3.故郷・小川町のこと、父のこと
ここでは生まれ故郷・小川町に触れながら、自分史に絡め我がファミリーヒストリーを若干披歴しておきたい。
▽小川は賑わいのある町だった
私の生まれは昭和21年9月で、出身地は埼玉県比企郡小川町、生家は町の大通りに面し、運送業を家業にしていた。

小川町は、池袋を起点とする東上線急行では約35分余で着く川越の更に約35分余にある盆地の町である。町の歴史は辿るとかなり古く、近郷の村々の物資の集散地として賑わってきたことがわかる。私の幼少期(昭和30年代前半から半ば)の記憶では、東上線の川越市駅の先では料亭があり芸者さんがいるのは小川町だけだと言われ、妙に東松山市や寄居町などに優越感を持っていた。
手元にある「小川町の歩み 小川町町史普及版 小川町合併50周年記念」(平成17年1月、小川町編集発行)によると、現在の小川町は昭和30年の市町村合併で当時の小川町(人口11,035人)と近隣の3村である大河村(人口7,109人)、八和田村(人口4,160人)、竹沢村(2,918人)が合併し、人口25,222人で発足している。
それに対し東松山市は、昭和29年に松山町が近隣4村と合併し、人口が37,337人(昭和30年時点)と3万人を超えたこともあり市制を敷いている。また寄居町は同じく昭和30年に近隣4村と合併し人口26,331人となったが3万人を超えず市とはならなかった。小川町は合併でも市にならず、松山に負けたと言われていたことを覚えている。
それでも小川は松山に負けず大通りには商店が軒を連ね、春先にはひな祭りの市が開かれ、夏休みに入るとすぐの祇園祭り(7月25~26日)では屋台の山車が出て最後に神輿が街中を練り歩き、その後間もなくの七夕祭り(8月6~7日)では本当に大勢の人が集まり、こちらの最後は仕掛け花火で締め括っていた。秋には町民運動会で全町内が盛り上がり、八幡様の祭礼で競馬があり、暮れには緑町の神社境内で酉の市が開かれ、それらイベント、祭典の度に出店が溢れ出ていた。
それなりの店員を抱えた呉服屋・洋品店を始め、紙問屋や絹問屋、そして材木屋や建具屋、酒造店も4店あり、料亭・料理屋も数多く、山林地主や家作持ちなど大きな塀構えの金持ちと言われていた家もかなりあった。
種々の商売で活気があった証拠として、表通りには金融機関も多く、埼玉銀行、小川信用金庫(本店)、武蔵野銀行、日本相互銀行、大生相互銀行、郵便局、農協などコンクリート造りで構えていた。
小川町は川越の地からは、南西に見える富士山からその山並みをずっと右へ追っていくと見える秩父山系の一番右の端に見える笠山(番傘を広げた山容で山頂が乳首の形に見える)の麓にある盆地の町である。
地元の小川小・中学校を卒業し、昭和37年4月、憧れの県立川越高校に進学し東上線に乗り3年間、川越に通った。小川町で過したのは高校時代までで、その後は小川町を離れて今に至る。思えば当時の私の中には、大学受験の結果に関わらず、小川を離れて東京へ行きたい気持ちがあった。青春期は外への脱出願望が強かった
昭和40年3月、東大の受験に失敗し、その後一年は受験浪人のため、東海銀行に勤めていた次兄夫妻の三鷹の社宅の一室から御茶ノ水の駿台予備校に通った。翌年4月、東大(教養学部文科3類)入学後は、憧れていた井の頭線沿いに下宿先(最初は三鷹台駅利用であったが夜間の出入りに気を使うため3か月後に準アパート形式の高井戸駅利用の所に引っ越した)を見つけ、計2年間はそこから駒場キャンパスに通った。永福町に下宿している友人の所などへよく出入りしていた。
▽井の頭線は知的な刺激の故郷
この駒場での2年間における、クラスの友人やサークルの先輩仲間との討議、談笑が、大学キャンパスの香りを感じた初めての知的空間であった。それはベトナム戦争の激化の中、知識人の卵としての在り様を模索し始めた時と空間でもあった。恋に恋する「高校3年生」などの歌の世界から離れ、人を愛するとはお互いの人格形成に何を齎すものなのかと考えたりし始めた時でもあった。
故郷という響きとは微妙に異なるが、井の頭線沿線は大学受験から解放され、伸びやかに学問の世界への興味、社会的問題への関心とその責務、更に女性との交際を可能にしてくれた自由な所であった。またその裏付けとなる「教養と主体性」、「個性は一個の人間性」、「封建社会と市民社会」という言葉に出会った所であった。
人並みに自由気ままに過ごした教養課程の2年間を終え、教養とは何か、そして知識人(インテリゲンチャ―)のあるべき姿などの思いを胸に本郷の専門課程(文学部国史学科)へ進学した。下宿先も地下鉄本郷3丁目駅利用を考え、西武新宿線の江古田駅近くに移った。普通のお宅の離れ部屋だったが、夜遅く出入りしても差し支えなかった。
本郷に進学して間もなく、医学部に端を発した東大闘争にのめり込んだ。結果としてその4年後に、大学入学当初は想定すらしなかった川越市役所就職に辿り着くまでの経緯はここでは省略しておく。
人生を振返るとき、小川と程よい距離の川越の地で就職し、埼玉西部、そして都内や県外の人と繋がってきたことに今は満足を覚える。
小川町や東上線沿線での中学や高校の同期、同窓の人の繋がりと出会い、いい塩梅の故郷感覚のもと自然溢れる地域風土の上で生きて来られたことに感謝している。
▽小学校一年の時亡くなった父
母の話によると父は明治33年生まれで、出生に事情があり、ひとり縁のある小川の町に来て、10代の頃から父を見守っていてくれた人の援助を得て、運送業を始めたとのことらしい。昭和に入った頃には車も数台持ち事業も軌道に乗り、所縁のある人の紹介で旧家の娘であった、明治42年生まれの母と結婚したとのことである。昭和6年7月には長兄が生まれている。
太平洋戦争中は地方の運輸業も産業統制により、埼玉県下は一経営体(武蔵貨物)に合同されたため、父としてはそこへ全ての車両を供出して、そこで幹部社員になった。まともに小学校を出ていなかった父は事務的なことは得意でなかったこともあり間もなく退社し、戦争中は人力車や畑仕事で凌いで暮らした。
戦後、産業統制が解かれたのを契機に、県内各地の同じように志を持っていた戦前運送業をやっていた人たちと、それぞれが自主運営の面を強く持った新会社(協同貨物)を興して、再び車両を増やし事業を拡大していった。家族は長兄の他に次兄が昭和10年12月に生まれ、私は母が体調を崩したこともあり、間が空いて戦後の昭和21年9月に生まれていた。
父は朝から晩までよく働く人で、高尾山や成田山など神仏にも篤く、父親自身にも家族にも、何人かいた社員にも厳しかったが、一方、情があり出入りの人も含め、皆に慕われていたとのこと。お得意さんである、地元の和紙問屋さんや絹織物問屋さん、建具屋さんなどの評判もよく、都内(浅草、日本橋)や群馬方面(高崎、前橋)の運行路線を中心に、熊谷や営業所も置いた川越にも取引先を持ち、手広く事業を展開していた。
後年、小川町で当時の父を知っている人に会った際、「お父さんは付き合いもお酒も好きで、まめな人だった。お金の使い方も上手で、新札が出たときなど、ちょっと寄って少し飲んで、新札のお祝いだと言ってお釣りは取らず、次の店へ回って行った」と懐かしんでくれた。
人づきあいが好きで、商売上手でもあったことは確かなようである。私の記憶の中では炬燵に入っている父の大きな背中をよじ登っていた自分と銭湯が好きな父に連れられよく行っていたこと、そして上野動物園に行ったことを鮮明に覚えている。父の背中は大きく、父はいつも私には笑顔であった。
その父は酒の飲み過ぎと働き過ぎで、私が小学校一年のとき53歳になって間もなく亡くなってしまった。家業は母の弟が協同貨物の本社(秩父の皆野町にあった)にいたこともあり、母の頑張り仕切りとその片腕の長兄(当時22歳、小生の15歳年上)が担い、11歳年上の次兄もいて、お手伝いさんなどに囲まれ私は何不自由なく大事に育てられた記憶がある。近所にあった八百幸(今隆盛を極めるヤオコーの原店舗)などのお店にお使いで買い物に行ったときや、用事で知り合いの家に行ったときなど、亡くなった父親が私を「目に入れても痛くない程とても可愛がっていた」ことをよく告げられたことも記憶に残っている。
高校卒業後は都内に移り大学受験浪人での予備校通いの1年間と大学進学後の6年間と計7年間、小川町へ帰ることは夏休みと年末お正月以外はほとんどなかった。父亡きあと私を育ててくれた母親は何も言わなかったけれど「そんなに遠くなかったのだから小川へもっと顔を出しておけばよかった」の悔恨の情が湧いて来る。さだまさしの歌う「案山子」が胸にじんと来る。
その点では川越市役所に就職し、川越に借家が見つかるまでの数か月、小川の家に身を寄せさせてもらい、母親や長兄夫婦、その子供の3人の甥たちと過ごさせてもらった日々は、私にとって家族内の繋がりを感じさせてくれた貴重なものであった。母と長兄も今は亡く、弟のようであった12歳下の長兄の長男(甥)も30代半ば過ぎの若さで病没した。そしてまた長兄の次男の甥も2年程前に60代になって間もなく病で亡くなってしまった。
断片的に走馬灯のごとく残っている父との思い出、そして鮮明に残っている母や長兄のこと、そして涙なくして思い出せない弟の如き小川の甥二人のこと、やはり小川は私が生まれた故郷なのである。
私の小学生3年の頃嫁いできて、わがままな私を実の弟の如く世話してくれた義姉が元気なうちはと思い、盆暮れに山懐にあるお寺の墓参りをし、小川の家に寄ることで私自身が癒されている。
ここへ来て、働き詰めで逝ってしまった父親のことを思うことが多くなった。「お父さん、見ていてくれたのだね。お父さんより20何年も長生きしているよ。」の言葉が出てくる。(続く)
圓山壽和(まるやま・としかず):地域サロンコーディネーター、川越市在住。
「人生何があるかわからないし面白い・ふるさと回想」目次
| 上 | 1 | はじめに/自分史の一端を記す |
| 2 | 川越に住み着いて53年余り | |
| ▽卒論を出せて大学脱出/卒業 | ||
| ▽就職を契機に準地元の川越へ | ||
| 中 | 3 | 故郷・小川町のこと、父のこと |
| ▽小川は賑わいのある町だった | ||
| ▽井の頭線は知的な刺激の故郷 | ||
| ▽小学校一年の時亡くなった父 | ||
| 下 | 4 | 癒された小川町との再会 |
| ▽まさかの人事に遭遇 | ||
| ▽仕事一辺倒のツケが来た | ||
| ▽程よい距離感の故郷・小川町 | ||
| 5 | 藤沢周平は小川町に来ていた |
