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出生の秘密、家族との死別、そして空襲。すべてを「会場芸術」に捧げた日本画家川端龍子 大田区立龍子記念館

 日本画家の川端龍子(1885-1966)は、大画面の屏風画を得意とし、画壇で独自の道を歩んだ。大田区立龍子記念館には、龍子が喜寿(77歳)の際、自分で建てた美術館と、邸宅・アトリエが残されている。訪れると、作品、建築物などから、その豪快な性格、完璧を期す美意識と、苦難の人生を感じることができる。
(以下は、同館説明板・ホームページ、龍子公園案内ガイドさんのご説明などにより作成しました)

川端龍子

 自分で建てた、上から見ると「タツノオトシゴ」の形をした美術館

龍子記念館
龍子記念館

 龍子は大正6年に院展に入選し日本美術院同人となっていたが、その後辞退。壮大な画面による「会場芸術」を主張して、昭和4年自ら青龍社を樹立し独立した。昭和34年文化勲章を受章、同38年自宅前に自らの作品を展示する美術館を開設した。費用はすべて自身が出し、建物は自ら設計した。画家が自分で美術館を建てたのは初めてと言われた。敷地576坪、建物は高床式、上から見ると「タツノオトシゴ」の形をしており、屋根の上には「龍舌蘭」の飾りがついており、随所に龍へのこだわりが見える。平成3年から大田区が施設を引き継いでいる。

川端龍子「孫悟空」(龍子記念館展示)

自宅の御形荘は、終戦の2日前、昭和20年8月13日の空襲によって大破

 美術館に道路をはさんで隣接する777坪の広さの邸宅・アトリエ跡と庭園は、決められた時間に係の方の案内で見学することができる。

龍子公園案内板

 龍子は大正9年(1920)当地に移り住み、住まいを「御形荘」と名づけた。御形とは母子草のこと。昭和13年には画室を新築した。御形荘は、終戦の2日前、昭和20年8月13日の空襲によって大破した。龍子は「爆弾散華」という作品を描き、爆弾でできた穴に池を作り、「爆弾散華の池」と名づけた。爆弾散華とは、爆発で野菜が飛び散ることを意味する。

爆弾散華の池
爆弾散華の池

 新しい母屋は昭和23年に完成した。龍子はここに亡くなるまで住んだ。アトリエは空襲で焼けずに残った。中門からアトリエへの通路には、龍をイメージしたうろこ状の石畳が敷かれている。

アトリエへの通路

広さ60畳、高さ4㍍のアトリエ

 大作を描くため自分で設計したアトリエは当時のまま残されている。高床式で、広さ60畳、高さ4㍍。大きなガラスは特注。雨戸はない。採光のため庇が方角によって長さが異なる。龍子は朝9時から夜9時まで、亡くなる直前までここで仕事をした。

アトリエ
アトリエ内部

 龍子は修善寺に別荘を持っていて、樹木やテイカズラ、ゼンマイ、イタドリなどなどの植物をここまで運んだ。伊豆へのこだわりがあり、河津桜も植えられている。

龍子公園庭園
庭園

3人の子、妻、弟を亡くす

 龍子はは戦前に長男と次女を亡くし、昭和16年には弟の茅舎(俳人)が病没、戦中は三男が戦死、昭和19年に妻に先立たれた。その供養のため、自宅の奥に持仏堂を設け古仏を置き、その前には俵屋宗達作と伝わる襖があった。ただ、仏像、襖は国宝級の文化財のため現在は東京国立博物館に寄贈されている。

自宅
持仏堂のある間

戸籍上、外にでできた子であったことから「龍」にこだわり

 「龍子」という雅号は、自伝によると、龍子は戸籍上、外にでできた子であったことによるという。父母がそれぞれの家の跡取りで法的に結婚できず、父が認知をして川端になった。事実を知って衝撃を受け、「自分は誰の子?龍が落とした子ではないか」から「龍」を連想したという。父とはその後も疎遠だった。

 龍子は龍へのこだわりが強かった。龍の絵としては、浅草寺、目黒不動の天井画の他、池上本門寺大堂の天井画の龍は未完のまま死去。死後奥村土牛が目を入れたが、「未完の龍」とされている。

「未完の龍」の天井画のある池上本門寺大堂
「未完の龍」の天井画のある池上本門寺大堂

龍子記念館ホームページ