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古代の幹線道路であった東山道(とうさんどう) 県立嵐山史跡の博物館 

国分寺市の武蔵国分寺史跡と西国分寺駅の間あたり、だだっ広いが車が走っていない不思議な道路がある。見ると「東山道跡」とある。これは昔の道路跡を保存した史跡なのだ。私は以前からこの東山道とは一体何なのかと、ずっと疑問であった。このたび嵐山町の埼玉県立嵐山史跡の博物館で「東山道と「鎌倉街道」」と題する企画展が開かれた(1月9日~3月1日)ので、その内容を紹介する(以下、同館学芸担当主任専門員の君島勝秀さんによる展示説明をまとめたものです)。

 東山道(とうさんどう)は古代の幹線道路、「鎌倉街道」は中世からの幹線道路です。2つの道路の関連性も含め、道がどのように変遷し今に至っているのかを展示しました。

上野の国と下野の国の間から南に下りる東山道武蔵路

 道路が全国的に整備され始めたのは約1300年前の律令時代と考えられています。最初7世紀後半あたりから全国に道を作った。その一つが東山道です。都を中心に7つの行政区分があり、東山道や東海道は行政区分でもあり道の名前でもあります。

古代の七道

 古代の埼玉県は武蔵国(現在の埼玉県と東京都と神奈川県の一部を合わせた地域)に属し、当初東山道に行政区分されていました。道も都から東山道を通って武蔵国に行く。ずっと山道を行くが、上野の国と下野の国の間から枝道が南に下りて、武蔵国府、今の府中市へ至ります。今回の展示は、その武蔵国に入る南北の道路を対象としています。今は東山道武蔵路という言い方がされています。

 武蔵国は当初東山道に編入されていましたが、宝亀2年(771)に東海道に所属替えになり、以後都から武蔵国への使者は東海道を通っています。

武蔵国府から武蔵国分寺の脇を通って北へ直線的に伸びている

東山道武蔵路
東山道武蔵路と遺跡

 東京と埼玉を南北に貫く東山道武蔵路のルートが近年の発掘調査でわかってきました。武蔵国府から武蔵国分寺の脇を通って北へ直線的に伸びている。まず国分寺市の泉町地区で東山道の遺構が発見されました(国の史跡に指定)。さらに、埼玉に入り所沢市の東の上遺跡、入間川を渡り、川越市に入り宮廻館跡A区(川越市下広谷)、町東遺跡4区(坂戸市)、馬場遺跡3区(坂戸市)、西吉見古代道路跡(吉見町)で、道路遺構が確認されています。

東山道跡
東山道跡(国分寺市泉町)
東の上遺跡
東の上遺跡(所沢市)

道幅が約12メートル、路面も造成

 発掘の結果、側溝が掘られており、道幅が約12メートルの非常に広い道路です。路面は土を掘りまた固めるという方法で作られている。西吉見古代道路跡の場合、低地に盛り土をして造成している。台地と低い土地を真っ直ぐ通すのが東山道の特徴。それがこれまで県内6カ所、国分寺と合わせて7カ所確認されています。ただ、西吉見は、武蔵国府から北への直線からちょっと東にずれています。新たに遺構が発見されれば、新しいルートがわかるはずです。

西吉見遺跡
西吉見遺跡

川越市の東山道近く入間川沿いの霞ヶ関は入間郡の役所(郡家=ぐうけ)があった

東の上遺跡から出土した須恵器
東の上遺跡から出土した須恵器

 東の上遺跡の側溝や路面から須恵器が出土しました。これらから道路の使用時期は7世紀後半から9世紀後半までと推定されます。川越市の東山道近く入間川沿いの霞ヶ関遺跡は入間郡の役所(郡家=ぐうけ)があったと言われています。霞ヶ関遺跡からの出土土器に「入厨」(くりや)という字が書いてある。入厨とは入間郡家に所属した厨房と考えられています。吉見町の道路遺構と交差する河川跡から出土した須恵器には「弓」?と書かれています。河川の氾濫を鎮めるためのおまじないと考えられます。

 東の上遺跡と八幡前・若宮遺跡(集落跡、川越市)には東山道の駅家(うまや)があったとみられます。駅家は馬を飼育・管理し使者や役人に馬を提供する施設で、当時官道には約16キロごとに設けられました。駅家跡から出てきた遺物で面白いのは焼印です。

駅家跡から出土した遺物「
駅家跡から出土した馬の飼育に関連する遺物

幹線以外のいろいろな道路、幅3~4メートルの生活道路も

 東山道以外の古代の道路もいろいろ整備されました。古代の役所の発掘調査で道路の遺構も一緒に出ることがあります。今の深谷にあたる榛沢郡の郡家とされる熊野遺跡から正倉(倉庫)の方向に延びる道幅約8メートルの道路が確認されました。熊谷にあたる幡羅(はら)郡の郡家とされる幡羅官衙遺跡からも幅約8メートルの古代道路が見つかっています。また日高市の王神遺跡・拾石遺跡からは、集落と集落を結ぶもっと小規模な道が見つかりました。側溝はないが硬化面があり幅3~4メートル。今の生活道路です。

榛沢郡家
榛沢郡家

「鎌倉街道」は、古代の生活道路の道筋を受け継いだ

 東山道をはじめ古代の道路は中世の「鎌倉街道」へ受け継がれます。両者の関係がどういうものであったのか。日高市大谷沢から女影には「鎌倉街道」上道の伝承路がありますが、これと重なるようにもっと細い古代の道路がいくつか確認されている。幅約2メートルとか1.5メートルの集落を結ぶ生活道路です。そういう道路の道筋を受け継ぐように「鎌倉街道」が作られていったのではないかと推測されます。

上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)という3つの主要道路

 「鎌倉街道」は鎌倉を中心に各地方を結ぶ幹線道路として幕府が整備したと考えられています。上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)という3つの主要道路があり、それに枝道がついていました。枝道を含めた全体が今は「鎌倉街道」伝承路ととして残っています。

鎌倉街道

「鎌倉街道」沿いに武蔵武士の本拠地

 武蔵武士の本拠地と「鎌倉街道」のルートを重ねてみると、上野に近い利根川と荒川の間にたくさんの本拠地があり、枝道も多くあります。川越市上戸の河越館跡(国の史跡)は、秩父平氏出身の有力武士河越氏が応安元年(1368)の平一揆の乱で敗北するまでの約200年間居を構えた館跡です。館の外に向う4本の通路が確認され、西は「鎌倉街道」と旧東山道、東は入間川の渡し場に通じる道だったとみられます。「鎌倉街道」に出やすいような位置に館が作られていたわけです。

街道と集落、供養地、墓地が一体で保存された毛呂山町の苦林宿

 中世の時代は街道沿いに宿と言われた集落が栄えました。特に河川が交差する箇所には、宿ができました。苦林宿は国の史跡に指定され保存されています。街道が越辺川を渡る手前に堂山下遺跡(宿の集落)、隣接して崇徳寺跡(墓地)。近くにある川角古墳群は、古墳時代の古墳ですが中世にはその上に板碑を建てて供養の場にしたようです。ここの「鎌倉街道」は当時のままに残っており、トレンチ調査すると下から中世の路面が出てくる。ここは街道と供養地、墓地が一体で保存され中世の面影が感じられる場所です。町の歴史民俗資料館がすぐ近くにあります。

堂山下遺跡
堂山下遺跡
往時の「鎌倉街道」の景観が残る

今も使われる「けがき針」

 堂山下遺跡の出土遺物で面白いのが「けがき針」。板金加工の時、材料に印をつける道具で、硬い鋼でできており先っぽが曲がっている。同じものを今でも板金の職人が使っている。苦林宿に職人が存在していたことを裏付ける貴重な資料です。

けがき針

 崇徳寺跡にあった延慶の板碑は高さが約3メートルに及び、有力な人が建てたとみられます。昭和37年に移転した時下から骨壺が2点出土、墓だったことがわかりました。板碑は供養塔で、亡くなった人のために建てたものです。 

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「鎌倉街道」は賑わいをなくし「古道」へ

 「鎌倉街道」は中世以降どうなったのでしょうか。北条氏の時代になると城と城とを結ぶ新たな交通網が整備され、「鎌倉街道」はそれに組み込まれる形になります。古代の駅家に替わる伝馬制が敷かれ、宿に馬を常備し、公に使う時は駄賃が免除される。近世以降は江戸を中心に街道が整備され宿場が発達、鎌倉を中心に成り立っていた「鎌倉街道」はだんだんにぎわいをなくし、古道として扱われるようになります。

 赤沼村(現在の鳩山町)で寛文5年(1665)にのまぐさ場の入会権の訴訟があった時の 裁定を示す絵図があります。「古道鎌倉開(街)道」と書いてある。古い道とここで言っている。「古道」を示す一番古い資料です。

赤沼村絵図

生活道路としては存続し、「鎌倉街道」の呼び名で伝承

 近世以降、「鎌倉街道」は賑わいは失われたものの、生活道路としては存続し、「鎌倉街道」の呼び名で伝承されました。享和3年(1803)刊行の黄表紙本に「鎌倉街(海)道女敵討」があります。「鎌倉街道」の名は江戸時代後期の浄瑠璃や黄表紙の文芸の世界でも親しまれていました。江戸後期に幕府が編さんした地誌「新編武蔵風土記稿」にも「鎌倉古街道」、「古道鎌倉道」の名がたくさん出てきます。

「鎌倉街(海)道女敵討」
「鎌倉街(海)道女敵討」

 昭和56・57年度の埼玉県の「歴史の道 「鎌倉街道」上道調査」は、伝承路、周辺の文化財を詳細に記録しました。道は更新され古い道が省みられなくなっていきます。伝承を記録に残していくことは重要です。

嵐山史跡の博物館展覧会ホームページ

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