所沢市久米の住宅街の一角、柳瀬川沿いに、緑に囲まれ長屋門と土蔵を備えた重厚な古民家が建つ。地域ゆかりの芸術家の作品を展示・公開する所沢郷土美物館だ。建物は、川越藩主松平大和守の侍医を務めた菊川儀角(ぎかく)を含め、江戸時代に5代続いた医家である平塚家の屋敷だった。同家8代に当たる館長の平塚宗臣(そうじん)さんに平塚家の歴史、美術館を開いた思いなどをうかがった。

江戸・小石川の伝通院の江戸屋敷で松平大和守の侍医を務める
―この家の歴史を教えていただけますか。
平塚 我が家は江戸時代から5代続く医者なんです。最初平塚崇順(そうじゅん)という医者がいまして、江戸・小石川の伝通院に出て勉強して医者になり向こうで開業、晩年ここ(久米村)に戻ってくる。これが初代。2代は、婿をもらった。それが菊川儀角。同じく伝通院で医者をしていて、近くに川越藩主松平大和守(2代目松平直恒)の屋敷があり、侍医を仰せつかった。
―川越藩主と言っても川越ではなく江戸屋敷だった。
平塚 皆さん、川越藩主は川越城にいたと思っているが、ほとんど江戸屋敷にいて川越は家臣が守っていた。当時は侍医は選ばれて決まっている。元々菊川儀角は、3代将軍家光が大病した時全国から選ばれた永田徳本という医者の門下生の系統でした。
―大和守が退任した後、儀角はどうなったのですか。
平塚 1810年大和守が亡くなると侍医をやめて、ここに戻ってきて開業しました。婿入りして平塚儀角だが、菊川の名が有名だったので、屋号としては菊川儀角で開業した。その次の代が3代目崇順、4代目崇順、5代目が崇本と医者が続く。その後、6代目になるはずの息子が江戸に出て勉強していたが、父親が亡くなり学費が続かなくて医者になれなかった。それが私のおじいさん。その後の私の父(義角)も私も医者にならず、今私の息子が100年ぶりに医者に復活しています。
「菊川さん」と呼ばれた
―殿様の侍医をしていたわけですから、地域ではかなり格の高い医者だったのですね。
平塚 だから、この辺の人はみんな「菊川さん」と呼んだ。私の代でもまだ「菊川さん」と呼ばれることがあります。
―当時所沢は川越藩領ですか。
平塚 そうではありません。天領の久米村です。川越藩に組み入れられたのは三富新田だけです。
1853~1856年、4代目の平塚崇順が建てた家、2005年所沢で最初の国の登録文化財に
―現在の建物はいつ建てられたのですか。
平塚 この家は、4代目の崇順の時に、昔からあった家を壊して建てた。嘉永6年から安政3年(1853~1856)です。170年になります。平成17年(2005)所沢で最初の国の登録文化財になりました。ある時、東京の建築家が見にきた。何か資料があるかと言うので、探すと建設の歴史を記した100ページ以上の和紙どめの覚書があった。建築学史上も貴重な資料だと持って帰り、文化庁へ提出した。文化庁が調べに来て、10ヶ月かかり、国の有形登録文化財に登録したいと。直接国から来たので、市も驚いたが、申請を出してくれ登録されました。

―文化財は主屋ですか。
平塚 文化財になったのは主屋と長屋門、土蔵の3つがセットです。門は今は瓦ですが、以前は茅葺きでした。所沢で江戸時代にできた長屋門はここだけです。明治になるとお金持ちや豪農は誰でも長屋門を作れるようになったが、江戸時代は徳川の許可がないとできなかった。土蔵は、明治10年頃古い土蔵を壊して造り替えた建物です。


―古い建物は維持管理が大変です。
平塚 170年間、どこも直していません。地震や台風の時も文化庁が電話してきて全部点検するようにと言われますが、今のところ無傷です。
父親が昭和53年、郷土の芸術の振興と願い、旧宅を開放して美術館を開く
―美術館を開いたのはいつですか。
平塚 私の父親義角が昭和53年、郷土の芸術の振興を願い、旧宅を開放して開きました。父は昭和61年に亡くなり、その後私が引き継ぎました。今年で開館48年になります。
―展示してあるのはどういうものですか。
平塚 郷土美術館というのは、所沢の郷土に住んでいる、あるいはゆかりのある芸術家の作品の美術館です。所沢は今人口34万人に増えて 西部地区では川越に次ぐ都市だが、元々地元に住んでいるのは4万人ほど。他はみな外から入ってきた人たちでその中には有名な芸術家がいっぱいいる。ところが市民も役所も誰もどんな芸術家が住んでいるか知らない。これでは文化都市所沢と言えない、住んでいる芸術家を知ってもらおうと、名前を郷土美術館にして、ゆかりのある有名な画家、書家、彫刻家などを、選んで飾っています。
―平塚さんのコレクションを展示しているのですか。
平塚 ここにあるのは、私が収集したとか買ったとかでなく、芸術家本人が持ってきて展示したものです。芸術家が都内の美術館で年1回くらいは展覧会を開く。その後引き揚げる時、飾ってもらいたいと言ってくる。だけどスペースが限られているから、前のと替えてもらうこともあります。
入館料は無料、日曜・祝日だけ開く
―入館料が無料。
平塚 一度もとったことがありません。ずっとボランティアです。おそらく全国でうちだけではないでしょうか。なぜそれができるかというと、開ける日が父親の時は土曜・日曜・祝日だけ、私になり土曜もやめ日曜と祝日だけ。それも冬場12月から3月は休館にします。管理人を頼んでも経費がすごく少なくて済む。こんな田舎で私立の美術館48年もできたのは、そのように細々やっているからです。毎年5月に特別展を開きますが、開館日は変わりません。
―建物は医家の造りなのですか。
平塚 この家は武家屋敷にならっています。式台のある玄関は、武家でないとできない格式のある玄関です。昔はガラス戸がなく吹き抜けでした。上がると、玄関の間、中の間、奥の間と続きます。来客用の部屋で、私が小さい頃も生活の場と分けられていました。

―診察室のような場所はないのですか。
平塚 昔の医者はみんな先生を呼びに来て自宅に行くのです。患者が来て診るのでなく駕籠に乗って訪問して診る。だから診察室はない。ただ薬を作る部屋はあります。

当時使っていた駕籠を置いています。所沢市制10周年行事で、神社の宮司が乗って行進したことがありました。


東けい堂
これが当時の医者の屋号「東けい堂」の扁額。家ができた時に、4代目宗順が書を習っていた幕末の有名な書家の萩原秋巌に書いてもらったものです。

山口操助

山口操助の「雲崗石窟」。山口は宮本三郎の弟子で、二紀会の理事・参与をつとめ、美術館開館に尽力してくれた方です。
十字架デザインの欄間

書院づくりの奥の間の欄間。文化庁が珍しいデザインだと言う。キリスト教の十字架をかたどっています。
加藤眺渓の篆刻

書家加藤眺渓の篆刻。90歳過ぎているが存命です。
柳澤朱篁の書

柳澤朱篁は皇室の書道師範で秋篠宮家紀子様の先生です。市内中富に住んでいます。
田村興造

昔のお勝手(台所)には、彫刻を置いています。吹き抜けのしゃれた部屋で、囲炉裏がある。これは田村興造「花鈿」です。
野老窯

陶芸は父義角が始めました。陶芸家を招き同好の人に教えていましたが、今は家内がやっています。
元々は銀行員
―平塚さんはおいくつですか。
平塚 89歳です。
―お仕事は何をされていた。
平塚 元々銀行員です。埼玉銀行で協和銀行との合併の時の事務局長、最後はあさひ銀行の副頭取でした。

(取材2026年7月)
