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膝折宿の歴史 (朝霞市)

国道254号線を北に進み、朝霞高校を過ぎ旧朝霞警察署のあった分岐を右に折れると、旧川越街道に入る。通称警察の坂と呼ばれる下り坂を下りると、黒目川に至る低地に左右びっしりと人家が連なる。ここは現在の地名は朝霞市膝折町、江戸時代、膝折宿の置かれた場所だ。

膝折
旧川越街道 膝折

(以下、2025年11月から12月にかけて朝霞市博物館で開催された企画展「川越街道膝折宿」展示、同館常設展示、同講演会「江戸時代の川越宿」=講師近世史研究家宮原一郎氏、『川越街道』(笹沼正巳・小泉功・井田實、聚海書林)、『東武東上線歴史散歩』(日野彰生、鷹書房)、『あさかの歴史』(朝霞市)などにより作成しました)

中山道板橋宿で分岐、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿を経て川越町に至る川越街道

 江戸時代になり、幕府によって各地と江戸を結ぶ5街道が整備され、川越街道は中山道のわき道として設けられた。成立時期は寛永年間(1624~1644)とみられている。

 川越街道のルートは、中山道板橋宿で分岐、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿の宿場を経て川越町まで10里ほどの道程だった。

中山道と川越街道(朝霞市博物館展示)

宿場には荷物の継立て(継送り)の機能

 街道の宿場の機能は、宿泊の他に荷物の継立て(継送り)があった。宿場ごとに人馬を替えてリレー方式で荷物を送っていく。宿場で常備している人馬でまかない切れない荷物が送られてきた場合は周辺の村々が人馬を提供する(助郷)。

宿場の機能(朝霞市博物館展示)

名馬鬼鹿毛の伝説が地名の由来とする説も

 膝折の里は、馬の膝が折れ曲がるほどに急坂であることからその名が起こったともされるが、名馬鬼鹿毛の伝説によるとの説もある。「鎌倉大草紙」に、応永30年(1423)、常陸の小栗満重の子、小次郎助重が盗賊の難を逃れるため、鬼鹿毛という荒馬に乗ってこの地にやってきたが、あまりに鞭を激しく打ったため馬が膝を折って死んでしまった、という。この伝説に関係する馬頭観音が新座市大和田にある。

『廻国雑記』に「ひざをり」の名

 膝折宿内にある一乗院裏あたりから多くの板碑が出土していることなどから、中世から 有力な土豪・地侍がいたとみられる。膝折の地名が現れる古い記録として、文明18年(1486)京都聖護院門跡の道興准后が武蔵・相模各国を巡り著わした『廻国雑記』に「これ(野火止)を過ぎて、ひざをりと云える里に市侍り」とあり、この頃から市が立っていたようだ。同じ『廻国雑記』に「商人はいかで立つらん膝折の市に脚籠をうるにぞ有りける」とある。「脚籠」は椀を入れる籠で、この地方の特産品だった。

 徳川時代に、膝折村は旗本佐野氏の知行地とされ、後にすべて幕領になった。『新編武蔵風土記稿』には、江戸時代後期の膝折として「村内水田は少なくして畑多し、民家百軒余あり・・また川越街道村内にかかり馬継ぎの宿あり」と記されてある。鬼鹿毛伝説は広く知られていたようで、小林一茶は『草津道の記』で「脛折駅という有、昔鬼鹿毛といへる馬の脛折りし所といふ」と書いている。

代々牛山家が務めた本陣と脇本陣村田屋

 膝折宿は、文化6年(1809)膝折村の明細帳によると、田:8町8反、畑:88町1反、家数:92軒、人口422人(後に規模は拡大)、馬:12疋。助郷村として岡、根岸、台など現朝霞市・新座市の周辺15ヶ村があった(宮原一郎氏による)。

膝折宿図(「新編武蔵風土記」国立公文書館)
膝折宿模型
膝折宿模型(朝霞市博物館常設展示)

 宿場の中ほどに本陣と、脇本陣と伝わる村田屋があった。本陣は代々牛山家が務め、名主、膝折宿の問屋も兼ね人馬の継ぎ立ての差配をしていた。本陣跡地は昨年まで郵便局だったが、今は閉所している。脇本陣と伝わる村田屋は、建物が現存している。

膝折宿本陣
本陣跡
脇本陣
脇本陣村田屋
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膝折宿の周辺に尾張藩の鷹場

 宿場は主に公用の荷物や人の継ぎ立てのために作られた。

 幕末期、孝明天皇の妹、和宮内親王を14代将軍家茂の正室に迎え、皇室との融和を図り政治危機を乗り越えようとした。文久元年(1861)10月、和宮一行は江戸を目指し京都を出発、皇女の嫁入りとあって莫大な荷物を抱え、行列は長大になった。中山道の各宿場では通常の助郷では賄いきれず、膝折宿には浦和宿から助郷を務めてほしいとの書状が届いた。川越街道の継ぎ立てだけで大変なのに機能が麻痺してしまうと困惑、名主の牛山八郎右衛門が助郷免除の嘆願書を作成し、江戸に向っている行列を目指し近江国で道中奉行に嘆願書を手渡し、その結果膝折宿は浦和宿の昼食の手伝い数人が出るにとどまり、苦難を乗り切った。

牛山八郎右衛門の像(朝霞市博物館常設展示)

 その嘆願書には、膝折宿の業務として、「仙波御宮・三芳野天神御用、日光御名代・仙波御宮名代通行、御鷹匠御用、尾州御鷹場御用、御三卿様御領地御用」、などと書き連ねてある。膝折宿の周辺は尾張藩の鷹場があり、幕府の鷹匠がしばしば訪れ、食事をしたり宿泊したりしていた。

庶民の街道利用、秩父札所巡り

 江戸時代中頃になると街道を庶民が旅に利用するようになる。博物館企画展展示によると、庶民の旅としては川越街道は秩父札所巡りの道として利用された。金子家(台村の名主)の道中日記帳によると、伊勢の御師である三日一太夫のところに泊まり、いろいろ遊びながら帰ってくる。帰り道は中山道経由で秩父札所をまわるというルートもあった。

庶民の旅ブーム(朝霞市博物館展示)

膝折から朝霞へ

 膝折には黒目川が流れ、江戸時代から水車を活用し、明治にかけ伸銅工業が発展した。黒目川の水車動力を使い、明治19年には日本で初めての板紙工場も建設されている。

 明治22年、膝折、台、根岸、岡、溝沼各村が合併し膝折村になる。大正3年東上線が開通 した際駅名は「膝折駅」だった。昭和7年、膝折村が朝霞町になり駅名も「朝霞」に、42年朝霞市が誕生した。鉄道が敷かれ、軍事関連施設が立地する前は、朝霞の歴史は膝折から始まった。

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