4.癒された小川町との再会
もう一つの雑感。49歳の春/平成8年(1996年)4月、人事異動で埼玉県庁へ実務研修生として派遣され、人生の踊り場に至り懊悩せざるを得なくなった。そこで癒しの地として小川の町と再会したことを記しておきたい。
▽まさかの人事に遭遇
まさかの人事の内実を申せば、その3年前に激しい選挙戦を接戦で当選した新市長が、2期目の選挙を前にして庁内の幹部体制作りの仕上げとして行った人事の余波が私にまで及んできたものであった。
既に30年と時も経過したこともあり、川越市の現代史における政治事象/組織・人事管理の実証的姿としてここで敷衍することも許されるであろう。
新市長は平成5年1月に当選後、その4月に選挙を手伝った職員/課長補佐を側近として引き上げ、2年後には直近部署の部次長に抜擢し、当該職員に庁内を仕切らせるため、次期市長選挙1年前に翌年定年予定の主要部長4人を部長級の理事に実質降格した。併せてこれまでの流れでは次の幹部候補と見られた数人を同じく主要ポストから外すという人事発令を行った。
私もその流れか発令1か月前の3月初め市長室に呼ばれた。当時、埼玉県と共同事業で取り組んでいた川越駅西口での「民活と銘打った大規模開発事業/地域産業文化センター建設事業」がバブル経済の破綻で身動きが取れなくなっていたこともあり、市長自ら私のそれまでの川越駅周辺での開発事業への力量を評価し、「あなたには県からも声があり、県に行ってがんばってもらいたい。」と埼玉県派遣を命じられた。寝耳に水の話であった。
そのときは、「今、県との共同事業を前提に川越駅西口で取り組まれている大街区形成の区画整理も何らかの方向を出さなければダメなこともわかっている。期待されたのならば頑張るしかない。」と自分に言い聞かせた。
4月になり県庁勤務になって間もなく、ほぼ同年代の派遣部署の課長からは「今までは市からは主任級の若手が派遣されていたが、川越市さんとしては何か思惑があるのですか。圓山さんのような人が来てもこの案件は前知事時代の置き土産であり、圓山さんの処遇も県としては実務研修生という形しか取れないのですが、まあ、宜しくお願いします。」と何となく慰撫するような調子で話し掛けてきた。
彼自身も当部署で2年目に入っており、バブルの後始末とも言うべきこのプロジェクトは安楽死させるしかないという思いを持っているのか極めて淡々と私にその後も接してきた。「ここでは時間が十分ありますので、事業見直しの調査研究のため結構自由に動けますから、うまく時間を使って下さい。」といつも優しく対応してくれた。
当課長は一年後に異動し、次の課長も当初は気が張っていたが当案件の実態がわかるとここでの過ごし方を身に付けて行った。両課長とも打ち解けた繋がりができると、主査も交えいい居酒屋仲間として遇してくれた。
▽仕事一辺倒のツケが来た
県派遣直前は環境整理課長(廃棄物の収集処理担当)であった。収集現場事務所、焼却センター、し尿処理センターなど5か所の現場も持っていた。
33歳で係長に昇格して以来、いつも市役所の第一線で具体的課題を与えられ、自らも課題を提起し仕事一辺倒で来ていた。そんな私にとっては、時間だけを潰していればよいという雰囲気の職場は窓際族そのものであった。浦和の県庁勤務で朝も出勤時間がかなり早まり、生活のリズムが徐々に狂いだし、梅雨明け頃にはその狂いは頂点に達した。
県での職名は川越市の現役課長であったことを配慮してか、末端の管理職である専門調査員であった。上司に課長と主幹がいて、私の下には係長級の主査と主任とパート事務の女性がいた。
救われたのは、私の脇にいた主査の存在である。少し年下であったが私の心境を察し、私を気遣ってくれた。県庁内部の情報/裏話を持ち込んでくれて、時間を潰す話し相手になってくれた。「圓山さん、ここでは楽しくやっていけば。帰りの居酒屋好きも多いですよ。」と、遊び仲間の人脈開発を刺激してくれた。私よりも何となく県庁の周りのメンバーの方が私の置かれている立場や市での処遇をわかっていた。
当時の私は家計の主として現在の給与(1千万円程)をなくしてまで、何か始めるほどの気力/自信もなかった。この年の9月、満50歳になり「川越市早期退職制度(退職金の割増制度)」の対象となることを知ったが、そんな準備も心構えも全くしてこなかった自分であった。5月のゴールデンウイークの終わった頃、これが左遷ということなのかと納得し難いが認めざるを得なかった。この持って行き場のない気持ちの処理に苦慮した。
市長選の余波とは言え私の場合も含め、これほどの政治主導の人事異動が首都圏の市役所でなされるとは想定外であった。県・市の間には職員相互派遣の制度があり、その場合は給与は派遣元の県・市が負担していたが、私の場合は県への実務研修派遣制度の活用であり、市職員を市費で県に勉強に行かせるものであった。50歳を前に県へ勉強に出されたのである。人生/職場のリスク管理での不備を不意に衝かれたものであった。
それなりの想いを描いてやってきた仕事一辺倒のツケが、一挙に来た感じがした。ここではある面気ままに動ける自主性はなくなった。もがいている私を見て妻が発した、辞められたら困るとの響きの言葉、「いつも仕事一辺倒で忙しがっていたのだから、今は県庁大学院に行かせてもらったと考えればどう」に何とも言えないものを感じた。通勤の日々が続く中やがて、ここは妻の言葉に載って凌いでいくしかないと気付いていった。
そう自分に言い聞かせ、夏の終わり頃から気分転換の業/技も身に付けだし、有給休暇や所定の夏休みは完全に消化しようと決め、出来得る限り職場/仕事以外の時間と空間を持つように努め始めた。
風来坊の気質も蠢き出し7月頃から職場に出入りしているシンクタンク等の紹介もあり各所へ出歩き出した。その一つの東京都経済局主催の産学連携研究会には多彩な人が来ていて、2か月毎の会合は欠かさず出席した。
そこで出会ったF氏は新日本製鉄㈱の出身で、国連で後進国の工業化支援に当たっていた。会話が弾み、F氏の所属していた人間環境活性化研究会(HEARTの会)へ誘ってもらった。当会には人生の先導師とも言うべき先輩たちがいて、若手の私はフランクな交遊の中で貴重な経験を味わうことができた。30年近くなる今も所属しているが、県派遣で得られた貴重な資産である。
有給休暇を取り東上線に乗り、途中下車し2~3駅の間をぶらりと歩く楽しみを覚えた。この散策が英気を与えてくれ、東上線沿線は心休まる故郷であることを実感した。ふらっと立ち寄った店で昼間飲むビールの味も覚えた。
歩き出した頃は何となく小川の町まで行く気がしなかった。未だ働き盛りの人間である意識がどこかにあったのかもしれない。それもやがて消え、小川の町へも自然と足が向くようになった。職場から外れた人間が足元を見つめ直した際、そこには故郷の地との再会が用意されていたのである。
こうして当初1年間と思っていた県派遣も1年延び、結果として2年間の実務研修名目での県・市共同プロジェクトの見直しへの従事は終わった。
平成10年4月、川越市に戻り教育委員会事務局配属で「市立川越商業高校事務長」を仰せつかった。昇格はなく課長級のままだったが辞令には「市立大学準備担当」の職名もあり、市立高校の改革を目指していくことも記されていた。これこそ全く知らされていなかった。何はともあれ市に戻れたのである。小林一茶の句「めでたさも 中くらいなり おらが春」が浮かんできた。
▽程よい距離感の故郷・小川町
70代も半ばに入った5年程前、新型コロナウイルスの再拡大で生活様式変容が叫ばれた頃から、自己制御し忙しさから抜け出そうとしている。今もっていつも何かに追われている感は抜けない。朝3階の自室から1階の新聞受けを経た後、自宅マンション最上階の8階外階段から西北西に向かい高層ビルの谷間に故郷の笠山を望むとき、自然に手を合わせている。
その麓にある盆地の町・小川町は懐かしい風景の出生の地である。川越から距離的にも時間的にも程よい散策の地であり、気持ちに隙間ができたときなどふと思い立ち出掛けることがある。年齢を加えるにつれ、その思いが募っている。
東上線で武蔵嵐山駅から比企丘陵に入り山間を抜けて、6月の頃だと新緑のトンネルを抜けると目の前に小川盆地が開けてくる。その瞬間、違った世界に入った気になる。東上線では一番好きな眺めであり、心が解かれ癒されていくのがわかる。
車窓からは左前方近くの下里の集落の後ろに仙元山が見え、その山裾には槻川が流れ、和紙の里がある。進行方向に沿った右前方には遠く笠山と堂平山の山並みが後ろに控え、その前に小川の家並みが拡がり、笠山の麓の東秩父村へ繋がる切通しの方へ続く風景である。
電車が盆地に入り、車窓の右側の山腹に日赤・小川病院が見えて間もなく、八高線(八王子から高崎に通じるJR東日本鉄道)を上にして東上線が交差する箇所の県道(熊谷・小川線)の踏切を通過すると小川町駅はすぐである。駅の改札を出てまっすぐに伸びる駅前通りを眺め、視線を右に振り笠山を目にするとき、小川は変わらないとの感懐が湧き出す。
高校に通学していた頃は川越程ではないが、大通りや駅前通りには洋品店や八百屋・魚屋、寿司屋・料理屋、パン屋、そして化粧品店、本屋などの店舗が軒を連ねていた。今は空き地なども介在し、お店も以前の賑わいはないが、道筋は変わっておらず、ここには小川の生活があることを感じ安心する。
5.藤沢周平は小川町に来ていた
今回の寄稿に当り最初、生まれ育った小川町に触れる際、時代小説家・藤沢周平がその代表作「海鳴り」の執筆にあたり、小川町を取材に訪れていることを記してみようと考えていた。その背景には、藤沢周平の作品とその人となりに魅かれ、ここ10年程前から地域で「藤沢周平・読書サロン」を企画していることもある。
私が藤沢作品を読み始めたのは、平成9年1月26日に逝去した藤沢周平の訃報記事(日本経済新聞)の中で経済学者の飯田経夫・名古屋大学教授が作品「海鳴り」を取り上げ、「バブル崩壊後の日本社会では藤沢周平の描き出す俯き加減の生き方は日本人に共鳴を与える」と述べた記事に触れてからである。その時は県庁派遣の一年目も年が明けた頃で、仕事一辺倒を切り替えたこともあり、早速、県庁からの帰りに浦和の須原屋書店でその文庫本を購入し読み始めた。

そのストーリー展開のサスペンス調にも引き込まれたが、何よりも自然・季節の移ろいや周囲の人間関係・環境を写実していく文章が醸し出す主人公の人物描写に接する中で、読んでいる自分自身が何とも言えず癒されていくのがわかった。久しぶりに読みながら涙が浮かんできた。
それからは藤沢作品の「蝉しぐれ」、「用心棒日月抄」、「三屋清左衛門残日録」、そして「消える女」、「夜の橋」などを次々と読み耽り、朝夕の通勤途上の必需品になった。次第に著者の随筆を通し藤沢周平そのものの人生の歩みを知る中で、その人生観/生活観にも共感を覚えていった。
藤沢周平の作品に会ったタイミングが、県庁勤務も時間が経ち年明けとなり気持ちの切り替えもできてきた頃であったことは幸運であった。藤沢周平の作品に出会ったことで生活全般が凌ぎやすくなっていった。気持ちに余裕というか、自分を相対化して眺められるようになった。救われ新たな地平に出られた気がした。
▽小説「海鳴り」と紙漉きの小川村
話しを本題の小川町と藤沢周平作品との話に戻したい。
「海鳴り」(文春文庫/1987年発行、上・下の2分冊)は江戸時代末を舞台に、主人公の紙問屋・小野屋新兵衛(46歳)と同じ紙問屋・丸子屋のおかみであるおこう(30代半ば過ぎ)とが、問屋仲間の会合の帰りにふとしたことから出会い、相思相愛になっていく物語である。紙商の奉公人から仲買人となり、仕事一途から自立し紙問屋の株仲間に入るまで成功した初老の男と、大店の娘ではあったが今は嫁ぎ先の家庭に満たされぬ女との切なく激しく、不義密通覚悟に至っていく二人を軸とした、サスペンス感覚の作品である。
「海鳴り」の初出は昭和57年/1982年7月26日~昭和58年7月18日の間、信濃毎日新聞夕刊他に掲載された長編小説であり、単行本としては昭和59年4月に文藝春秋社から刊行されている。著者・藤沢周平は昭和46年に「溟い海」でオール読物新人賞を受賞し、45歳で昭和48年7月に直木賞を受賞して間もなく、業界紙の日本食品経済社を退社し小説家専業となり、「海鳴り」執筆時は時代小説家として円熟期に達しつつあった。
ここで話題にしたいのは「海鳴り」の主人公・新兵衛が首尾よく問屋仲間に入った一年後、看板商品として質のよい紙を作るため小川村の細川紙の紙漉きの仁左衛門の家にひと冬逗留して、仁左衛門と紙を漉きだす一連の作業を克明に描いている場面のことである。(*下巻の「裏切り」の章、参照)
そこでは11月末頃からの原料となる楮(こうぞ)の伐採から最終作業の漉きだした紙を天日に乾すまでが記されている。一定の長さに切りそろえての釜での楮ふかし、アク煮した楮白皮の川の浅瀬での晒し、流水の中での足踏み、川晒し終わった後の白皮の塵取り、楮叩き、漉きの段階で使うのりうつぎの量の加減などの各作業個所でのコツが描かれ、綿密にやるかざっとやるかで紙の品位が左右されることを知って驚嘆する新兵衛の姿がある。
著者・藤沢周平の裏付調査に基づく株仲間を通しての市場・規制を見据えた新たな品質の紙づくり、注文主の新兵衛と作り手の農家・紙漉きの仁左衛門とのせめぎ合いとなる入念な打ち合わせ、現場の工程にすべてが秘められているという探求心、そこでの凛とした人間同士の交わりが実証的に紡ぎ出されている。読む者に新商品開発の醍醐味を感じさせる場面である。
私も小学生の頃、下小川地区の槻川の浅瀬で楮の皮を農家のおばさんたちが足踏みしている姿や、楮が解けてどろっとした板囲いの材料槽からの紙の漉き出し、そして晴れた日に農家の庭先に漉いた紙を天日干ししている縦長の板の列をよく目にしていた。この「海鳴り」の場面を読んで始めてその各作業の持つ意味を理解することができた。
小説としては物語の最後に、二人が駆け落ちしていく先として新兵衛が目を掛けている仲買人の兼蔵の助言で小川村の先の東秩父村へ駆け落ちしていく場なども含め、紙漉きの地である小川のことが物語の一つの背骨として描き込まれている。藤沢周平の随筆集「小説の周辺」(文春文庫/1990年発行)では「小川町」という一文が載っており、実証を重んじる著者らしく「海鳴り」の取材のため昭和57年5月、小川を訪れた際の埼玉県製紙工業試験場でのやり取りや、紙漉き工場で紙を漉く作業をさせてもらったりしたことが町の印象記と併せて記してある。
また藤沢作品の「おさんが呼ぶ」(新潮文庫「時雨みち」所収)は、江戸の紙問屋伊豆屋の下働きのおさんと、そこへ小川村から取引先開拓のため来た紙漉屋の兼七との出会いが軸になっている。短編ではあるがここでも紙漉屋は実直に描かれており、それを応援する「おさん」の姿、そしてそこはかとなく二人を見守っている紙問屋の主人とおかみさんがいる物語である。
いずれも好ましい郷愁を誘う風景であり、市井にあって懐かしい人物が描き出されている。小川村(町)をこのような形で出してくれる著者・藤沢周平さんには多くの作品を通して癒されるだけでなく、小川町に生まれたものとして何とも言えず感謝の気持ちが湧いてくる。嬉しい限りである。
ここのところ小川町を探訪するテレビ番組が時々登場するようになった。下里地区の有機農場の経営者や分校の廃校を活用したレストラン、更に都内から来て、町中の空き家を改装して始めたお店が紹介されている。
本来、小川は商店が軒を連ね、日本酒の醸造元が4軒(今は晴雲酒造と「帝松」の松岡醸造の2軒)あったように、料亭(老舗の二葉など)や飲食店、そして映画館(小川会館)やパチンコ店も含め「ハレ(非日常)とケ(日常)」の言葉でいえば、周辺の村々にとって晴れがましく心浮かれる祭り気分になれるハレの町であった。私には、今もその残響がそこはかとなく聞こえてくる町である。
機会があったらそんなことも投稿できたらと思っている。取り留めもない雑文にお付き合い頂き感謝します。
圓山壽和(まるやま・としかず):地域サロンコーディネーター、川越市在住。
「人生何があるかわからないし面白い・ふるさと回想」目次
| 上 | 1 | はじめに/自分史の一端を記す |
| 2 | 川越に住み着いて53年余り | |
| ▽卒論を出せて大学脱出/卒業 | ||
| ▽就職を契機に準地元の川越へ | ||
| 中 | 3 | 故郷・小川町のこと、父のこと |
| ▽小川は賑わいのある町だった | ||
| ▽井の頭線は知的な刺激の故郷 | ||
| ▽小学校一年の時亡くなった父 | ||
| 下 | 4 | 癒された小川町との再会 |
| ▽まさかの人事に遭遇 | ||
| ▽仕事一辺倒のツケが来た | ||
| ▽程よい距離感の故郷・小川町 | ||
| 5 | 藤沢周平は小川町に来ていた | |
| ▽小説「海鳴り」と紙漉きの小川村 |
