原爆の図丸木美術館(東松山)戦争の悲惨さ描く

東松山市下唐子の都幾川のほとりに建つ原爆の図丸木美術館。55年前、画家の丸木位里(まるき・いり)・丸木俊(まるき・とし)夫妻が開いた。ここには、夫妻が原爆投下直後の広島での体験を元に共同制作した大作「原爆の図」14部が展示され、その絵筆の迫力は訪れる人を圧倒する。またここには、夫妻の作品の他、丸木位里氏の母、丸木スマさん、妹の大道(だいどう)あやさんの現代でも人を惹きつける色彩豊かな絵画も収蔵・展示されている。美術館のあらましについて、学芸員・専務理事の岡村幸宣さんにお話をうかがった。

丸木美術館全景

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水墨画にヨーロッパの前衛芸術の考え方を取り入れた最初の画家

―丸木位里さんは水墨画家だったのですか。

岡村 水墨画にヨーロッパの前衛芸術の考え方を取り入れた最初の画家の1人で、戦前から評価されていました。

―丸木俊さんは。

岡村 俊さんは洋画家で絵本も描きました。戦後の日本を代表する絵本作家の1人で、今でもロングセラーになっている絵本がいくつもあります。2人は1941年に結婚しています。

丸木夫妻(丸木美術館提供)

広島に救援に駆けつける

―2人は原爆が落ちた時広島にいたのですか。

岡村 位里さんの実家は、広島の爆心地から2.5キロくらいのところにありました。夫妻は駆けつけて救援活動を行ったわけです。1ヶ月以上滞在しました。

―どのような気持ちで広島に行かれたのでしょうか。

岡村 原子爆弾についての情報は当時はありませんでした。あくまで家族の身を案じての行動で、絵を描くためでもありませんでした。

原爆の図は1950年から1982年まで、15部の連作

―原爆の図はいつから描き始めたのですか。

岡村 東京へ帰ってすぐ描き始めたわけでもありません。それどころではない時代です。原爆というテーマに関心を寄せていくのが終戦後3年ほどたってからです。原爆の図を最初に発表したのは1950年、最後は1982年で、15部の連作になっています。最後の第15部は長崎を描いていて、長崎市の原爆資料館に収蔵されている。丸木美術館で見られるのは1部から14部です。

館内に展示される原爆の図(第8部)

―2人の共同制作なのですか。

岡村 そうです。俊さんは人間を描くのが得意で、原爆の図の人物もほとんどが俊さんが描いています。

縦1.8m*横7.2mの大きさの水墨画

―これは油絵ですか。

岡村 水墨画です。最初油絵で描く構想もあったようですが、戦後の物資のない時代です。位里さんは元々水墨画の画家ですが、身の回りにある安価な素材で大きな画面が作れる方法を選んだということもあったと思います。

原爆の図第1部(丸木美術館提供)

―原爆の図は絵が大きいです。

岡村 等身大の大画面では一度に大勢が見ることができ、見る人が広島の焼け野原に立っているような感覚になります。1950年代から80年くらいまでは8本に分かれる掛け軸(縦1.8m*横7.2m)の形でした。当時占領下で原爆の報道が禁じられ、展覧会で日本中を回ったのですが持ち運びやすいのが掛け軸でした。この美術館ができてから屏風に変わりました。

1967年に東松山に美術館を開設

―丸木夫妻は東松山のこの地に住んだのですか。

岡村 原爆の図を描いて、日本中、世界で展覧会を開きましたが、巡回展が終わった後には一つの場所で見られる場所を作りたかった。結局、東京からここに引っ越し、ここに暮らしながら美術館を作ることに決めました。1967年のことで、今年が55周年になります。

―ここの景色が気に入ったのですか。

岡村 位里さんの実家が広島の太田川の川沿いにあり、ここの都幾川の風景と似ており、気に入ったということです。

美術館庭から見る都幾川の流れ

―亡くなったのは。

岡村 位里さんは1995年、俊さんは2000年です。

戦争の悲惨さとか命の大切さを考える場所

―この美術館に何を見にきてほしいですか。

岡村 やはり第1部から14部までの原爆の図です。原爆の図が55年この場所にあると絵の内容が場所の意味として根づいてきます。だから戦争の悲惨さとか命の大切さを考えたいという人が原爆の図を見るためにこの場所に足を運んでくれる。私は原爆の図は過去の出来事を描いただけの絵ではなく、丸木夫妻が描いて人に見せたかったのは、我々の生きている世界そのもので、これから先の未来でもあると思います。

原爆の図第9部(部分)

―絵画を芸術的に鑑賞するのに平和とか反戦という観点を切り離すことはできませんか。

岡村 芸術作品とテーマを切り離すのは一面を見落とすことになると思います。画家が作品に込めた思いも芸術の大切な一部です。芸術というのは、物質としての美しさは一つの要素で、何をテーマにしているか、それが社会でどういう意味を持っているか、などいろいろな要素が組み合わさって芸術ができている。そのどれも同じように意味がある。丸木夫妻の絵を見る上では、特にそれが重要だと考えています。

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―この美術館は原爆の図の他にどのような展示を。

岡村 原爆の図以降の制作した南京大虐殺、アウシュビッツ、水俣などの図。国や民族を超えてあらゆる人々の命を考えなければならないという考えからで、同じく2人の共同制作です。

位里さんの母親、スマさんは院展に入選

―丸木スマさんとは。

岡村 位里さんの母親です。広島で被爆し、夫を原爆の翌年に亡くしそれから70歳を過ぎて描き始めた。学校に行ったことがなく、読み書きもしたことがない。訓練された技術はなかったのですが、身近な生きもの、畑仕事の風景、花とかを描き、すごく評価された。院展という日本画の展覧会に3年連続して入選した。プロが出す院展で子ども絵のようなスマさんの絵は異質で、当時とても話題になりました。スマさんの絵は、美術館ができてからずっと展示してきました。

丸木スマ「母猫」(丸木美術館提供)

位里さんの妹、大道あやさん

―大道(だいどう)あやさんは。

岡村 位里さんの妹さんです。やはり広島の人なので被爆しており、60歳を過ぎて絵を描き始めた。こちらに引っ越してきて、越生に住んだりして、身近な生き物たちとか川越のお祭りとか五百羅漢とかを題材にしています。

大道あや「解放」(丸木美術館提供)

―丸木一族は絵の才能があったのでしょうか。

岡村 芸術家一家で、生命力もあり皆さん長生きをされました。

―アトリエは残っているのですか。

岡村 美術館敷地内の川を見下ろす流々庵という建物がアトリエです。美術館建物内の小高文庫もアトリエ兼書斎に使っていました。江戸時代に東松山の本陣・小高家の書庫だった建物を移築したものです。

流々庵

―企画展も開かれる。

岡村 現在は、李晶玉さんという、30歳と若い在日朝鮮人の方の個展と、丸木俊さんの特別展示を(4月10日まで)。近年は若い世代のアーティストも企画展で紹介するようにしています。今の時代に生きている人が何を考えどんな問題に直面しているかを芸術を通して発表する場にしていくことも重要です。

オンラインで情報発信

―コロナの影響は。

岡村 2年前は2ヶ月休館しましたが、逆にそのことによって多くの方から支援を受けた。今の時代はネットの可能性が広がり、国外からの支援も増えている 元々交通の便がよい場所ではないので、オンラインで離れた場所の人達にも情報を発信しており、広い範囲からこの美術館の存在意義を理解していただき支えていただく機会がこの2年間で広がりました。コロナで苦しくなったというより、先の時代の可能性を発見していったところは大きいです。

岡村さん

美術館をリニューアル

―美術館の建て替えの計画があるのですか。

岡村 建物の老朽化が年々深刻化しており、新館建設の準備を進めています。2025年までにはリニューアルオープンの計画で、ご寄付を募っているところです。

(取材2022年4月)

丸木美術館ホームページ https://marukigallery.jp/

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