持を感じた。「真善美」を説き、「君たちは小市長なのだ」と諭す声には背筋をピンとさせる響きがあった。

 戦後の民主化で法制化された地方自治の何たるか、即ち地方政府そしてその首長としての市長の権限を熟知していた。地方自治法を咀嚼し、行政の裁量権を活かし、押し寄せる行政課題、市民需要に対し、市場経済下の地方自治体の行財政運営における事業手法を積極的に開発取り入れ、超然と小市長たる部下/職員を鼓舞し率い、鍛えていた。

 上司などの話も含め私の記憶するところでは、加藤市長は国・県へ陳情等で赴いたことはなかったのではないか。市に与えられていた資源/財源確保、権限/守備範囲、そしてパートナーとしての市民、企業人を視野に入れ、平凡が一番をモットーに課せられた仕事/行政を確信をもって推進していた加藤市長の姿がある。

 加藤市長4期目の最後(昭和55年の晩秋)にも、企画課事務管理係長として上司とともに市議会に提案する組織改正条例の説明で市長室に出向き、加藤市長と直接言葉を交わす機会があった。

 加藤市長は糖尿病から視力も落ちていた。市議会への提案説明文を読み上げると、加藤市長は大きな字に清書した説明文に目を落とし、途中で「これで良い」と言い、後は任せた「頼むよ」というふうに顔を上げこちらを向き頷き、その場は終わった。ワイシャツを捲り上げ健康を誇示し、「奔馬」を説く加藤市長の姿はそこにはなく身体が大儀であった。その後、収入役の汚職事件もあり、任期を残し昭和56年の年明けに辞職した。

 川越市の持てる資源/資産に着眼し、将来への軌道を間違わないよう地方政府の権限を使った市長であった。それまで出会ったことのない大きな人物であった。暖かかった。

 私の長女が通った、市内宮元町の浄土真宗真行寺内のルンビニ幼稚園の武田園長と同郷で親しかったとのこと。小さくして亡くなったお子さんのことを話した時の加藤市長の顔が思い出される。

 涙が出てきた。私は川越市役所に入り、人生で我が師と呼ぶべき初めての人と出会ったのだった。「君には渡さない」、「それでいい、頼むよ」が聞こえる。私は加藤市長の期待に応えられたのか。合掌。

圓山壽和(まるやま・としかず):地域サロンコーディネーター、川越市在住。

随想/人生何があるかわからないし面白い 我が師・真善美の古武士だった加藤龍二市長
        目次
1.加藤瀧二・川越市長との出会いの記/印象記
(1)(かつ)を入れられた新採用の辞令交付式
(2) 印象に残る場面/組合交渉の場で耳を傾ける姿
(3)印象に残る言葉/「奔馬(ほんま)の奔はほとばしっていることだ」
2.市役所就職の顛末/自由過ぎた大学生活からの脱出
(1)市役所への気持ちの傾き/市民社会の現場・接点
(2)生き方のバックボーン/市民社会の一員
(3)市役所の就職試験/どこも気持ちのよかった面接
3.加藤市長の実績/人口急増期の川越市の課題に安定して対処
(1)行政手法に精通し財政健全化を達成
(2)調和のとれた土地利用計画を堅持し民間委託を推進
(3)都市経営及び行政指導の視点で展開された具体的事例
(4)それまで出会ったことのない大きな人物であった