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神田明神・芝崎納豆

 今回、創建400年を迎えた寛永寺を取上げさせていただいた(記事)。付け焼き刃の勉強で、ややおかしな記述があるかもしれない。開山した天海大僧正が元々川越喜多院の住職であり、現在の寛永寺の根本中堂も喜多院から移築した建物であるなど、天海を通した東上沿線川越とのつながりが、寛永寺を取上げた一つの動機である。天海は、陰陽道風水に基づき江戸の町のデザインをした。寛永寺も、江戸城の鬼門の方角に位置することが上野の山に建立した大きな理由であった。江戸城の鬼門と言えば、神田明神も同様である。神田明神は元々現在の大手町に創建されその後平将門の首塚が合祀された。江戸時代になり幕府が開かれると一度駿河台に移転するが、元和二年(1616)現在地に移され「江戸総鎮守」となった。江戸城鬼門の現在地への移転には寛永寺と同じく、天海の構想が反映されているといわれる。

神田明神
神田明神
天野屋
天野屋

 神田明神の参道入口、鳥居の隣に、天野屋という甘酒屋がある。弘化三年(1846)創業。同店の地下6㍍の土室で作られる糀を用いた伝統的な手作り製法で知られるが、甘酒と並んで名物が「芝崎納豆」である。説明書きよると、神社が現在地に建てられた頃傍らに「芝崎道場」という草庵があり「金含豆」(こんがんず)という穀種を修行用に供していたのが「芝崎納豆」の前身という。また今回寛永寺記事の参考文献にした『日光東照宮 隠された真実』(宮元健次)によると、天海が初めて家康に謁見した際不老長寿の秘薬として納豆を献上した。家康は喜び、その後納豆は江戸の名物となり、「芝崎納豆」はその流れで生まれたという。天野屋の「芝崎納豆」は大粒の北海道産鶴の子大豆を使い、ねばりがあり、非常においしかったです。

芝崎納豆
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