2.市役所就職の顛末/自由過ぎた大学生活からの脱出
(1)市役所への気持ちの傾き/市民社会の現場/接点
昭和47年(1972年)4月、東京大学文学部在学中、大学闘争に関与し2年遅れて卒業し、生まれ育った小川町から程よい距離にあり、県立川越高校時代に通った地・川越の市役所に就職した。これは自由過ぎた大学生活からの脱出であった。東大入学当初には卒業後、川越市役所に居場所を求めるとは想定していなかった。そこには東大闘争が介在していた。
若干この間のことを述べれば、本郷キャンパスの専門課程(国史学科)に進学した大学3年/1968年の初夏に、安田講堂占拠となった医学部闘争は研修医制度の改革に端を発していた。青年医師連合による「事実誤認の学生処分」に対する異議申し立ての安田講堂占拠に対し、大学当局のとった大学の秩序回復/警察機動隊導入により学内の争点が沸騰し、闘争グループによる安田講堂再占拠がなされ、一挙に闘争形態が全学に拡大した。
立て看板等でなされる「闘争に無知で無関心であること自体が許されない」という問い掛けは、大学で学ぶものにとって知識人の卵としての生き方そのものを問うものであった。
時代背景としてベトナム戦争の激化があり、この問い掛けはベトナム戦争に対する個人のあり方にも繋がるものであった。「今の大学のあり方、そしてそこに取り込まれている自分を問い詰める」ことにのめり込んでいった。闘争は激化し難しい闘争になっていった。
翌年1月の安田講堂占拠解除を契機に大学全体の秩序が回復していっても、私の属する文学部のみその後も約1年間ストライキを継続した。私もそれに賛同していたこともあり、専門課程進学後2年間全く単位を取得しなかった。なし崩し的にストライキが消滅し本郷進学後の2年間も終わる頃、このままではどうしようもないと思い立ち卒業だけはしようと江古田の下宿先から農場の中の田無寮に移り、家庭教師のアルバイトを増やし実家からの仕送りも遠慮する生活に切り替えた。
文学部の人間関係もほぼなくなり、田無寮ではゆったりと過ごすことができた。心休まる先輩、同期もいて、観念的に走っていた思考からも徐々に解きほごされ、自ら叱咤激励し講義にも出始め2年後、指導教官の恩情もあってか何とか卒論も形だけは整え卒業だけはすることができた。
大学はもういい、当たり前の社会人生活に入っていきたいという思いも募り、田無寮へ移った翌年の秋10月頃から就職活動を始めた。今年の採用試験は終わったとの話が多く、市民社会の現場であり接点でもある市役所に気持ちが傾き、採用試験にも間に合い川越市役所に採用してもらうことができた。
大学受験での浪人生活1年を入れ大学生活6年も加味すると、高校卒業後7年経過しており満25歳での社会人1年生であった。これから何かが始まる何かを始めるというよりも、大学を脱出できたという余韻が強いままで臨んだ川越市役所入職の辞令交付式であった。そこを加藤市長に見透かされ活を入れられたのであろう。思えば、それを素直に受け入れすぐに床屋に行った自分を、卒寿の80になった今、懐かしく思い出す。
(2)生き方のバックボーン/市民社会の一員
東大文学部での闘争終焉後は学内に居場所がなくなったこと、また気持ちも疲れ切っていたこともあり、その後の2年間は農園の中の田無寮でゆったりと過ごさせてもらった。
これからどうやって過ごしていくか漠然と考えながら、好きな領域である「社会認識と人間の経験」を絡ませた本(今浮かぶのは、平田清明著「市民社会と社会主義」、森有正著「生きることと考えること」、内田義彦著「社会認識の歩み」、加藤周一著「羊の歌、同じく続編」)を耽読していた。一方では、日本人の個のあり様の悩みとその郷愁に誘われて、福永武彦著「風土」や高橋和己著「我が心は石にあらず」、更に芹沢光治良著「パリに死す」などの小説を読み返したりしていた。
読書三昧で過しながら、西ヨーロッパの市民概念の基盤である個性に魅かれている自分がいた。一個の人間性である個性の交遊の場としての市民社会、そこで市民社会の一員として生きる。それを求めていたし、またそれを失うとダメになってしまう気がしていた。
田無寮に移った理由の中には、家からの仕送りを2年留年後もこのまま受け取るのも気が引けたこともあった。そのこともあり、家庭教師のアルバイトを一つ増やし、江古田の下宿先から引っ越し、少し自活の姿勢を示そうとしたこともあった。
そのように過ごしながら、時に仲間と高田馬場や新宿の喫茶店や居酒屋で落ち合い、語り合い、辿り着いたところが「健全な奥行きのある市民社会」への憧れとその実践=生活の場であり、身近に市民と接しられる市役所への就職であった。
言葉できれいに纏めればそういうことになるが、田無寮での2年目の夏の終わり頃の心境としては、「こういう勝手気ままな生活ももういいな。自由に置かれ過ぎた学生時代から抜け出し、具体的なあたりまえの日常の社会生活に入っていかなければ、とにかくどこかへきちっと就職したい。」というのが本音であった。
秋も半ば頃に動き出し、ぎりぎり市役所職員募集期間に間に合い、出身高校のある準地元の川越市役所も含め3か所(他に八王子市と大宮市)の採用試験を受けた。革新自治体として評判が高く、興味もあった武蔵野市の試験は既に終わっていた。
少し脱線するが同じ時期、「生活者」や「感性革命/生活提案」いう言葉に魅かれていたこともあり、花森安治の雑誌「暮らしの手帳」や堤清二の「西武百貨店/スーパー西友」などにも気持ちが動いたこともあった。暮らしの手帳の会社訪問をしたこともあり、そこでは、おかっぱ頭の花森編集長らしき人が出てきてくれた。その時のやり取りは正確には覚えていないが、社員の採用はしていないようなことを言われた気がする。西武の2社の場合は電話をしたところ、どちらも今年の採用試験は終わりましたと告げられたことを覚えている。
その当時は自分なりにいろいろ理屈付けをしていたとしても、今の学生の就職活動に比べるとのんびりしていたと言わざるを得ない。市役所へ行こうと内心決めてはいたが、どこかへ勤められればいいという感覚が強かったのだろう。今思えば、そのことはそれなりに評価してもよいような気がする。何故かというと、先ずは社会へ出るということが大事であったことは事実であったのだから。
(3)市役所の就職試験/どこも気持ちのよかった面接
受験した3市役所とも物見遊山もあり、書類の提出等では出かけていった。初めて市役所の庁舎に入り人事課を訪ねたが、どこも気持ちよく対応してくれた。
川越市役所の学科試験は確か10月下旬に、市役所に隣接する市立初雁中学校が会場で実施され、2次試験の面接は11月にあった気がする。
学科試験では論文試験があり、命題は市役所への入所動機であった。当時の私の関心事である市民社会論に引き寄せ、「貨幣中心の資本の論理で動いていく市場経済社会の基底には、市民の個性が交流する市民社会があり、その具体的場は市民が住民として存在する地域社会であり、その基盤を担っている地方公共団体で働きたい」という趣旨のことを記したのではないだろうか。
当時よく読んでいた平田清明氏の著作を意識して、自分なりの思いを基に地域社会と地方公共団体の存在理由と、そこでの市民の自立と相互の交遊の重要性を書いたことだけは覚えている。
入所して数年経ったころ、人事課に以前いた職員から「圓山さんの採用試験の際の論文はユニークで話題になったらしいよ。」と言われた。そのとき、市の幹部の中に私が書いたことに共鳴してくれた人がいたのだと、うれしく妙に自信になったこともあった。
面接試験ではどこも総務部長と思われる方が中心で、人事課長が主に質問し、人事課長補佐や人事係長も補足の問い掛けをする体制だったことを覚えている。川越市の場合は3人一組で呼び込まれていた。
その応答の中で私には「労働3法は何ですか。」の質問がなされ、労働関係の法規としては労働基準法しか知らなかったので、その旨を答えた。他の誰かが残りの2法について答えたが、そんなことを聞くのかと思ったものであった。またどういう職場を希望するかと聞かれたが、「市民と直接触れ合えるところ」と答えたところ、それ以上の質問はなかった。渋谷さんという総務部長には、風格を感じた。
当時は市役所の面接試験で希望する職場を聞かれた際、どこでも「市民と直接触れ合えるところ」と答えた記憶がある。心のどこかに市民社会の一員としての実践の場として、地域社会という言葉に自分の居場所を求めていたのかもしれない。
市役所入所前に一度、内定を頂いていた川越市と八王子市の人事課を訪ねたことがあった。その際川越市では、私が地元川越高校出身ということで、いつもきめ細かく対応してくれていた人事係長(後日知ったが当時の市役所内では少数の川越高校出身の先輩の安達係長だった)から、「大宮市の方はだめだったでしょう」の類のことを言われ、よく知っているなと思うと同時に、市同士で連絡を取り合っていたのだなとわかったことがあった。
また八王子市を訪ねた時は、面接で対応してくれた方が出てきてくれた。卒業論文や未取得の単位の関係で3月卒業がダメだった場合どうなりますかと聞いたところ、その時は相談に乗りますと言ってくれて助かったことを覚えている。
このことに付随するが、この時期に小川町の実家に帰ったことがあった。そのとき母から「壽和は大宮市役所の行くのかい。」と言われた。なぜ知っているのか不思議に思い聞いたとき、母からは「Kさん(二間隣のおばさん)から、大宮市役所の人が壽和のことを聞きに来たと話してくれた。」と教えてくれた。
これらの母の言葉は今思えば、母が私のことを気に掛けながらも、私のことを思い、ずっと我慢して何も言わずに来た私の将来への心配が発したことだったのであろう。本当に見守られていた。何もわかっていなかった私であった。お母さん、感謝しています。
そんなこともあり、当時、革新自治体であったことや面接試験で好意を感じた大宮市役所へ行こうと考えていた。ところが大宮市役所から最終結果の通知で不採用を知らされ、若干戸惑っていた中、川越市からの採用通知が来たのであった。
ところで、卒業するには卒業論文の提出が不可欠であった。ワープロもない中、ましてや引用論文箇所の転記に今は便利なパソコンは勿論なく、最後の締め切り日(2月上旬のある日)までに400字の原稿用紙(120枚以内)を合本し表紙綴じして提出するため、ユネスコで知り合った他大学の友人たちにも動員を掛け田無寮に来てもらい、手分けして種々の清書を手伝ってもらった。私の性分として、風呂敷だけ広げっぱなしにした論文であったが、提出だけはすることができて卒業することができた。
あの時、なにはともあれ、私を卒業させなくてはと言って手伝ってくれた友人諸氏には感謝の言葉もない。今でも、集まるとその時のドタバタの話が出ることがある。
圓山壽和(まるやま・としかず):地域サロンコーディネーター、川越市在住。
随想/人生何があるかわからないし面白い 我が師・真善美の古武士だった加藤龍二市長
目次
1.加藤瀧二・川越市長との出会いの記/印象記
(1)活(かつ)を入れられた新採用の辞令交付式
(2) 印象に残る場面/組合交渉の場で耳を傾ける姿
(3)印象に残る言葉/「奔馬(ほんま)の奔はほとばし
っていることだ」
2.市役所就職の顛末/自由過ぎた大学生活からの脱出
(1)市役所への気持ちの傾き/市民社会の現場・接点
(2)生き方のバックボーン/市民社会の一員
(3)市役所の就職試験/どこも気持ちのよかった面接
3.加藤市長の実績/人口急増期の川越市の課題に安定して対処
(1)行政手法に精通し財政健全化を達成
(2)調和のとれた土地利用計画を堅持し民間委託を推進
(3)都市経営及び行政指導の視点で展開された具体的事例
(4)それまで出会ったことのない大きな人物であった
