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ほうき作りの技伝える 浦野幸吉さん(富士見市) 皇居に献上品 伝承会を指導 過去には海外生産を先駆け

入間東部地域は昔、座敷ほうき、その原料となるほうき草の主産地だった。富士見市の浦野幸吉さんは、ほうき職人を経て、昭和40年代半ば、ほうきの海外生産をいち早く始めた草分けの一人だ。今は、皇居への献上品を製作、市内のほうき作り伝承会を指導するなど、伝統工芸の保存に努める。浦野さんに海外生産に乗り出したいきさつを含め、ほうき産業の歴史をお話いただいた。

浦野さん

昭和30年代、ほうき職人として独立

―浦野さんはおいくつですか。

浦野 昭和12年生まれです。

―浦野清元富士見市長とご兄弟ですか。

浦野 私と3つ違いの兄です。

―浦野さんは元々ほうき職人だったのですか。

浦野 初めはほうき作りの方のところに修行に行きまして、何年かして22歳の時に独立しほうきを作るほか卸も手がけました。

―その頃は、ほうき業は繁盛していたのですね。

浦野 昭和の30年代頃までは、よく売れました。毎年暮れのボロ市が始まったら、自動車で都内のあちこちに持って行く。ボロ市回りでそれまで家に積んでおいたほうきが全部はけて、1年食べられるくらいの利益が上がりました。

様々な座敷ほうき(富士見市ほうき作り伝承会)

大井、上福岡、鶴瀬に業者が多かった

―富士見市周辺はほうきの業者が多かった。

浦野 入間郡の大井(現ふじみ野市)、上福岡(同)、鶴瀬(富士見市)はほうき作りが多かった。ほうき草(ホウキモロコシ)の生産も、富(三芳町)、永井(同)、鶴瀬、大井などが中心でした。

―なぜこの近辺にほうき業者が多かったのでしょうか。

浦野 元々ほうき作りは東京・練馬から伝わりました。やはり消費地の東京に近かったことによるのではないでしょうか。

カバーぼうき

―しかし、経済の高度成長期に入ると、電気掃除機の普及で家庭でほうきをあまり使わなくなり、また新しい職場が増えて、ほうき作りを取り巻く環境が大きく変化しました。

浦野 職人がどんどん減ってきて、ほうき屋さんはやめるところが増えました。一方でカバーぼうきを機械で作るようになり、これは原料を大量につぶすから原料も足りなくなりました。

―カバーほうきとは。

浦野 樹脂加工し機械で作るほうきです。伝統工芸とは違い、職人の手はいらない。昨日入ったパートさんでも作れる。原料の使用量が圧倒的に違う。原料は日本では集まらないし、集めても単価が高い。

カバーぼうき

昭和40年代半ば、海外生産に乗り出す

―それで、海外に目を向けたということですか。

浦野 この辺では原料は採れなくなったので、茨城や熊本に注文を出したりしました。そのうちに国内では農家に原料まいてもらう時代は過ぎた考え、海外に出ることにしました。

―いつ頃ですか。

浦野 大阪万博のあった昭和45年頃です。

―どこの国に。

浦野 最初は台湾に。それからフィリピン、インドネシア、タイ。

―ほうき草を輸入したということですか。

浦野 初めは原料をもらうために行きました。そのうち原料だけでなく向こうでも、手が余っているのでほうきを作って輸出したいとの要望があり、ほうき製品の輸入に変わりました。

草の栽培から指導

―そもそも向こうにはほうきという道具があったのですか。

浦野 ありませんでした。だから日本からタネを持って行って一からやってもらった。ある時ジャカルタにタネを大型トラックで1台分送ったら 向こうの業者から「半分食われた」と連絡があった。だまされたのかと思ったら、持ち去られて食べられたと。ほうき草のタネなんか見たこともないから食べたのです。

インドネシアで

―商社を通さなかったのですか。

浦野 初めは商社を通したんですが、思うようにいかない。それなら行っちゃおうと。

―言葉の問題はなかったですか。

浦野 台湾は日本の植民地だったから、トップに立つ人は日本語がみなできた。難しかったのは外貨の調達です。1ドル360円の時代ですから。

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今は全部輸入品

―今ほうきの市場はどうなっているのでしょうか。

浦野 ディスカウントストアやホームセンターで売られている。あとは学校です。全部輸入品で国内製品は1本もありません。

―国内でほうきを作っている人はいないということですか。

浦野 近辺で仕事でやっていたのはふじみ野市の永倉一男さんがいましたが2、3年前にやめられたようです。あと三芳町に嶋村忠治さんという方がいますが、デパートでの催事販売が主なのでコロナ禍で難しいようです。

―浦野さんはいつ頃まで作られていたのですか。

浦野 私は30年前に廃業しました。

皇居にすす払いほうきを献上

―皇居にすす払いほうきを納められているということですが。

浦野 これは自分で作っています。献上だから おカネはいただいていません。

 

―毎年ですか。

浦野 50年前から。今年は12月13日の予定です。長さ4m50cmのものもできています。

皇居に献上(令和3年)

―どういうご縁で始まったのですか。

浦野 元々竹ぼうきなど納品していました。商売やめると言ったら、賢所(かしこどころ)の祭祀に使うので、なくては困るということでしたので、献上なら続けますということで。

ほうき作り伝承会の指導役

―富士見市のほうき作り伝承会の指導役をされている。

浦野 伝統工芸を伝えていくということで、若い人達と一緒にやっています。私も年をとって生きがいになっています。

ほうき作り伝承会の実演(令和4年11月、富士見市立図書館で)

―会ではほうき草の栽培もしているのですか。

浦野 伝承会は、農地を借りてほうき草を作っています。会長の小森和雄さんという方が毎年撒いてタネをつなげていたのです。

(取材2022年11月)

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