1.加藤瀧二・川越市長との出会いの記/印象記
(1)活を入れられた新採用の辞令交付式 「君には渡さない」、「それでいい、頼むよ」
昭和47年/1972年4月1日、川越市役所は建て替え中で、新採用職員の辞令交付式は近くの川越市民会館の会議室で行われた。人事課長の順次呼上げで加藤瀧二・市長の前に進んだ時、いきなり市長から「君には渡さない」と告げられた。剛直な印象の市長に圧倒された。
「何なのか」と戸惑い、幹部職員列席の式が静まり返った中、司会の人事課長など面識のある人事課職員サイドの方に目を向けた。頭を下げろの仕草をされ、もう一度丁寧に頭を下げた。今度は市長が演台を回り歩み寄って来て、握手をしようと言われ、「それでいい、頼むよ」と言われ、硬く手を握られたことを思い出す。まさに雲をつかんだような加藤市長との最初の出会いであった。
母が就職を祝い、上野の松坂屋で誂えてくれた紺のスーツを着ていた。髪はぼさぼさだったので、すぐ床屋に行った。それが、川越市役所職員として社会に踏み出した私の1日目であった。
新採用の辞令交付式で会うまで市長の顔も名前も知らなった。そんな姿勢がどこか不遜な態度に表れていたのだろう。加藤市長は禅僧の風貌で古武士然としていた。初対面の加藤市長にがっちりと活を入れられたのである。今はそう思う。
辞令交付式で加藤市長が何を話したのかは全く覚えていない。
その後職場の先輩諸氏と話す中で、加藤市長といえば「真善美」が座右の銘であることを知っていった。人間社会のあるべき姿、個人の心構えとして「真善美」を唱え、市民会館の大ホールでの新年の訓示等では全職員を前に1時間以上話し、「君たちは小市長である。気概を持って事にあたりたまえ」といつも闊達に述べる姿に接していった。
当初、「小市長」の意味もよくわからなかったが、頭の中にはしっかりと刻み込まれたことは明らかである。30代半ば近くで係長に昇格してから、埼玉県庁で数日間みっちりと地方自治法の講師養成研修を受けた際、この言葉「小市長」がなかなか含蓄のある言葉/表現であることを知った。
加藤市長は新採用辞令を頂いた時既に70代半ばに達していたが、超然とした自負心で市役所を預かっている雰囲気を醸し出していた。その記憶はある。存在感があった。
<加藤市長のプロフィール>

加藤市長は明治31年/1898年1月、福井県の現大野市に生まれ、旧制大野中学校を経て、福井師範本科第2部(2年制)を卒後、5年間郷里で教師をした。
大正10年上京し、東京市立第一実業学校、同一橋高等小学校、次いで北海道小樽市立高等女学校、道庁立柏木尋常高等小学校でも教鞭を執った。傍ら日本大学予科に入学し、大正15年3月、日本大学法文学部政治学科を卒業、高等文官試験に合格、昭和2年官界(内務省)に入り、拓務事務官、内閣資源局事務官となり、国家総動員体制下には企画院にもいて重要国策にも参画していた。その後、和歌山県、群馬県の経済部長、農商務省事務官、東北地方行政事務局第一部長を経て終戦時/戦後は富山県内務部長であった。
昭和18年、農商務省書記官の時、東京から1時間以内の所に住まいを探していたところ、友人/大森・埼玉県経済部長の紹介で川越に大きな屋敷(元川越市初代市長・綾部利右衛門の別邸、現宮下町)を借りられたので川越に引っ越して来た。
昭和22年、富山県知事選に出馬したが、東京府知事や内務次官歴のある地元富山の出世頭・舘哲二に敗れ官界を去った。川越に戻り荒川の堤外の指扇地区の水田を自作し、数社の社長等も兼ねた。昭和26年4月の川越市長選に立候補したが、戦後地元川越に戻り川越市長になっていた伊藤泰吉氏に敗北した。
伊藤泰吉は明治32年12月生まれ(加藤瀧二と2歳違い)の地元川越のエリートで、旧制川中から旧制一高をへて東京帝大法学部政治学科卒、高等文官試験に合格し朝鮮総督府に勤め、終戦時は同府逓信局長であった。加藤瀧二は富山県知事選同様、川越市長選でも地元エリートに敗れたのであるが、川越市長選にはその後も挑み続けた。
昭和40年9月、過去4回戦い敗れた伊藤泰吉市長が任期中に死去した後の市長選で勝利し、67歳で戦後二人目の川越市長になった。市長になり人口急増期に入った川越市政に立ち向かうに、地方自治法に精通した行政のプロを自認し健全財政を掲げ、昭和56年1月に辞職するまで実質4期務めた。4回の敗戦の間、加藤さんには産業組合(現在の農協)を基盤とした農村部の市会議員である川合喜一氏を始め、経歴に基づく人脈があり確とした支援者があり続けた。
(参考資料①川越市史第5巻現代編Ⅱ/川越市発行、昭和56年12月15日.②埼玉新聞/昭和51年11月12~13日連載、39人の顔「加藤瀧二さん(川越市長)」)
(2) 印象に残る場面/組合交渉の場で耳を傾ける姿
最初の職場は社会福祉事務所であった。生活保護のケースワーカーとして担当地域を動き回っていた。
加藤市長との接点ということでは、市役所入所後2~3年目の頃と思うが、川越市役所職員組合(自治労)の青年婦人部の役員に押し出され、青年婦人部の要求項目を掲げた市長交渉の場に臨んだことがあった。その要求の中に都内の夜間大学へ通っている市職員の待遇改善として、午後5時までの勤務拘束を大学の授業のある日は午後4時30分までとし30分間の職務専念義務免除を与えてほしいという項目があった。
私の周囲を見ると近隣の高校や定時制高校を卒業した後、更に勉学に励むべく都内/お茶の水にある明治大学や中央大学等に通学している市職員がいることを知るとともに、多くの職員がこのようなコースを得て市役所の役職者になっていることも徐々にわかってきた。一方、職場では職員のあるべき姿として自己研修に励むことが推奨されていた。
そのようなことも踏まえ発言を求め私なりに、前向きに勉学に励んでいる職員が早めの授業のある日は有給休暇(1時間の時間休)を取って、都内の大学に通っている現状を是正してほしいと述べさせてもらった。職員の自己研修支援という言葉を使ったかは覚えていないが、職場の活性化/自主的学びの風土は大事ではないかなどと述べたところ、加藤市長が耳を傾けてくれ、その場で脇にいた総務部長か人事課長かに検討しようと言ったのには驚いたことがあった。
始めて身近に接した場であったが、頑固おやじというより、時間を気にせずその場を楽しむ雑談の名手だなと感じさせられたことを覚えている。
(3)印象に残る言葉/「奔馬の奔はほとばしっていることだ」
入所4年後に企画課広報係に異動して間もなくの時だったか、加藤市長と二人になることがあった。近くに座らされ、「子どもは一人いたが4歳で亡くした」、「福井県の大野市の出身で苦学して日本大学に通い、高等文官試験に受かり内務省に入り、政府の要の企画院にもいた」などと話し、ワイシャツを捲り上げ血色の良いことを誇った。話好きで立場を問わず耳を傾けた。苦学力行の信念の人を感じさせた。
その後、企画課広報係でその一端として職員向けの庁内広報を担当していたとき、市長インタビューをしたこともあった。その場には今は亡き泉名・企画課長と福田・広報係長も同席してのものであった。泉名課長が「真善美」を話の口火にしてくれたが、私が思い切って市長のこれまでの歩みを聞いた時であった。
ざっくばらんに話す中で「ほんま」という言葉が出たので、「ほんまってどういう字ですか」と聞いたところ、「君、奔(ほん)はほとばしっていることだ、勢いよく自由奔放に動き回っている馬のことだ」と言って機嫌よく諭すように教えてくれた。市長自身が「奔馬のごとく生きてきた」と言ったのか、君は「奔馬のごとく生きろ」と言ったのか忘れたが、あの時の加藤市長の意気込んで出てきた響きは今も耳に残っている。
もう一つその時のことで覚えているのは当時、新聞等で所沢や大宮がまちづくり投資で川越に先行し、人口も所沢が川越を追い抜いているなど、何かと川越市が先頭を取る施策が少ないことが出ていた。このことを意識してか、加藤市長がまちづくりは市民の動向を見て無理することはない、一週目の先頭ではなく周りも見えて2週目の先頭がいいのだと言った言葉が自信に満ちていた。市民中心の行政、「真善美」はここにあると言っていたのであろう。それを最後に「このくらいでいいだろう」と言ってその場は終わった。
そのインタビューは録音したのだが、話しがあっちこっちに飛びまさに雑談の体を成したこともあり、こちらの忙しさに紛れてテープを起こすこともなくそのままになってしまった。
少し話題を変えて、加藤市長の奥様のことに触れてこの項目を閉じたい。
同じ企画課広報係の時、新年の挨拶か年度初めの所感か加藤市長が目を通す必要のある広報原稿を届けに市長宅に伺った際、玄関にふくよかな女性が出て来られ、奥様(*注/参照)だとわかった。市長には会わずすぐ退席したが、気持ちよく受け入れられた気がした。
30代半ばに入り事務管理係長の時だったと思うが、組織改正の議案に関係した書類を届けに、市役所から少し離れた所へ新居を構えられたお宅へも伺ったことがあった。奥様は私のことを知っていてくれて加藤市長のいる居間へ通され、お茶をいただいた。奥様はできていると聞いていたが、その上品な落ち着いた立ち居振る舞いが加藤市長を裏で支えているのだなと印象に残った。
加藤市長は若き日に教鞭を執っていたのであった。明治生まれの素養である漢文に通じていた。小学校1年の時に亡くした私の父は明治33年生まれであったが、加藤市長は明治31年生まれであったことに因縁を感じる。
*注/参照…最近、奥様は鳩山薫が学長をしていた共立女子大学の教授でもあったことを知った。鈴木咸/東上通運㈱会長著「21世紀を見窮めたい 明治・大正・昭和・平成 波乱の人生」2005年1月1日発行から引用/「忘れえぬ人々」の個所(P93):◇加藤瀧二元市長は、私を教育委員長、同市観光協会長として活用していただいた方です。奥様が共立女子大学教授でもあって、鳩山威一郎元外相とも親しく、…以下略。
圓山壽和(まるやま・としかず):地域サロンコーディネーター、川越市在住。
随想/人生何があるかわからないし面白い(4)我が師・真善美の古武士だった加藤龍二市長 目次
1.加藤瀧二・川越市長との出会いの記/印象記
(1)活(かつ)を入れられた新採用の辞令交付式
(2) 印象に残る場面/組合交渉の場で耳を傾ける姿
(3)印象に残る言葉/「奔馬(ほんま)の奔はほとばしっていることだ」
2.市役所就職の顛末/自由過ぎた大学生活からの脱出
(1)市役所への気持ちの傾き/市民社会の現場・接点
(2)生き方のバックボーン/市民社会の一員
(3)市役所の就職試験/どこも気持ちのよかった面接
3.加藤市長の実績/人口急増期の川越市の課題に安定して対処
(1)行政手法に精通し財政健全化を達成
(2)調和のとれた土地利用計画を堅持し民間委託を推進
(3)都市経営及び行政指導の視点で展開された具体的事例
(4)それまで出会ったことのない大きな人物であった
