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元鶴ヶ島市長・日本ミャンマー友好協会会長 藤縄善朗氏が辿った波乱の歩み、高校中退、学生運動、町史編さんから市長、そして中上健次との出会い

 2005年から3期12年にわたり鶴ヶ島市長を務めた藤縄善朗さんの歩んできた道は単調ではない。学生運動で川越高校を中退、大学でも運動に関わったが、町役場に就職してからは地味な町史編さんの仕事に携わった。その間作家中上健次との出会いもあり、地方政治に目を向けるように。2001年の市長選では落選し、グループホームを経営した後、05年に市長選再挑戦で当選した。市長時代は、①県農業大学校の移転、②区画整理事業の見直し、③共助の仕組み構築、など重要課題を解決、あるいは一歩進めた。藤縄さんは今、一般社団法人日本ミャンマー友好協会の会長として、ミャンマーの人々との友好、支援に力を尽くしている。藤縄さんにお話をうかがった。

第78回ビルマ連邦記念式典(2025年)で挨拶する藤縄氏
第78回ビルマ連邦記念式典(2025年)で挨拶する藤縄氏

川越高校で学生運動、中退

―ご出身は地元ですか。

藤縄 鶴ヶ島の下新田というところです。

―家業は。

藤縄 両親とも教師でした。

―川越高校に進まれ学生運動に関わったのですね。 

藤縄 私の兄と川越高校で同級の大竹さんという人がいました。女優の大竹しのぶさんのお兄さんで、当時毛呂山に住んでいて私が中学生の時からよく家に遊びに来ていました。文学や哲学に精通し、彼に会って世の中には天才というものがいるのだと知り、驚がくし感化されました。学生運動にのめり込んだのも彼の影響です。

―川越高校は中退したのですか。

藤縄 3年の時に家を飛び出して中退しました。その後、大検を受けて國學院大學に入りました。

―民俗学を。

藤縄 そうですね。折口信夫の系統、折口学です。

市役所職員、町史の編さんの仕事を10年以上

―卒業して鶴ヶ島市役所に。

藤縄 町史の編さんの仕事を10年以上やっていました。

―一見地味な仕事で、そこから市長選に出るというのはやや飛躍がありますが。

藤縄 その後いくつかの部署を回って、ちょっとこれはおかしいとかまずいとか感じまして。

1回目の市長選挑戦に敗れ、グループホーム経営に

―2001年に1回目の市長選挑戦を。

藤縄 組織も何もないし、すべての政党は相手側ですから、とても無理だと思われていました。

―敗れたが僅差だった。

藤縄 周りはびっくりしたみたいです。

―落ちてグループホーム経営に乗り出す。

藤縄 役場で一時老人福祉センターというところにいたんですが、面白い仕事でした。高齢化の問題を強く意識しまして、これは制度を整えていかないと立ちゆかないなと思いました。で、浪人していた時、同じ思いだった知り合い3人で、私が現場を取り仕切る形で認知症高齢者グループホーム(「あったかホーム」)を始めました。

―その後ホームは。

藤縄 市長になってからは一切タッチしていません。いずれ入居しようかと。

―まだ存続はしている。

藤縄 私が立ち上げたのは2つですが、一緒にやっていた人に譲って、今グループホームは5軒ぐらい、特別養護老人ホームは3カ所運営されています。

―4年後の2005年に市長選に再出馬、当選し、3期務められた。それだけ市民に支持されたということですね。 

藤縄 そうですね(笑)。

市長としての実績(1)県農業大学校の移転

―市長として実績をあげていただくと。

藤縄 県の農業大学校が、市内の圏央鶴ヶ島インターの隣接地にありました。約40㌶の広さがあり、これを移転して(2015年)工場誘致が進められています。これは大きかった。

―大変だったのですか。

藤縄 1期目の終わり頃でしょうか、上田知事(当時)と川越でお会いして飲んだ際、「農業大学校を移転して工場誘致しませんか」と言ったら、「それは本気ですか」と。県もやりたかったが、地元は反対すると思っていたんです。それを私の方から切り出したので、すぐ乗り気になり、翌朝塩川さん(後の副知事)から電話がかかってきて「やりましょう」と。それで取り組んだのですが、いろいろ邪魔が入り参りました。県の土地を簡単に民間に払い下げるべきではない、と。本音は知事の思うようにさせないということだったと思います。

―鶴ヶ島にとっては、企業が誘致できてよかったわけですね。

藤縄 そうです。これからもいろいろと展開していくはずです。すでにIHIが進出、さらにロボット産業を集積させる「SAITAMAロボティクスセンター」建設を進めています。

―藤縄さんは上田知事(現参議院議員)とウマが合うのですね。

藤縄 私は上田さんとは盟友のような関係でした。実は私の妻が4ヶ月ほど前に亡くなったのですが、その時も上田さんは来てくれました。

市長としての実績(2)一本松土地区画整理事業の見直し

―他の実績としては。

藤縄 財政の立て直しでしょうか。でもそれは地味なので措くとして、区画整理事業の見直しかな。一本松土地区画整理事業を実質的に中止しました。区画整理の大規模な見直しは基本的に国も県もやらせません。しかし、これは、地元でまったく反対が出ないで見直しができました。

―なぜ見直しが必要だったのですか。

藤縄 高齢化、人口減少が進む中、何十年もかけて区画整理をしても意味がない、と。一本松も年間で10棟程度しか家屋移転できなかった。九百数十棟移転させる計画で100年近くかかる。現実的ではない。職員時代、区画整理課にもいて矛盾を感じていました。

市長としての実績(3)共助の体制「支え合い協議会」設置

 また共助の体制を作ろうとした。高齢化が進むと、公助は大事ですが、だんだん行政だけでは対応できなくなる。とは言え自助は無理な人が増えてくる。自治会というシステムは超高齢社会を前提としていない。そこで小学校区のエリアごとに支え合い協議会というのを組織していただき、福祉、教育、防犯・防災などを運営できる仕組みを作った。全国的にも先進的でした。ただ、今後はアップデートする必要に迫られるかもしれない。団塊の世代が退職しフリーになって活動できる場を設けるという意味もあったのですが、今は彼らも後期高齢者になってしまいました。

ミャンマーとの協力、鶴ヶ島市を東京五輪でのミャンマーのホストタウンに

―ミャンマーとの協力は。

藤縄 鶴ヶ島にお住まいの今泉清詞さんという方が、今泉記念ビルマ奨学会という奨学金制度を作られた。その関係でミャンマー人、あるいは在日ミャンマー大使館と親しくなり、東京オリンピックの時には鶴ヶ島市をミャンマーのホストタウンとしました。そうした中で私もミャンマーの人たちとつながりができました。

今泉清詞氏インタビュー

―2017年に市長を退任した後は、2018年から城西短期大学に。

藤縄 そうです。週3コマ、客員教授として4年間、地域づくりとか日本文化について講義しました。その頃、日本ミャンマー友好協会で理事になり、大学をやめたのと入れ替わりくらいに協会の会長に就任しました。

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日本ミャンマー友好協会、クーデターで民主化運動支援も

―日本ミャンマー友好協会とはどのような団体ですか。

藤縄 名前の通り、日本人とミャンマー人、あるいは日本とミャンマーとの友好を促進することを目的に、文化的な交流やミャンマー人の日本での活動のお手伝いをする団体です。元々交流がメインでしたが、2021年にミャンマーで軍によるクーデターが起こり、それに対抗する民主化運動も生まれ、我々も何かしなければと少しスタンスが変わってきました。具体的には、避難民が大勢生まれたり、軍による弾圧で国民が経済的に疲弊したこともあって、単なる友好にとどまらない支援をする必要が生じてきた。ちょうどその時期に私が会長に就任しました。学生運動や市長の経験が生きたかもしれない(笑)。

―支援とは支援金を贈るということですか。

藤縄 そういうこともするようになった。ヤンゴンのような都市部にいた若い人たちが弾圧されて山間部やタイに避難したり、地方の村も空爆がひどくてジャングルに逃げ込んだりしている。一般の国民も困窮が進んでいる。そうした困難に直面している人たちへの食糧支援や医療支援、教育支援をするために、寄付金を募ったりクラウドファンディングをやったり。この9月にも、メンバーがタイとの国境沿いのメソッドという町に行って、学校や医療機関に支援金を渡してきました。

―避難民の日本への受け入れは。

藤縄 ミャンマー国内の情勢不安があり、仕事もない。急に徴兵制度ができて街を歩いている若者が突然徴兵される。そこで緊急避難措置として在留資格の変更ができるようになった。在日ミャンマー人は、クーデターが起きた2021年段階では約3万人でしたが今は18万人います。これからは増加する在日ミャンマー人への支援に軸足を移す必要があると感じています。

増上寺で鎮魂と平和を祈る集い

―経済支援以外のイベントにはどんなものが。

藤縄 交流、支援のイベントはいろいろありますが、2021年から,22,23,25年と、東京・芝の増上寺で、増上寺のお坊さん、ミャンマー人のお寺のお坊さん合同で、亡くなった多くのミャンマー人の鎮魂と平和を祈る集いを行いました。25年はミャンマーで地震があったのでその支援も兼ねました。

ミャンマー 鎮魂と平和の集いat 増上寺(2021年)
ミャンマー 鎮魂と平和の集いat 増上寺(2021年)

―ミャンマーはどういう国だという印象ですか。

藤縄 文化的な遺跡も面白いですが、どなたも言われるように人間が魅力ですね。人とのつながりが非常にあたたかい。これが一番かな。

バゴー地方域の小学校(後景)支援に感謝する子どもたち(2020年)
バゴー地方域の小学校(後景)支援に感謝する子どもたち(2020年)

 今泉清詞さんも同じようなことをおっしゃっています。戦争中日本軍はビルマ(ミャンマー)で食料や家畜の徴発を含め酷いことをやった。今泉さんは、戦後亡くなった兵士の慰霊のためにミャンマーを訪問した際、とても歓迎されないだろうと思っていたら温かく迎えてくれた。これはミャンマーの人たちのために何とかしなければ、と考えて私費で奨学金制度を作ったそうです。

中上健次との出会い、2期目の人生を開く

―作家の故中上健次(1946~92)とお付合いがあったのですか。

藤縄 私は高校でも大学でも学生運動をやっていましたが、市役所に入った時点ですべてやめてもう静かに生活していこうと思っていました。けれどいろいろ本を読んで、ちょうどポストモダンがもてはやされる時代でしたが、地元ではミシェル・フーコーと言っても通用しない。そんなこんなで時々都内に出かけていて、あるきっかけで中上さんと知り合い親しくさせていただいた。中上さんとの出会いは私にとっては、2期目の人生のような感じです。

―それはどういう意味ですか。

藤縄 人との出会いがやけに広がりました。ある種の知的なネットワークの中に入り込んだというか。町役場で普通の人生を生きるつもりでいたんですが、中上さんとの付き合いをきっかけに「サムルノリin高麗」というイベントをやりました。中上さんが増上寺で韓国のパーカッショングループ「サムルノリ」の日本での初公演をしたのを見て衝撃を受け、これを高麗神社でやったら面白いと中上さんに相談して実現しました。中上さんが親身になってバックアップしてくれました。このイベントを通じて坂戸市の文芸評論家の絓(すが)秀実さんとか、いろいろな方との出会いも生まれました。

 ある時、雑誌「ブルータス」で中上さんと高麗神社宮司との対談があり、そのあと坂戸で酒を飲んだのですが、「藤縄、お前鶴ヶ島の町長をやれ」と言われました。もちろん冗談ですが、中上さんは「応援にビートたけしを呼んでやる」とか「応援歌を作る。坂本龍一に作曲させる。オレが作詞してやる」とか(笑)。それが(市長選に出る)きっかけ、というとウソになりますが(笑)。

鶴ヶ島は自然災害に強く人間が資源のまち

―鶴ヶ島はどういう地域で、これからどういう可能性があると考えますか。

藤縄 鶴ヶ島には山もなければ大きな川もない。平坦で面白みがないと言えばその通り。その代わりがけ崩れも洪水もない。活断層も走っていないし、日本一自然災害の起こりづらい土地ともいえます。

 一方で、ベッドタウンとして発展してきた人が造ったまちなわけです。1980年代に一気に社会増したので、ネガティブに見ればこれから高齢化がさらに進む。しかしそれを克服しつつ多様な人たちによる価値の創造も期待できる。

 鶴ヶ島は気候変動や地震などの影響を受けにくくかつ人的資源に恵まれたまちです。そこに可能性を見ることができるのではないでしょうか。

―健康はどうですか。

藤縄 私は今74歳ですが、70過ぎてから階段状に気力、体力が低下しています。認知症が心配になって先日脳神経外科で診てもらったら「悪いところまったくありませんよ」との診立てでしたが、社会的にはとっくに引き際かな。 (取材2026年9月)

藤縄さん
藤縄さん