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戦争末期の窮余の策 成増飛行場、陶製手榴弾、風船爆弾

 太平洋戦争末期、敗色濃厚な情勢で、武器も弾薬も物資も底をつき、どうしようもなく打ち出した窮余の作戦。今から振り返ると、よくそこまでがんばったなという思いと、あまりに情けない思いと複雑だ。東上沿線の歴史から、3つの例を紹介したい。
 第一は、東京・練馬、現在の光が丘団地・公園の場所にあった成増飛行場だ。B29の本土来襲を受け昭和18年末から運用された飛行場で、19年暮れから「震天制空隊」の名でB29への体当たり、特攻作戦が決行された。昭和20年3月には資材不足で機銃も車輪もない自殺機「キ-115剣」も試作されたという。  成増飛行場記事
 第二は焼き物で造った陶製手榴弾。金属が不足し、陶磁器を使った手榴弾や地雷が、「火工廠」(陸軍造兵廠川越製造所、現在のふじみ野市)の下請け工場であった浅野カーリット(現在の川越市)で製造された。主に有田焼、信楽焼を材料にしており、昭和19年夏頃から沖縄などで一部実戦に使われたがほとんど破壊力はなかったという。終戦近くには焼き物すら入手できなくなり、木製の手榴弾も造られた。 陶製手榴弾記事
 第三が、和紙で作った風船爆弾だ。最も製造量の多かった小川町の和紙業との関わりを今回取材させていただいた。元軍人の近藤至誠という人が考案し、昭和19年11月から飛ばし始めた。材料は和紙とこんにゃく糊で、爆弾と焼夷弾を積んで、偏西風に乗ってアメリカ本土に到達、被害を与える計画だった。だが実際の戦果はごくわずかだった。和紙は何層にも貼り合わせると丈夫だが、ゴム資源の代用でもあった。小川に関しては、戦争末期に多くの地下壕が建設された。これは本土決戦に備えたものだった。 風船爆弾記事

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