東上線ときわ台駅北口からしばらく歩くと、常盤台1、2丁目あたり、しゃれた住宅街が広がる。「東の田園調布」とも称される高級住宅地、常盤台住宅である。東武鉄道が昭和10年頃から開発・分譲した。この街はどのようにしてできたのか。昔はどんな姿だったのか。板橋区立郷土資料館は、「常盤台の街と写真館」と題する企画展(令和8年10月4日まで)を開き、地域の歴史を語る豊富な写真などを展示した。学芸員の細樅(ほそもみ)雄貴さんにご説明いただいた(9月12日ギャラリートーク、画像はすべて同展展示資料)。
「東(板橋)の田園調布」とも呼ばれる高級住宅街である常盤台は、昭和10年頃から東武鉄道による開発・分譲が始まった、板橋の中でも歴史は浅い街です。
「西板線」の操車場用地だった
元々は畑が広がる何もない場所で、開発に至る物語がありました。東武鉄道が、上板橋駅から足立区の西新井駅を結ぶ新線(「西板線」)を計画したのですが、計画が頓挫。操車場用地だった常磐台が住宅地(常磐台住宅)に転用されたのです。イラストは、大正14年の東武鉄道の路線案内図で、上板橋駅から足立区の西新井駅まで伸びている点線が計画中の西板線です。

また、それより前昭和4年から6年頃には、前野飛行場(板橋飛行場)という飛行場がありました。残っている資料はあまりないのですが、昭和7年のバス時刻表には「前野飛行場前」というバス停がありました。

常盤台住宅は根津が亡くなる直前の最後の仕事
常盤台住宅の土地売買の契約書を見ると、昭和14年時には当時の東武鉄道の根津嘉一郎社長の名で結ばれています。翌年昭和15年の契約書では、根津嘉一郎の名に斜線が引かれ、3代目の社長名に差し替えられています。根津嘉一郎は昭和15年1月に亡くなっており、常盤台住宅は根津が亡くなる直前の最後の仕事だったことがわかります。

常盤台住宅の特徴は、計画的に作られた街だったことです。緑地、プロムナードという並木道、道路の奥で車が折り返せるクルドサックと呼ぶ小さなロータリーなど、独自の工夫があります。
街の平面図(区画図)を見ると、駅の北東の方から分譲が始まり、時期によってどんどん更新されていき、売却されると斜線がつきます。他に何もない土地で、天祖神社が目印になっていました。

開業時の駅名は「武蔵常磐駅」
電車の切符です。開業時の駅名は「武蔵常磐駅」で、ときわ台駅になったのは戦後です。

映画館のチラシ。今のときわ台駅の踏切のあたりに武蔵野キネマが昭和58年まで営業、 北口の今の大東京信用組合の場所には常磐映画という映画館が昭和39年までありました。

常盤台にあるホビーストア「フジヤ」の制作したジオラマです。昭和13年契約分譲開始当初の住宅で現在も残っている宮沢家です。

武蔵常磐駅のジオラマ。

常盤台写真場のジオラマ。

街を記録した常盤台写真場
常盤台写真場は、常盤台住宅最初の住民として土地を購入し、昭和12年開業しました。家族写真、結婚写真などを撮影した他、各種行事の出張撮影を行い、地域の記憶を伝えてきました。平成8年創業時の建物は江戸東京たてもの園(小金井市)に移築・復元されましたが、その後も営業を続け、令和6年に閉業しました。
本展では、常磐台写真場から寄贈いただいたスタジオ写真用カメラなど機材類、建った当初の写真を展示しています。



7月に常磐台の町会から昔のアルバムを寄贈いただき、珍しい武蔵常磐駅時代の写真などがありました。



