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沿線歴史点描⑲ 池袋デパート物語  山下龍男

デパート業界が長期低落傾向から抜け出せないようだ。たしかに、百貨店という業態自体の寿命が尽きたのではないかという気もする。少なくとも、現在のデパート数が市場規模を大きく上回っているのは確かだろう。私自身、デパートで買い物することなど数年に一度あるかないかだ。さて、景気の悪い話はこれくらいにして昔話に移ろう。

高度成長前の池袋デパート事情

あいかわらずの昭和ブームだが、デパートというものも戦後昭和を象徴する大きな要素だ。私は昭和27年、当時の菅谷村(現嵐山町)に生まれて昭和33年4月までそこで暮らしたが、年に1、2度池袋へ家族そろって買い物に行くという一大イベントがあった。行先はもちろんデパート。当時、池袋には西武デパートと東横デパート池袋店の2つがあった。まだ東武デパートはできていなかったのである。せっかく池袋に出てくるのだから、当然2つのデパートを歩いたのだが、小学校入学前のことなのであまり記憶に残っていない。ただ東横デパート下の食堂からデパートの建物を見上げたことが妙に記憶に残っている。

西武デパートは、昭和15年に武蔵野デパートとして開店した、池袋のデパートの草分けである。一方の東横デパート池袋店は昭和25年の開店。私にとって東横と西武といえばデパートの代名詞だった。

池袋のデパートラッシュ

しかし昭和33年4月に我が家は群馬県伊勢崎市に引っ越す。以後、昭和41年1月にふたたび菅谷に戻るまでのおよそ8年間、まさに高度経済成長にあたるこの時期、東上線と池袋を離れることとなった。8年後の池袋は大きく変わっていた。闇市は跡形もなく姿を消し、東横デパートは東武デパートに名を変えていた。私の留守中、昭和37年に東横デパートに隣接して東武デパート池袋店が開店し、昭和39年に東武デパートが東横デパート池袋店を買収統合したのだった。東横デパートは現在のエアキャッスル側(15階部分)にあった。当初の東武デパートは東横デパートの南に隣接し、現在のメトロポリタンプラザとエアキャッスル部分をつなぐ7階建て部分に相当する。東横デパートはエアキャッスルの増築で取りこわされたが、昭和37年建設の東武デパート部分は現在も使われている。築48年の古参建築である。

開業当時の東武デパート

西武デパートも拡張され、北側に隣接して丸物デパートが昭和33年に開店していた。昨年閉店した三越池袋店は昭和32年10月開店だそうだが、33年以前に三越池袋店に行った記憶はない。というわけで、最盛期には西武、東武、東横、三越、丸物という五つの大手デパートが池袋に勢ぞろいしていたのだから、高度成長がいかに強力だったかがわかろう。

ぶらんで~と東武へ

昭和41年東上沿線に復帰した私だが、家族で池袋に買い物というイベントはなくなっていた。再び池袋に出没するのは大学に入った昭和45年からだ。この前年、丸物が閉店してパルコとなった。百貨店という業態に変化が見られるようになったのもこのころのことだ。しかしなんといっても思い出に残るのは昭和46年11月の「ぶらんで~と東武」への変身だ。

旧東横デパート東横店部分を取りこわし、ここに地上15階建てのエアキャッスルと称する増築部分が建設された。開店当日、私は西口広場で見物していた。2階のバルコニーには何十人ものファンファーレ隊が並び、開店を告げるファンファーレが吹奏されるなど、それはにぎやかなものだった。9階から15階まではレストラン街とテナント街で、とくに10階に入った旭屋書店は電車の待ち時間にたっぷりと利用させていただいた。当時、森林公園より先は、夜8時の電車が出ると次は1時間後の9時発というダイヤで、この時間に来あわせると、たっぷり立ち読み時間が取れたものである。同じ階にはレコードショップや景色のよい喫茶店もあり、私にとって池袋で一番お気に入りの一角だった。

(本記事は「東上沿線物語」第30号=2010年7/8月に掲載したものです)

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